ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

空を見上げて思うこと

昨日の夜から雨が降り出していたので、今日の農作業はどうなるのかなぁと思っていたのですが、明け方には雨はやんでおりました。そして山の中の畑は濃ゆ〜い霧に包まれており、少し肌寒い中作業をスタートしました。おかげ様で暑い日差しも遮られていたので、ゆったりとぶどうの誘引ができました。

 

最近、私も農民らしく?なってきたのか、全然地べたとか、乾いていれば草むらでも横になれるようになってきました。やっぱり時々蟻とかちっちゃい蜘蛛とかが服の中に侵入してきたりすることもあるのですけど。動じることなく、手で掴んで逃がすことができますから。大したものですよね。小学生のときとかは、バッタ、セミ、カマキリ、カブトムシと、素手で悠々と掴めていたのですからね。大人になるとどうして虫が苦手になる人が多いのでしょうか。不思議ですね。

 

そうやって横になっている時って、ゆったりと身体を休めているのですけど、なんともいえない落ち着きというか、安らぎがあるんです。そのまま眠たくなったら昼寝をしてしまうし、頭が動いている時には、お得意のモレスキンを開いて思ったこととか、アイデア、やりたいこととか書いたりしては、何も考えることく眺めていたりします。休憩もそんなに長くはないのですけど、横になっているときは時間がすぎるのが遅く感じます。

 

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勾配のある畑から

 

もちろん地面とキスをするつもりはないので、当然仰向けに寝ているのですけど。そうなると目の前には空がどこまでも広がっています。雲があるときは動きを追っていたり、快晴のときは青一面。地元にいた時は海を見てどこまで続いているのだろうって感じることがあったのですが、山梨に来てからは空の広大さに気づくようになりました。だから悩んだ時には空をみるんです。っていいたいところですが、あんまし悩むことがないので湧いてきたゆったりと感情を味わっています。マインドフルネスに近いのでしょうか。

 

 

「自分はこれからどう生きていきたいのだろう」

「これからどこに向かっていくのだろう」

「いまやりたいことはなんだろう」

 

 

なんて事をゆったり受け止めながら、味わいながら自問自答しています

(もちろん病んでいるわけはありません)

 

 

どうしてそんな風に考えるようになったかといえば、いろいろと理由があるのですが、その中の一つに。あるインタビューを聞いたことがあります。ホスピスのお医者さんのインタビューだったのですが、そのインタビューの中で末期の患者さんが病床でおっしゃっていた事の話。というのがあって。とても印象に残っていることがあったのです「◯◯をしておけばよかった」と言うのはもちろんあるのですけど、ほかに印象に残ったことがあります。それは

 

 

「今まで□□や、△△とか色々やりたい事やってきたけど。今となっては残るものもなく、虚しいだけ。本当にやりたいことではなかったかもしれない。

 

 

その言葉は頭から離れません。今やっていることはやりたい事をやっている自負はありますが、自分がやっていることは本当にやりたいことなのか?と考える事が習慣になってしまいました定点チェックというべきでしょうか。もしかしたら、親がやってほしいことを自分がやりたい事と勘違いしているかもしれない、友人・知人のやりたいことに巻き込まれていて人の人生を生きている。それを、自分のやりたいことと勘違いしているかもしれないって。地域のためにボランティアなど通じて、貢献したい!というのも、心から自分がやりたいことなのか?とも考えることもあります。誰かのために役になっているからいいことなんだと自分に思い込ませているだけかもしれないって。

 

 

現代って目まぐるしい環境の中にある。なんて事をいいますが、周囲の影響を受けているといつの間にか時間だけが過ぎていて、ふと気づいた時には遅いということにならないためにも。立ち止まる時間を作って、定期的に自分と向き合う時間をとると、やばい!◯◯をしなければ!なんて気づくこともあるかもしれませんよ。

 

 

なんてね。今日の頭の中のぐるぐるはこんな感じ。

最近は小難しい事ばかり書いてる気がしてなりませんね(大丈夫かな。自分w)

 

それほど農作業しながら違うことばかりを考えているのでしょうね。いいのか悪いのか(笑

 

なんだか書いていて、私が一番魅力的に思える人、慕いたい人、惹かれる人って、有名な人でも、すごいことをやった人とかではなくて。自分と向き合うことができている人。人柄というか人間力のある人。それが私にとっての「面白い人」なのかもしれません。