良きなかの悪の芽
今シーズンのぶどうの収穫が終わり、しばらくゆったり過ごしていましたが。先週から来シーズンに向けて、ゆっくりと動き出しました。年内には棚のメンテナンス、 藁巻き、肥料撒きやらと。雪が降る前にやっておきたい。というか、寒い時期にはちと辛い作業を順番にこなしていきます。昼夜の気温差もだいぶでてきているのであっという間に秋が終わり、冬を迎えてしまうのだろうなぁと・・・。なんともガリガリ君な私には厳しい季節がまたやってきます。冬は嫌いじゃないよ。
そんな中、先週末は北杜市までお出かけ。秋の紅葉を楽しむために・・・と言いたいところですが。今回は前述の作業につかう「藁」を引き取りにいきました。毎年この時期になると、師匠の知人に頼んで手配をしていただくそうですが。今年は例年の倍の量をたのんであるということで、トラック2台を空にして、一緒に出向くことになりました。
出向いた先は小淵沢駅周辺の集落で、南アルプスが目の前に。後ろを振り向けば八ヶ岳。というようななんとも素晴らしい景観の場所で。見渡す限り延々と田んぼが広がっていました。田んぼはすでに稲の刈り取りを終え、水は抜かれ、脱穀が済んだ後。その脱穀を終えたあとの藁が、等間隔に田んぼに並んでいます。その藁をトラックに積む込むのがメインの作業です。
トラックを田んぼへ乗り入れていざスタート。藁を5、6束を拾い集めては、両手いっぱいに抱えながらトラックへ行ったり来たり。その作業がえんえんと2時間近く続きました。いつもぶどう畑で作業しているので全然大丈夫だよって、元気良く運んでいたのですが。まあ疲れる疲れる。やはりつかう体の部分が違うので、作業中も体が重く。お家に帰るとなんとも全身が筋肉痛でした。特に腰。負担が大きいようです。
田んぼに足を踏み入れたのは小学校以来・・・か。
そんななって疲労感はあるとはいっても、少しばかし暑く感じる日差しに吹く抜けていく気持ちのよい風。汗をかいているのですが、それもすぐに引いていく感じでなんともよい日和でした。ああ、こういところで、お米と野菜を過ごしながらのんびり生活していくのもいいなぁと、なんともステレオタイプな私はそう思い。ふとこう話しかけました。
「とてもいいところに住んでいますね〜」
って。そうすると。
「今の時期はいいのだけれどね。これから寒くなってくるでしょう。そうすると、山から北風が吹き下ろしてきて、冷たい風の吹き溜まりになって厳しいものだよ」
「ああ・・・、そうなんですね」
と。いい部分しか見えていなかった私ですが、そういわれるどれだけ寒いのだろうか、やっぱり雪も結構積もるのかなぁと・・・想像が膨らんでしまって、興味が尽きることがありませんでした。私の地元では雪なんかめったに降らないというか、数十年に一度くらいしか降らないというか、そもそも風花が舞うだけでピーピーギャーギャー騒いじゃう感じなので。つい数年前に私が山梨にきた時でも、冬のことを想像しては戦々恐々といていたのがつい最近のことですから。そう考えると、やはり静岡は温暖で過ごしやすい地域だなぁと今更ながらに。
さて、今日は1日お家にこもって作業をしておりました。妹夫妻から依頼されていた印刷物はすべて手配が終わり、ずっと編集しては、再生してと繰り返し直していたムービーも形になってパッケージング。ようやく一息つくことができました。前にムービーを製作している時も全然やったことなくて、手探り状態で本屋さんにいったり、ネットで調べたりと。本当に私にできるのかしら?ってところからスタートしているのですが、もう数えていくと5回くらい編集とかしていて慣れたものになっています。いつになったら自分のやつを作るのだろうかとか思うけれど。きっとそれまでにもう何回か他のをやるのだろうと想像してしまっているので。そうなりそうです。
こうして作業ばかりしているので、先日友人に「頼まれごとをするのはいいけどさ〜」とチクリといわれてしまいました。(ごめんなさい)しかし、こうして何かしら人の役に立てていることはやっぱり嬉しいことですし。何かを頼まれるということは、その能力が自分のなかにあるんだと思うんです。もしその時にその能力がなくても、その依頼を通じてできるようになるかもしれませんし。それが他のことへの誘い水になるやもしれません。いまここ。
ということで、片手にペンとマウスを持ち替えながらデスクに向かっていたのですが。たっぷりと時間があるので、先日入手した新しいオーディオブックをお耳のお供にしながら作業をしようと思い立ち、朝からずっと聞き流していました。
菜根譚。
なんどか聞いたことのあったりなかったり。もしやすると誰かが勧めてくれていたかもしれないなぁと。初めは日本の経営者の方々がやれ「論語と算盤」だって。やれ「渋沢栄一さん」だって。そうお話ししているのを聞いて興味を持ち始め。孔子の論語を繰り返しずっと聞くようになって、そこから中国古典に親しむようになってくると、その中国古典の成り立ちがわかってくる。中国三千年の歴史って、よくわからないキラーフレーズに慣れてしまった私には。中国の中で独自に発展して行ったのだとばかり思っていたけれど、その時々の王朝、時代によって仏教が流行ってきたり、禅が幅を占めるときもあったりといろいろな学問や宗教の影響が入ってきて、いろいろな考えを取り入れていったと、新たな発見があります。
聞き流しているなか「おっ」これはという箇所があったので少しだけ。
悪をなして人に知られんことを畏るるは、
悪中にもなお善路有り。
善をなして人に知られんことを急ぐは、
善処もすなわちこれ悪根なり。
「善行のなかに悪の芽」
かりに悪事をはたらいても、人に知られることを恐れているなら、まだ見所がある。
せっかく善行を積んでも、早く人に知られたいと願うようでは、すでに悪の芽を宿している。
ちょうど今の自分の境遇と重なっているような感じがして。ブログでも知られるように?書いているようにみえますし。何度か聞き直してしまいました。
せっかく善行を積んでも、早く人に知られたいと願うようでは、すでに悪の芽を宿している。
この一文にはなにか気づかされるものがありました。初めからそう期待しているのでは、初めから偽善になってしまうとも。
「自分は良いことした」
と率直に感じる事柄であればあるほどに、密かにそれが人に伝わって自分の印象に帰ってこないかなぁと。やっぱり思っているなぁって。ようは
「いいことをするのはよく思われたいから」
その感情を弱めようとしても、心のどこかにいつも残っています。だからといっていい悪いの話ではないですが。
しかし私は昔から自分がやったこと、結果や実績についてはあまり話をしません。それは恥ずかしいから、前職のパッケージデザインをしている時も「◯◯君が作ったやつ見せてよ〜」と友人にいわれてもひけらかして見せることができませんでしたし。多分別の理由で、自己肯定感のなさなどからきているものだなぁと今は振り返ることができます。
少し話が逸れました。
なんだか最近の事件やらスキャンダルやらに「正しそうな」意見を書き始めてしまうと。悪の芽はもう育っているんでしょうか。何かしら周囲が認めてくれたことを、さらに表に出すようにするのもそうなのだろうか。いろいろ浮かんでは消えていきますが、そんな肝の小さな私には悪の芽が育つような栄養が乏しそうなので、大丈夫にも思えてきました。
悪の芽が育っていないか。これを自分に問いかけることはものすごく重く鋭い質問ではありますが、自らを戒めるにはとても効果がありそうです。
悪の芽。
あなたの心には宿っていませんか?
うにうに、うねうね。
ん〜やっぱ朝は冷えるようになったなぁと。寝床でうにうにしていると。
カチャッ。ガチャッ。
と、なにやら外から小気味よく音が聞こえてきます。おっと。今日は清掃の日だった。急いで寝巻きをそこらへ脱ぎ捨てて。まずはくつした・・くつしたと。そうして作業ズボンとウインドブレーカーをはおって玄関の戸を開けます。やいやい。メガネ、メガネ。かけ忘れたメガネをかけて、ノブを掴むと。おっと。ぐんて、軍手。ぼうし、帽子と。全然準備しきれない。そうしてひとりあたふたしきったあとに、ようやく外の空気をゆっくりと吸い込む。ひんやりと冷たい。そこへ温もりのある日差しを感じてなんとも心地よい。
わたしが住んでいる市営の集合住宅では、冬以外は月に一度の清掃があります。そう。清掃という名の草取り。棒の先端に半円の刃がついている道具で草の生えた地面を掻いていくんです。カチャッ、カチャッっと、あちらこちらで。始まると皆黙々と作業をしていきます。刈り払い機を使って一気にやればいいのにって、なんとも不効率なことをやるものだと初めは思っていたわたしも。こうやって皆で外で作業することで。顔合わせから安否の確認。それにちょっとばかしでも体を動かすことになるので、ちょうどいいのかもしれないなと思うようになりました。というかここには別に効率とかいらないよねって。
そうして、いつものように清掃を終えたあとは、そのまま自分の野菜畑へと向かいました。昨日、事前に準備をしておいたマルチ(黒いビニールシートにぽこぽこ穴が開いているやつ)を張りに。もうすぐ玉ねぎとにんにくを植える時期です。マルチを綺麗にピタッと張るには、まずは幅にあった畝を立て、周囲に土をかぶせなければなりません。初めはクワで大まかに土を寄せていって、そのあとにまっすぐ平行になるように棒をおいていって。手持ちのシャベルで掘ったり、叩いて均したりと。しゃがみながらチマチマと畝を整えていきます。そうして満足出来る形になったら、たてたばかりの畝の上にマルチを覆いかぶせて。まずは角から。そうして左右。上下と。これまたシャベルで整えていきます。なかなか野菜の師匠には「畝を立てるのは難しいよ」って言われているとおり。何度やってもうまくいかないなぁ、時間がかかるなぁと、思いながらも。まあ、前よりはうまくできるっぽい。
去年よりはいいはず。
土地をもっと集約してとか、IT、IoTをもっと導入してとか、企業が参入して、効率をもっと上げなければと。話題に上がることが多いですけど。半分以上の人は他人事のようにいってるようにも見えるし。理由は何かしらあるにせよ。つまるところ、結局そうならないのって、コストとか環境とかいろいろ言われていますけど。面白く、楽しくないからなんだろうなぁと思ったりします。おじいちゃん、おばあちゃんたちの畑にいる時のイキイキ感といったら。
その一方で、自分は楽しみでやっているのでいいのですが、最近では悪天候続きで野菜の価格が高止まりしているとの話をちらちらと聞くことがあります。台風の被害と合わせて報道やニュースが載った時には、野菜が高くなるのは困るとか、旬を味わうことができないやら。表面だけで受け取ってしまうと、なんとも自分都合なことしか言ってないなぁと感じることがあります。
たまたまわたしは農に関わりを持つことができたので、少ないながら農業って大変だなって、作る人側から思えるようになっているのですが。人の手がかかっているとはいえ、そういったリスクがあるのが自然物だし。人の手を介してもどうしようもない時はどうしようもないんですよね。そういったものを含めて「まあしょうがないよね」って。またそう思える心持ちになれるかどうかが普段の心の余裕になるのかなぁって。
そんなことを言いながら、秋に巻いたほうれん草と、ビーツは日照不足で育ちがが悪かったり、そもそも芽が出なくて数回蒔き直したりしているので。いやぁ〜どうしたもんかなぁと。その気持ちをどこかに向かわせたいながらも、まあ太陽に文句言ってもしょうがないもんね。といったりきたりの繰り返しなのですが。
こうした時に、周囲や、他の人へと向かうのではなくて。自分の普段の何気ない生活をふりかえって。あたりまえって続かないよなぁと。もっと感謝をしなければ。そういえばあの出来事は・・・。そう他の事柄を違う面から見る、考える。思えるチャンスを授けてもらっているのかもしれないな、とわたしの頭はうまくできてます。
そうやって。頭の中で考えながら。ひとりにやにや満足をしながら、おうちへの帰路につきました。
しかも。家について時計を見ると。まだ9時半になってない。ひとりなんだか得した気分だと。なんとも幸せな気分でどうしよう。
どうしましょうか。わたし。
収穫が終わってからは、幾分にもこんな風なので。まあゆったりと、のんびりなんです。正直言ってすーぱー効率の悪いことをやっているのですけど。別にいいんですよね。だって効率をもとめているわけではないから。こうして効率の悪いことは一見無駄なことのように見えて、必要なことだったりするかも?なんて。
そうそう。まったく関係なけれど。spotifyめっちゃいいですね。ビジネスモデルとか、システムとか、無料とか有料とかの話はどっか他を探してもらえば色々と載っていると思うのでそっちを見てもらうとして。とりあえずコードが届いたのでお試しで使ってみたら。これがなんとも。フリーだと、曲はシャッフルのみ、時々広告が流れるって感じなんですが。わたしは広告はあんまし気になりませんでした。
わたしは音楽を普段からよく聞いています。わたしの好みって70s~90sくらいのR&Bを筆頭に、SOUL、FUNKとブラックミュージックな感じがぴたんこなんですが。シャッフルってとってもいい感じ。ちょうど自分の好きな曲が流れたり、知らない曲だけどなんかとってもいい感じって出会いもあるし。しばらくお家で作業をしているのですが全然飽きませんね。プレイリストもとっても洗練されていて。聞いていて違和感がありません。ユーザー数がマンモス級なので。ここは、さすがなぁと。わたしはずっと同じ曲ばかり聴いていると飽きてしまうので、とってもいいなぁと。
日本の市場に悪影響を与えるとか、与えないとかでなかなかサービスをスタートできなかったそうですが。ユーザーには新しい音楽とともにアーティストさんを知ることができるので、広がりはありそうな気がするけれど。
これはこれで。他人事になってしまうやも。ですね。
こだわってくれてありがとう
今シーズンのぶどうの収穫が終わりました。春からせわしなく過ごしていたシーズンもこれでおしまい。「あっという間に過ぎそうです」ってそのまま言葉通りでした。少し休んだから来シーズンの作業に変わります。とりあえず、税金類をまとめて先払いしたり、携帯電話をSIMフリーへと変えたり、2年ぶりにお出かけ用の靴を買い換えたり、実家に戻ってお墓まいりして、兄弟の依頼物をまとめて仕上げたりと。まあやりたかったけどやっていなかったことを片っ端から。
今日は久々に甲府まで出て行きました。目的は図書館で本を読むため。徒歩1、2分の最寄駅から電車に乗って。こんなときでないと電車に乗らない私のSuicaは今日もお財布のよくわからないポケットに入ってる。出発間際になって慌てて確認をしてほっとするのもつかの間、チャージしたのはいつだったかと記憶を辿ります。そうして結局はいつもと同じように思い出せないまま、とりあえず簡易改札を通っては「おお!思ったより残高があるじゃん」ってね。
電車に乗るときはだいたい平日だからか、乗客はいつもまばら。車両の中を見渡すとリュックを背負ったご高齢の方、スーツをきたサラリーマン風の人。多分大学生だろうなって人などがぽつりぽつりと。そんな観察をしている私も他の人からはどんな風に見えているのだろうと気になりつつも、視線を下げた先にあるスマートフォンの方が気になるわよねとも。
甲府駅に着いたら北口へ。図書館に向かうと見せかけて。まずは素通り。その前に近くにあるコーヒースタンドで一杯のラテを飲むのが楽しみなんです。平日の午前中にお店の外で何も考えないでぽーっとしながら。目の前は大学に向かう若者がひとり、またひとりと通り過ぎていく。少し前までは私も若者のつもりでいたけれど。学生がとっても若く見えて仕方がないなぁと思いを巡らしていると、いつのまにラテはなくなって底が見えてる。そろそろ向かおうかな。
正直言って私の生活は畑とお家の往復の行動範囲と、私の好みのフィルターを一枚噛ませたネットの世界だけ。それでは世の中の動向を知ることができないのです。そしてなによりも井の中の蛙?世間知らず?よくわかりませんが、そんな状態です。山梨にすんでからテレビを置いていないし、その前から通算すると6年以上はテレビが身近にありません。ですので悪あがき程度に、経済やらデザインやら関心のある雑誌を10誌くらい斜め読みして。そのあとはふと目に止まったものをまたパラパラとこれまた10誌くらい。そんなことしてたら3時間くらいあっと今に過ぎてました。
図書館のあとのことは特に目的もないので。ちょっと一駅分歩いてみようかなってふと思い立ち。甲府駅〜酒折駅間をあるいてみることにしました。ちょうどお味噌も切れたところだったのでちょうどいいな〜と。別にこだわっているわけではないのだけれど。二年前から五味醤油さんのお味噌を愛用しているんです。毎回面白いイベントをやっていたり、東京でもよくワークショップやら登壇したりとメディアでも取り上げられることが多いので知っている方が多いと思いますが。いつも車で訪ねるのですが、初めて歩いて行ってみました。近くも遠くもないのですが、だいたい20分ちょい。あっという間ですね。
直営店の暖簾をくぐると。もう買うものは決まっているので。ささっと目的のお味噌を前に行って手にとります。私がいつも買っているのは「甲州やまごみそ」「米こうじみそ」それぞれ1kgずつ。私は使う材料や料理によって使い分けたり、気分に合わせて「今日はどっちのお味噌を使おうかなぁ」って選ぶのも小さな楽しみだったりします。
とはいえ、炒め物には「やまごみそ」の方がコクがあっておいしいかなぁ。お豆腐とネギのシンプルなお味噌汁には「米こうじ」の方が好きだなぁ。いやいや、煮込むんだったら「やまごみそ」だよと。結局どっちもおいしいんですけどね。Instagram にちょくちょく手料理をアップするのですがお味噌系。多いかも。
だし入りのお味噌とか食べれなくなるよ。あれは味噌じゃない
いつもは車で行くので気になりませんでしたが、数キロ歩くにはけっこうずっしり2kgですね。なんかいつもよりも重く感じました。
↑ お味噌好きなあなたも、そうじゃない方もお味噌の面白いお話 ↑
いつもの通り会計をお願いすると。初めてこんなことを言われました。
「お味噌にこだわってくれてありがとうございます」
私はきょとんとしてしまって。
「いえいえ」
と言いながら、支払いを済ませると。
「サービスでもなんでもないですが」
と、金額の端数をおまけしてくれました。
「すみません。ありがとうございます」
っと私。
「お味噌にこだわってくれてありがとうございます」
またそう言われた私は
「そんなそんな」って控えめに店舗をあとにしました。
こだわっているもなにも、毎日食べているし・・・ん〜なんか違和感。一番特にこだわっているつもりはなかったのですけど。確かにわざわざお味噌屋さんにいって毎回2kgお味噌を買っている成年男子をみたら変に見えるのかしら?一丁前に行きつけのお店感をだして人に「このお味噌おいしいよ」って人にも紹介しているのが一番大きいかも。すみません。
噂のKANENTE
五味醤油さんから酒折駅までだいたい30分くらい。ずっしりお味噌が入った袋を握りしめながら色々と考えていました。
お味噌汁。私の定番なのですが。お味噌の消費量って年々減少の一途をたどっていると。ニュースなどで見かけて久しいのですがどれくらい減っているのかなんか興味が湧いてきたんで。ちょっとばかし調べてみると
全国味噌工業協同組合連合会さんが発表しているものがありました。
今は便利な世の中ですね。
都道府県庁所在市別、1人当たりのみそ購入数量(g)
全国平均
平成12年 2,502 g
平成22年 2,098 g
減少の一途というのも分かる気がしました。しかしその前に。おいおい。お味噌ってそんなもんしか食べないのかね?って。なんですね。
トップは長野県で3.6kgくらいのようです。
年間約2kgですって。思った以上に少なく感じました。だって私なんか1月で1kg以上消費しているものですから。もしかしてちょっと特殊なんですかね。ほぼ毎日のお味噌汁に、味噌炒めとか麻婆系のご飯とか。夏とかきゅうりを毎日かじっていたのでもっと消費してたかもしれないですから。
素人ながら理由を考えてみれば。
食の欧米化
って今は多様化っていうんでしょうか?いつの話だよっていうね
減塩志向の高まり
なんかスーパー行くと多いですものね。減塩。塩分◯◯%カットとか。お味噌って大豆・塩に対して米・麦などの麹を加える。ってことでお塩多そうですよね。まあ減塩商品ってほとんどがグルタミン酸ナトリウム(いわゆる旨味調味料)が多いイメージがあるのでそれはそれで気になる人は買わないのでしょうけど。
そもそも料理をしなくなった
多分うまいとか下手とかは別にして、私は料理を作る方だと自覚しているのですが。あんまし料理しないんですよねみんな。そもそもお味噌汁ってあんまし作らないのかしら?わからないけれど。むかし友人がグツグツ煮え立った熱湯にお味噌をそのまま溶いて野菜を放り込んで、じっくり煮込んでいるのを見て、「お出汁は・・・」「おあ!野菜が溶けておる・・・」と、閉口したことを思い出しました。
お米を食べなくなった=お味噌を食べない
なんかお米食べる時ってお味噌汁がつきそうイメージです。
なんて最後は適当な感じですけど。お味噌の健康パワーとかが特集されているのを雑誌やTVで見かけるたびに「お味噌」ってもう日常ではないんだなと感じざるを得ないのでした。
新しく買った靴はいい感じに足にフィットしていい感じ。やっぱり靴を新調すると、はきたい、歩きたい、見せたいって。お出かけしたくなるから不思議ですね。オシャレは足元からとは言いますが、靴を定期的に買い換えるだけでみんな外へと出るんじゃないかなって思うくらいに。ここにもこだわり。ありそうです。
丁寧にかきなさい
いよいよ葡萄の収穫も終わりが見えてきました。あっという間に怒涛の9月はいつの間にか過ぎていて、この時期にはいつも以上に聞いているはずのEW&FのSeptember*1
を肝心の9月に聴くのを忘れていたのを今思い出しました(実際は9月の曲ではないのだけれど)
朝はもやもや。
明日は出荷場の都合でお休みになるので。のんびりといいたいところですが。ありがたいことに頼まれごとがあるので、一日そちらに取り組むことになりそうです。
最近はその他にも頼まれごとが増えてきまして。自分の無理のない範囲で依頼を受けさせていただいています。今は妹の結婚式の準備でてんやわんやですが。不思議なもので昼間は畑に出て、夜に少しだけデスクに向かって書いたり、パソコン触ってしているのがちょうどいい感じで。昼間は頭のなかでひらめきがあって。お家に帰って来たら頭から取り出して形にしてみる。いい感じのループに入っています。
と、順風満帆のようにかいておりますが。実際のところは畑から帰ってくると。家事、炊事、洗濯を終えると睡魔がいい感じにやってきて。なんども挑んでいるのですが勝てた試しがありません。九時前後には眠気のピークがくるので、使い物にならなくなります。なので。できることが限られてくるので。「今日はこれだけはやろう!」という思考が働いて。それが達成できたら万々歳。それが数行の文字を打ち込むことであっても、少しだけラフ、落書きをした。そんなことだったとしても。できた事にしてしまいます。
そうなるとどうでしょうか。はじめはちょっとしか進まないのですけど。余裕が生まれてくるんです。「もうちょっと進められそうだ」って。そうしたときにはそのまま継続してやることにします。そうすると。おお〜今日は結構進んだぞってなるんです。これを慣れと読んでいいのかわかりませんが。
結局これって、自分に嫌な体験をさせないってことだと思うのです。そんな自分を甘やかしてどうするっていわれそうだし、そんなにうまくいくわけ無いだろうって聞こえてきそうですが。
無理をする ≠ 嫌なことをする
これは同義語ではないと思うのです。また。
大変 ≠ 辛い
にも見ることができるかなぁとも。
そうそう。そういえば、むかし小学校のときの書き方(習字)の授業での先生と同級生のやりとりを思い出しました。
同 : 先生〜、赤で直されても、俺は字が下手だからうまく書けません。
先 : うまく書けなくてもいいから「丁寧」に書いてきなさい。
同 : そういわれてもきれいに書けません。
先 : きれいじゃなくて「丁寧」に書けばいいんです。
字がうまく書けなくてもね。丁寧に書いているかどうかはわかりますよ。
うまい・きれい ≠ 丁寧
これってすごく的を得ている話だと、今更ながら思うわけです。書いている人がどれだけ真剣なのか。心を込めて書いているか。表面上をつくろうだけ・真似することだけでは伝わらない何かがあるんだよと。勝手に深読みをしています。
この例がどれだけ前につながっているかはわかりませんけど。何事も自分に有利に働くようにしてしまえばいいんじゃないかって話。どんなことでもちょっとだけ見る角度でも、捉え方でも言い方はなんでもいいので。自分に都合よく解釈してみる。そうすると気持ちも楽だし。なによりも余裕がうまれてくると思いました。
今更ですが、前職は一応デザイナーの肩書をもって働いていたので。なんとなくデザインができたりします(現職の方には怒られそうなレベルかもですが)
数年前にデザイナーとして雇って頂いていて、それでスキルが身についた上に、生活をさせて頂いていたのでなんともありがたいことだと。ようやく感じるようになった私なのですが。当時はまだまだ若く浅はかな考えばかりで、全然わかりませんでした。しまいには「やらされ感」をもって仕事をしていた部分が0ではなかったなぁと。そんなんだから、クライアントさんの意向を汲み取れていないし、汲み取ろうとすることも少なかったなぁと。謝る事柄しか出てこない。
その「やらされ感」っていうのがとても厄介なやつでして当時はよく苦しめられました。「そんなのできないよ」って思考が生まれてくるんです。これって一種の反発だと私は思っていて。これが続いていくと本当はできるはずの事柄なのにできないように錯覚しちゃう。難易度も高くしちゃう。言い換えるとするならば「できない理由をたくさんみつけちゃう」ってことに。そうして良い結果、望んだ結果が得られなかったときに「ほら。やっぱりできなかった」と自分を納得させるようになると。
そんな悪循環だったのですけど。そこから離れてみて。とりあえずできる範囲でデザインとかやったりすると。いつの間にか身についているものに気づいてきて、ああ。あれもできるね。これもできるね。嬉しいね。って意外と俺はできるかもしれないぞ!ってなるんです。
まあ、ぶどう栽培も始めのころは半分くらい。実際にやってみて。無理だったら地元に逃げ帰ろうって思っていて。「俺はチャレンジしてみたけどだめだったんだ!」という実績を作って逃げ帰ろうとばかり思っていたのに。いつの間にか3シーズン目になっているわけですから。面白いですよね。
できることを無理せずに始める。
言い古されているかもだけれど。効用は思う以上に大きなうねりとチカラを運んできそうです。
さて。私も時間がもうすぐできそうなので。その前に次は何をしようかって。横になりつつ、ニヤニヤしながら想像したいとおもいます。
ミチルとケツボウ
天候不順です。台風です。曇り空です。まったく太陽はどこへ行ってしまったのだというくらいに、すっきりしないお天気が続いておりますね。相変わらずぶどうの収穫が続いておりますが、朝早くから畑に行っては、カッパを着ながら濡れながら作業をする日々。収穫が終わるころには全身がびしょびしょになっているわけですが、まあ寒い寒い。私たちの地域はもう収穫が峠を越えるか越えないかというところ。これからぶどうの収穫を迎える地域にはちょっと日照不足が心配なところかもしれません。
雨だと、余計に疲れるってさ。
また、野菜畑について連日の雨続きで数日様子を見にいけていません。
ずっと晴れている時には
「雨降れば水やりの手間がなくなるのになぁ」
と思うのですが、ずっと雨が続いてしまうと今度は
「種撒いたばかりなのに、根腐れしないだろうか、実が割れないだろうか」
って今度は太陽を待つようになる。
ちょっと前には渇水の話題を目にしていたら、今度は水害の話題が一面を賑わせているのも似たような部分を感じます。満たされすぎれば、どこかで欠乏がでてくるといいますか。結局は偏り過ぎるとなんだか心配になってくる。そんなものなのかもしれません。
最近は朝早く起きて畑にいって、暗くなったらお家に帰って早く寝る。そんな生活が続いていますが。面白いもので最近は色々なことを無駄に考えがちになるんです。
俗に言う
「毎日が同じことの繰り返しで・・・」
って状態になっているんです。ある意味これも偏りなんだと解釈していますが。
ちょうどそんなタイミングで、最近妹の結婚式の準備とかを手伝っているんです。兄弟なのをいいことにこき使われていて、そうして色々な印刷物やら映像やらを組んでいく中で、当然昔の写真などを見るのですが、その中に私の小さいころの写真も所々に写っていて「おうおう格好つけて写っているわ〜」「目つき悪いなぁ、とげとげしているなぁ」と幼き自分を目にしては。一人で感慨深くなっています。
その影響があるのかないのかわかりませんが、よく夢を見るんですよ。それもなんか昔の回想が入り混じっているような。特に印象に残っているのは(といってもちと曖昧なところもありますが)、小さい頃から今の大人になるまでのストーリーが勝手に進んで行く夢(もろにプロフィールムービー作ってる影響なんだと)最後は今の年齢まで行くんです。そうして、周囲には友人やら知人やらがいて、その友人たちの成長ぶりや、活躍を目にしている自分は、友人と自分とを比べていて。「俺はいままで何をやってきたんだろう」って。なんだか後悔しているのかなんなのか、元気がないのです。そこからなんか変な渦に巻き込まれていって「うわぁ〜」ってなったところで、目が覚める。と。
起きたら忙しなく動いているので考える暇はないのですが、ぶどうの収穫が終わったあとに、屋内で出荷の準備をしているときに、そういえば面白い夢だったなぁ、いい具合に今の潜在意識と顕在意識が混ざったような・・・と、なんとなく夢をまた回想し始めるわけです。そうしているうちにその日が終わって、お家に帰ると。そうしたらまた夢を見て・・・。
あっ。これすらも
「同じことの繰り返しで・・・」
ってなってる。
・・・。
こんなことを毎日やっていると、ある言葉がでてくるのです。
人生は選べる
やっぱり人生って自分で選択をしているんだよなぁと、つくづく。今農業に携わっているのも結局自分の口から出した言葉から始まっているようにも。
専門学校の同級生にあうと、「ずっと農業をやるっていっていたもんね〜」って普通に言われますし。
私は工業高校出身なのですが、入試面接のとき「モノづくりに興味があって」とかいってましたけど。モノってその時は機械とかを指しているように見えて、農産物だったのかもとか・・・。
その前は小学校の時にうさぎやニワトリの面倒はあまり見なかったけど、さつま芋とか真剣に水やりやっていたかもとか・・・。
ああ、幼稚園の時時に文集に「くだものやさんになりたい」って書いていたわぁ・・・。
やばいぞ。自分で言った事をもれなくやっているようにも見える。俺はすごいやつかもしれない。と、思い出補正全開、ポジティブまっしぐらなんですが。なんだかちょうど「自分を思い出す」という機会を妹が授けてくれたようにも見えてきました。
好きな著者さんの和田裕美さんが陽転思考の中でおっしゃっていること。
事実はひとつ 考え方はふたつ
過去を振り返ることをネガティブに捉えるような方もいらっしゃいますが、自分を思い出す。ということにおいては、新しい発見、いやもともと持っていたモノを見つけることができるかもしれませんよ。
ということで、皆さんもどんどん夢をみましょう。
と他人事のようで申し訳ないですが・・・。
私は今日もいい夢?見れそうです。いや見そうだわ。
おやすみなさい。
2択は1択
早い畑では早くも葉が落ち始めています。作業場に流れているラジオを聴いていると、どうやら秋の気配がそこまで来ていると。早朝から畑でぶどうを収穫して作業場で詰めているわけですが、昼間の暑さとは反対に、朝採りしたぶどうはひんやりと冷たく感じ、昼間との寒暖差がでているのをしみじみ。今はぶどうの収穫がピーク。出荷場には大小関係なく多くのトラックが途切れることなくやってきては、離れていく。その光景をみていると。なんだかあっという間に過ぎ去っていきそうで、一種の寂しさを感じます。
忙しないのは嬉しいことよね。
収穫は今回で3回目になりました。というか、もう3年目なんです。ほんとあっという間。20代は、30代は、あっという間に過ぎ去っていくと諸先輩方には何度か言われたことがあるけれど。まあそれだけ頭の中に記憶が蓄積されているわけなので、ふとしたときに思い出しやすくなるのかもしれませんね。
さて、まだ3年。もう3年。人によって捉え方が変わってくるし、他の人のことはわかりませんけど。最近は妙にある言葉を考えることがあります。
置かれた場所で咲きなさい
確か本は読んだことはないのだけれど。ふと思い出しては、なんども浮かんでは消えていくんです。普通に会社を辞めてから、なんやかんやで畑へと飛び出していった私ですけど。辞める前にしきりに自分に問いかけていたことがあって。
「このままでいいのか」
という問いを自分に課していたんです。悩んで?はいたけれど。結局は都合の良い「人生は一度きりなんだから好きなことをやったほうがいいよ」って言葉に頼ったりしながら、「このままではよくないです」と答えを出してみたわけですけど。こうして数年自分で選んだ「好きなこと」をやってみるとまたやってきたんですよね。
「このままでいいのか」 って。
おっかしいなぁ。自分はこのままではよくないので、今の道を選んだのですけど、またよくなくなってきたんですよね。そうなってくると。どうでしょうか。
- 新しいことを始める機会がやってきているのか・・・
- この問いが出ているときは逃げの気持ちのサインかもしれない。
- どこへ行ってもその答えってないんじゃないかなって思ったり。
そうして行ったり来たりしているだけだと。自分にいい都合をつけて。「選択をしない」という選択をとって、とりあえず現状維持になってしまうのが常なのですが。
こうして考えてみると。何か物事に対してちゃんと答えを出しているようですけど。本当の答えってどこにもないので。何事も行動した後では、都合のいい答えをそのとき出しているだけのようにも見えます。誰しも自分の行動は間違いだったなぁとは思いたくないわけです。
ちょうどそんなことを考えているときに。私がいつもチェックしているブログに面白いことが書いてありました。
人生において大事なことは選択肢を2択にしないこと
・・・・
だいたい選択肢が2つしかないときって、実は1択になっていて、選択肢は自ずと決められてしまっている状況にあって、まー、あれですが、”Noしかいえない”とか、”迷わずにSay Yes”みたいなことなわけで、反対の選択肢は事実上ないに等しいみたいなことが往々にしてあって、そういうときに第三、第四の道を見つけることで、追い込まれないようにしつつ最良の選択をしていくことが常々大事だなって思っているのです。
これを読んでみたら。まあそうよね。確かに2択のときって決まってるわぁと。ひとり感嘆の息だったのはいうまでもありませんが。
なんでも考えているときには、無理やりにでも答えを導き出すことをしてしまいがちで、そうすれば今ある不安やら、悩みやらから解放されるような気がしますけど。それは短絡的なことで。解放されるのは一時的なもの。実は答えを見つけるのではなく、答えはわからんけど。これでもいいかもしれないなぁと。それがおっしゃっているような余裕を生むのでしょうか。
まあ今日もよくわからないことを書き連ねてしまいました。
昨日は昼間の畑仕事がちょっとだけ早く切り上げることができたので、自分の野菜畑に新たな種を蒔いてきました。とりあえず今手持ちの種を一通り蒔いてきましたよ。
- ベビーリーフ
- サニーレタス
- 春菊
- 三つ葉(初めて蒔いた)
- ビーツ
ビーツは春ものよりも、ちょっと気温が低くなる時期のほうがいい感じで成長するらしいのでちょっと楽しみかも。意外と私の周囲ではビーツに興味がある方々がおるので。うまくできれば・・・ね。三つ葉はちょと蒔きすぎた感はあるけれど。お味噌汁とかにちょっと添えるだけでなんだか高貴な気分になるので期待しちゃってる。夏野菜もひと段落で、残るはナス、ししとう、ピーマン、ゴーヤ、空芯菜くらい。空芯菜は暴れまくって困ってたり。秋茄子は美味しいと聞きます。が、毎日採ったものを食卓に並べているわりによくわかりません。毎日美味しいんですよね・・・悪しからず。
不便な人差し指を眺めては
久しぶりに包丁で手を切りました。この前切ったのは2年以上前だったような。やっぱり切ると痛いですね。それも今回は人差し指。絆創膏が巻いてあるだけでとっても不便です。こうしてキーボードを打っている時でさえ違和感があります。まあ包丁の扱いが悪かったのもそうなのですが今回は色々状況が重なってしまって。
ちょうど空芯菜の下ごしらえ中にドアベルがなったのです。ガスコンロは二口空いているし、玄関周りは今日収穫した野菜が散らばっていて。おうおうこのタイミングでくるかねって。そうして手元から目を離したところでスパッと。しかもその時はパンツ一丁の姿だったので。そうして指を口にくわえたまま、タンクトップとズボンを履いて出迎えました。
誰かといえば、市の職員さんが建物の点検らしく。ぱしゃぱしゃと写真をとっておかえりになりました。
この時の私の心がどう反応したか。なんか我ながらまだまだだなぁと思ったり。
やっぱりただの人間だなぁと。
チャイムがなります。
そしてすぐに指を切る。
「イテッ」
そのあとすぐ
「タイミング悪いなぁ、なんでこのタイミングでくるんだよ」
2回目のチャイムがなる
「あんたたちのせいで指を切ってしまったじゃないか、あせらせるなよ」
扉をあける。
部屋の点検をさせてくださいって。
そして点検が終わる「なにか不備な点はありますか」って
少しきになる点があるので、確認をお願いする。
「ご協力ありがとうございました」
「いえいえ、お手数をおかけしました」
職員さんも仕事だもんなぁ。怪訝な顔をしながら対応してしてしまった。
丁寧に対応をしてくれたのに申し訳無かったなぁ。やいやい。
とまあこんな感じの流れ。
指を切ったのは誰のせいかって。私のせい。
タイミングが悪い時を狙ってきているわけではない。
自分も反応がなければ2回目のチャイムをならすはず。
・・・
正直にいうと、2回目のチャイムが今回の怒りのピーク。市の職員さんが帰られてすぐに「手を切ったのを人のせいにしている」と怒りの原因がわかったので、すぐに怒りから解放されて、これも一種の学びだなぁと思えるわけです。なにか悪いと思われることが起きた時には完全に「他責の人」になっています。普段私は色々な人におせっかいながらも、それっぽいことを話しをしているけれど、おせっかいできる人間ではないなぁと反省モードに移行します。
そこからはここ最近の出来事の回想が始まって。上から目線で話をしていたかもしれないとか。価値観を押し付けていないか。ひとつの出来事から自らを振り返ることができるのです。
口が達者なのをいいことに、友人が話しをしているのに話を折って私の話をしてしまったり。普段ぶどうの仕事をしている際、師匠から「こうしなさい」「こうしたほうがいいよ」などとアドバイスなどを頂くことに対しても「そんなことはわかっているよ」と、何かと言い訳がましいことを言っている自分に気がつきます。なんとも情けないやら。
宰予の昼寝 公冶長篇
宰予、昼寝ぬ。子曰わく、朽木は雕るべからず、糞土の牆は朽るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子曰わく、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是改む
論語物語より
詳細は勝手に調べてみていただければ。
誤って改むるに躊躇してはならぬ。過ちは一時のことじゃ。しかし、誤って改めなければそれこそ救い難い過ちで、生涯を誤り通すことになってしまう。
何を言っても口先で人を言いくるめようとする心だけはよろしくない。
良い人を見たら見習えばいいし、悪い人をみたら自らを省みればいい。
憎んではならぬ、蔑んではならぬ、ただ銘々に自分を省みればそれでいいのじゃ。
このエピソードは特に耳に残っています。まったくもって言い得て妙な。
普段私たちは
良い人をみては、「あいつは◯◯だからできるんだよ」
悪い人をみては、「こうしないと。ああしないからだ」
特に最近ではネット上で誰でも自らの意思を表現することが簡単になりました。そこでは個々人の主観に立って多くの意見が散見されます。果たしてその中に自らを省みている人はどれくらいいるのでしょうか(もちろん私も含めて)
相手の立場になって考えられる人は、まずはどんなことでも、起こったことに対し「自分ごと」として考えることができる人なのかなぁと。なんとなくそんな答えが。
と、それっぽく。
見逃していたゴーヤが半分黄色になってた。
ぶどうの収穫は来週の頭から本格稼働です。その前に朝から野菜畑を綺麗にしてきました。春に植えた苗も収穫を終えつつあり、半分以上を切ったり抜いたりして、秋に向けて耕す。もうこんなにいらないよと言っていた野菜たちも収穫量が減ってくるとなんだか寂しくもあり、「食べきれないよ」って言っている時にはわからなかった「ありがたみ」がひしひしと湧いてきます。これも満たされている時には気づけないことですね。感謝をしながら、今日も明日も明後日も採りすぎた空芯菜と向き合いたいと思います。
そうそう。炒めるだけでとってもおいしいんんですよ。空芯菜。