こだわってくれてありがとう
今シーズンのぶどうの収穫が終わりました。春からせわしなく過ごしていたシーズンもこれでおしまい。「あっという間に過ぎそうです」ってそのまま言葉通りでした。少し休んだから来シーズンの作業に変わります。とりあえず、税金類をまとめて先払いしたり、携帯電話をSIMフリーへと変えたり、2年ぶりにお出かけ用の靴を買い換えたり、実家に戻ってお墓まいりして、兄弟の依頼物をまとめて仕上げたりと。まあやりたかったけどやっていなかったことを片っ端から。
今日は久々に甲府まで出て行きました。目的は図書館で本を読むため。徒歩1、2分の最寄駅から電車に乗って。こんなときでないと電車に乗らない私のSuicaは今日もお財布のよくわからないポケットに入ってる。出発間際になって慌てて確認をしてほっとするのもつかの間、チャージしたのはいつだったかと記憶を辿ります。そうして結局はいつもと同じように思い出せないまま、とりあえず簡易改札を通っては「おお!思ったより残高があるじゃん」ってね。
電車に乗るときはだいたい平日だからか、乗客はいつもまばら。車両の中を見渡すとリュックを背負ったご高齢の方、スーツをきたサラリーマン風の人。多分大学生だろうなって人などがぽつりぽつりと。そんな観察をしている私も他の人からはどんな風に見えているのだろうと気になりつつも、視線を下げた先にあるスマートフォンの方が気になるわよねとも。
甲府駅に着いたら北口へ。図書館に向かうと見せかけて。まずは素通り。その前に近くにあるコーヒースタンドで一杯のラテを飲むのが楽しみなんです。平日の午前中にお店の外で何も考えないでぽーっとしながら。目の前は大学に向かう若者がひとり、またひとりと通り過ぎていく。少し前までは私も若者のつもりでいたけれど。学生がとっても若く見えて仕方がないなぁと思いを巡らしていると、いつのまにラテはなくなって底が見えてる。そろそろ向かおうかな。
正直言って私の生活は畑とお家の往復の行動範囲と、私の好みのフィルターを一枚噛ませたネットの世界だけ。それでは世の中の動向を知ることができないのです。そしてなによりも井の中の蛙?世間知らず?よくわかりませんが、そんな状態です。山梨にすんでからテレビを置いていないし、その前から通算すると6年以上はテレビが身近にありません。ですので悪あがき程度に、経済やらデザインやら関心のある雑誌を10誌くらい斜め読みして。そのあとはふと目に止まったものをまたパラパラとこれまた10誌くらい。そんなことしてたら3時間くらいあっと今に過ぎてました。
図書館のあとのことは特に目的もないので。ちょっと一駅分歩いてみようかなってふと思い立ち。甲府駅〜酒折駅間をあるいてみることにしました。ちょうどお味噌も切れたところだったのでちょうどいいな〜と。別にこだわっているわけではないのだけれど。二年前から五味醤油さんのお味噌を愛用しているんです。毎回面白いイベントをやっていたり、東京でもよくワークショップやら登壇したりとメディアでも取り上げられることが多いので知っている方が多いと思いますが。いつも車で訪ねるのですが、初めて歩いて行ってみました。近くも遠くもないのですが、だいたい20分ちょい。あっという間ですね。
直営店の暖簾をくぐると。もう買うものは決まっているので。ささっと目的のお味噌を前に行って手にとります。私がいつも買っているのは「甲州やまごみそ」「米こうじみそ」それぞれ1kgずつ。私は使う材料や料理によって使い分けたり、気分に合わせて「今日はどっちのお味噌を使おうかなぁ」って選ぶのも小さな楽しみだったりします。
とはいえ、炒め物には「やまごみそ」の方がコクがあっておいしいかなぁ。お豆腐とネギのシンプルなお味噌汁には「米こうじ」の方が好きだなぁ。いやいや、煮込むんだったら「やまごみそ」だよと。結局どっちもおいしいんですけどね。Instagram にちょくちょく手料理をアップするのですがお味噌系。多いかも。
だし入りのお味噌とか食べれなくなるよ。あれは味噌じゃない
いつもは車で行くので気になりませんでしたが、数キロ歩くにはけっこうずっしり2kgですね。なんかいつもよりも重く感じました。
↑ お味噌好きなあなたも、そうじゃない方もお味噌の面白いお話 ↑
いつもの通り会計をお願いすると。初めてこんなことを言われました。
「お味噌にこだわってくれてありがとうございます」
私はきょとんとしてしまって。
「いえいえ」
と言いながら、支払いを済ませると。
「サービスでもなんでもないですが」
と、金額の端数をおまけしてくれました。
「すみません。ありがとうございます」
っと私。
「お味噌にこだわってくれてありがとうございます」
またそう言われた私は
「そんなそんな」って控えめに店舗をあとにしました。
こだわっているもなにも、毎日食べているし・・・ん〜なんか違和感。一番特にこだわっているつもりはなかったのですけど。確かにわざわざお味噌屋さんにいって毎回2kgお味噌を買っている成年男子をみたら変に見えるのかしら?一丁前に行きつけのお店感をだして人に「このお味噌おいしいよ」って人にも紹介しているのが一番大きいかも。すみません。
噂のKANENTE
五味醤油さんから酒折駅までだいたい30分くらい。ずっしりお味噌が入った袋を握りしめながら色々と考えていました。
お味噌汁。私の定番なのですが。お味噌の消費量って年々減少の一途をたどっていると。ニュースなどで見かけて久しいのですがどれくらい減っているのかなんか興味が湧いてきたんで。ちょっとばかし調べてみると
全国味噌工業協同組合連合会さんが発表しているものがありました。
今は便利な世の中ですね。
都道府県庁所在市別、1人当たりのみそ購入数量(g)
全国平均
平成12年 2,502 g
平成22年 2,098 g
減少の一途というのも分かる気がしました。しかしその前に。おいおい。お味噌ってそんなもんしか食べないのかね?って。なんですね。
トップは長野県で3.6kgくらいのようです。
年間約2kgですって。思った以上に少なく感じました。だって私なんか1月で1kg以上消費しているものですから。もしかしてちょっと特殊なんですかね。ほぼ毎日のお味噌汁に、味噌炒めとか麻婆系のご飯とか。夏とかきゅうりを毎日かじっていたのでもっと消費してたかもしれないですから。
素人ながら理由を考えてみれば。
食の欧米化
って今は多様化っていうんでしょうか?いつの話だよっていうね
減塩志向の高まり
なんかスーパー行くと多いですものね。減塩。塩分◯◯%カットとか。お味噌って大豆・塩に対して米・麦などの麹を加える。ってことでお塩多そうですよね。まあ減塩商品ってほとんどがグルタミン酸ナトリウム(いわゆる旨味調味料)が多いイメージがあるのでそれはそれで気になる人は買わないのでしょうけど。
そもそも料理をしなくなった
多分うまいとか下手とかは別にして、私は料理を作る方だと自覚しているのですが。あんまし料理しないんですよねみんな。そもそもお味噌汁ってあんまし作らないのかしら?わからないけれど。むかし友人がグツグツ煮え立った熱湯にお味噌をそのまま溶いて野菜を放り込んで、じっくり煮込んでいるのを見て、「お出汁は・・・」「おあ!野菜が溶けておる・・・」と、閉口したことを思い出しました。
お米を食べなくなった=お味噌を食べない
なんかお米食べる時ってお味噌汁がつきそうイメージです。
なんて最後は適当な感じですけど。お味噌の健康パワーとかが特集されているのを雑誌やTVで見かけるたびに「お味噌」ってもう日常ではないんだなと感じざるを得ないのでした。
新しく買った靴はいい感じに足にフィットしていい感じ。やっぱり靴を新調すると、はきたい、歩きたい、見せたいって。お出かけしたくなるから不思議ですね。オシャレは足元からとは言いますが、靴を定期的に買い換えるだけでみんな外へと出るんじゃないかなって思うくらいに。ここにもこだわり。ありそうです。
丁寧にかきなさい
いよいよ葡萄の収穫も終わりが見えてきました。あっという間に怒涛の9月はいつの間にか過ぎていて、この時期にはいつも以上に聞いているはずのEW&FのSeptember*1
を肝心の9月に聴くのを忘れていたのを今思い出しました(実際は9月の曲ではないのだけれど)
朝はもやもや。
明日は出荷場の都合でお休みになるので。のんびりといいたいところですが。ありがたいことに頼まれごとがあるので、一日そちらに取り組むことになりそうです。
最近はその他にも頼まれごとが増えてきまして。自分の無理のない範囲で依頼を受けさせていただいています。今は妹の結婚式の準備でてんやわんやですが。不思議なもので昼間は畑に出て、夜に少しだけデスクに向かって書いたり、パソコン触ってしているのがちょうどいい感じで。昼間は頭のなかでひらめきがあって。お家に帰って来たら頭から取り出して形にしてみる。いい感じのループに入っています。
と、順風満帆のようにかいておりますが。実際のところは畑から帰ってくると。家事、炊事、洗濯を終えると睡魔がいい感じにやってきて。なんども挑んでいるのですが勝てた試しがありません。九時前後には眠気のピークがくるので、使い物にならなくなります。なので。できることが限られてくるので。「今日はこれだけはやろう!」という思考が働いて。それが達成できたら万々歳。それが数行の文字を打ち込むことであっても、少しだけラフ、落書きをした。そんなことだったとしても。できた事にしてしまいます。
そうなるとどうでしょうか。はじめはちょっとしか進まないのですけど。余裕が生まれてくるんです。「もうちょっと進められそうだ」って。そうしたときにはそのまま継続してやることにします。そうすると。おお〜今日は結構進んだぞってなるんです。これを慣れと読んでいいのかわかりませんが。
結局これって、自分に嫌な体験をさせないってことだと思うのです。そんな自分を甘やかしてどうするっていわれそうだし、そんなにうまくいくわけ無いだろうって聞こえてきそうですが。
無理をする ≠ 嫌なことをする
これは同義語ではないと思うのです。また。
大変 ≠ 辛い
にも見ることができるかなぁとも。
そうそう。そういえば、むかし小学校のときの書き方(習字)の授業での先生と同級生のやりとりを思い出しました。
同 : 先生〜、赤で直されても、俺は字が下手だからうまく書けません。
先 : うまく書けなくてもいいから「丁寧」に書いてきなさい。
同 : そういわれてもきれいに書けません。
先 : きれいじゃなくて「丁寧」に書けばいいんです。
字がうまく書けなくてもね。丁寧に書いているかどうかはわかりますよ。
うまい・きれい ≠ 丁寧
これってすごく的を得ている話だと、今更ながら思うわけです。書いている人がどれだけ真剣なのか。心を込めて書いているか。表面上をつくろうだけ・真似することだけでは伝わらない何かがあるんだよと。勝手に深読みをしています。
この例がどれだけ前につながっているかはわかりませんけど。何事も自分に有利に働くようにしてしまえばいいんじゃないかって話。どんなことでもちょっとだけ見る角度でも、捉え方でも言い方はなんでもいいので。自分に都合よく解釈してみる。そうすると気持ちも楽だし。なによりも余裕がうまれてくると思いました。
今更ですが、前職は一応デザイナーの肩書をもって働いていたので。なんとなくデザインができたりします(現職の方には怒られそうなレベルかもですが)
数年前にデザイナーとして雇って頂いていて、それでスキルが身についた上に、生活をさせて頂いていたのでなんともありがたいことだと。ようやく感じるようになった私なのですが。当時はまだまだ若く浅はかな考えばかりで、全然わかりませんでした。しまいには「やらされ感」をもって仕事をしていた部分が0ではなかったなぁと。そんなんだから、クライアントさんの意向を汲み取れていないし、汲み取ろうとすることも少なかったなぁと。謝る事柄しか出てこない。
その「やらされ感」っていうのがとても厄介なやつでして当時はよく苦しめられました。「そんなのできないよ」って思考が生まれてくるんです。これって一種の反発だと私は思っていて。これが続いていくと本当はできるはずの事柄なのにできないように錯覚しちゃう。難易度も高くしちゃう。言い換えるとするならば「できない理由をたくさんみつけちゃう」ってことに。そうして良い結果、望んだ結果が得られなかったときに「ほら。やっぱりできなかった」と自分を納得させるようになると。
そんな悪循環だったのですけど。そこから離れてみて。とりあえずできる範囲でデザインとかやったりすると。いつの間にか身についているものに気づいてきて、ああ。あれもできるね。これもできるね。嬉しいね。って意外と俺はできるかもしれないぞ!ってなるんです。
まあ、ぶどう栽培も始めのころは半分くらい。実際にやってみて。無理だったら地元に逃げ帰ろうって思っていて。「俺はチャレンジしてみたけどだめだったんだ!」という実績を作って逃げ帰ろうとばかり思っていたのに。いつの間にか3シーズン目になっているわけですから。面白いですよね。
できることを無理せずに始める。
言い古されているかもだけれど。効用は思う以上に大きなうねりとチカラを運んできそうです。
さて。私も時間がもうすぐできそうなので。その前に次は何をしようかって。横になりつつ、ニヤニヤしながら想像したいとおもいます。
ミチルとケツボウ
天候不順です。台風です。曇り空です。まったく太陽はどこへ行ってしまったのだというくらいに、すっきりしないお天気が続いておりますね。相変わらずぶどうの収穫が続いておりますが、朝早くから畑に行っては、カッパを着ながら濡れながら作業をする日々。収穫が終わるころには全身がびしょびしょになっているわけですが、まあ寒い寒い。私たちの地域はもう収穫が峠を越えるか越えないかというところ。これからぶどうの収穫を迎える地域にはちょっと日照不足が心配なところかもしれません。
雨だと、余計に疲れるってさ。
また、野菜畑について連日の雨続きで数日様子を見にいけていません。
ずっと晴れている時には
「雨降れば水やりの手間がなくなるのになぁ」
と思うのですが、ずっと雨が続いてしまうと今度は
「種撒いたばかりなのに、根腐れしないだろうか、実が割れないだろうか」
って今度は太陽を待つようになる。
ちょっと前には渇水の話題を目にしていたら、今度は水害の話題が一面を賑わせているのも似たような部分を感じます。満たされすぎれば、どこかで欠乏がでてくるといいますか。結局は偏り過ぎるとなんだか心配になってくる。そんなものなのかもしれません。
最近は朝早く起きて畑にいって、暗くなったらお家に帰って早く寝る。そんな生活が続いていますが。面白いもので最近は色々なことを無駄に考えがちになるんです。
俗に言う
「毎日が同じことの繰り返しで・・・」
って状態になっているんです。ある意味これも偏りなんだと解釈していますが。
ちょうどそんなタイミングで、最近妹の結婚式の準備とかを手伝っているんです。兄弟なのをいいことにこき使われていて、そうして色々な印刷物やら映像やらを組んでいく中で、当然昔の写真などを見るのですが、その中に私の小さいころの写真も所々に写っていて「おうおう格好つけて写っているわ〜」「目つき悪いなぁ、とげとげしているなぁ」と幼き自分を目にしては。一人で感慨深くなっています。
その影響があるのかないのかわかりませんが、よく夢を見るんですよ。それもなんか昔の回想が入り混じっているような。特に印象に残っているのは(といってもちと曖昧なところもありますが)、小さい頃から今の大人になるまでのストーリーが勝手に進んで行く夢(もろにプロフィールムービー作ってる影響なんだと)最後は今の年齢まで行くんです。そうして、周囲には友人やら知人やらがいて、その友人たちの成長ぶりや、活躍を目にしている自分は、友人と自分とを比べていて。「俺はいままで何をやってきたんだろう」って。なんだか後悔しているのかなんなのか、元気がないのです。そこからなんか変な渦に巻き込まれていって「うわぁ〜」ってなったところで、目が覚める。と。
起きたら忙しなく動いているので考える暇はないのですが、ぶどうの収穫が終わったあとに、屋内で出荷の準備をしているときに、そういえば面白い夢だったなぁ、いい具合に今の潜在意識と顕在意識が混ざったような・・・と、なんとなく夢をまた回想し始めるわけです。そうしているうちにその日が終わって、お家に帰ると。そうしたらまた夢を見て・・・。
あっ。これすらも
「同じことの繰り返しで・・・」
ってなってる。
・・・。
こんなことを毎日やっていると、ある言葉がでてくるのです。
人生は選べる
やっぱり人生って自分で選択をしているんだよなぁと、つくづく。今農業に携わっているのも結局自分の口から出した言葉から始まっているようにも。
専門学校の同級生にあうと、「ずっと農業をやるっていっていたもんね〜」って普通に言われますし。
私は工業高校出身なのですが、入試面接のとき「モノづくりに興味があって」とかいってましたけど。モノってその時は機械とかを指しているように見えて、農産物だったのかもとか・・・。
その前は小学校の時にうさぎやニワトリの面倒はあまり見なかったけど、さつま芋とか真剣に水やりやっていたかもとか・・・。
ああ、幼稚園の時時に文集に「くだものやさんになりたい」って書いていたわぁ・・・。
やばいぞ。自分で言った事をもれなくやっているようにも見える。俺はすごいやつかもしれない。と、思い出補正全開、ポジティブまっしぐらなんですが。なんだかちょうど「自分を思い出す」という機会を妹が授けてくれたようにも見えてきました。
好きな著者さんの和田裕美さんが陽転思考の中でおっしゃっていること。
事実はひとつ 考え方はふたつ
過去を振り返ることをネガティブに捉えるような方もいらっしゃいますが、自分を思い出す。ということにおいては、新しい発見、いやもともと持っていたモノを見つけることができるかもしれませんよ。
ということで、皆さんもどんどん夢をみましょう。
と他人事のようで申し訳ないですが・・・。
私は今日もいい夢?見れそうです。いや見そうだわ。
おやすみなさい。
2択は1択
早い畑では早くも葉が落ち始めています。作業場に流れているラジオを聴いていると、どうやら秋の気配がそこまで来ていると。早朝から畑でぶどうを収穫して作業場で詰めているわけですが、昼間の暑さとは反対に、朝採りしたぶどうはひんやりと冷たく感じ、昼間との寒暖差がでているのをしみじみ。今はぶどうの収穫がピーク。出荷場には大小関係なく多くのトラックが途切れることなくやってきては、離れていく。その光景をみていると。なんだかあっという間に過ぎ去っていきそうで、一種の寂しさを感じます。
忙しないのは嬉しいことよね。
収穫は今回で3回目になりました。というか、もう3年目なんです。ほんとあっという間。20代は、30代は、あっという間に過ぎ去っていくと諸先輩方には何度か言われたことがあるけれど。まあそれだけ頭の中に記憶が蓄積されているわけなので、ふとしたときに思い出しやすくなるのかもしれませんね。
さて、まだ3年。もう3年。人によって捉え方が変わってくるし、他の人のことはわかりませんけど。最近は妙にある言葉を考えることがあります。
置かれた場所で咲きなさい
確か本は読んだことはないのだけれど。ふと思い出しては、なんども浮かんでは消えていくんです。普通に会社を辞めてから、なんやかんやで畑へと飛び出していった私ですけど。辞める前にしきりに自分に問いかけていたことがあって。
「このままでいいのか」
という問いを自分に課していたんです。悩んで?はいたけれど。結局は都合の良い「人生は一度きりなんだから好きなことをやったほうがいいよ」って言葉に頼ったりしながら、「このままではよくないです」と答えを出してみたわけですけど。こうして数年自分で選んだ「好きなこと」をやってみるとまたやってきたんですよね。
「このままでいいのか」 って。
おっかしいなぁ。自分はこのままではよくないので、今の道を選んだのですけど、またよくなくなってきたんですよね。そうなってくると。どうでしょうか。
- 新しいことを始める機会がやってきているのか・・・
- この問いが出ているときは逃げの気持ちのサインかもしれない。
- どこへ行ってもその答えってないんじゃないかなって思ったり。
そうして行ったり来たりしているだけだと。自分にいい都合をつけて。「選択をしない」という選択をとって、とりあえず現状維持になってしまうのが常なのですが。
こうして考えてみると。何か物事に対してちゃんと答えを出しているようですけど。本当の答えってどこにもないので。何事も行動した後では、都合のいい答えをそのとき出しているだけのようにも見えます。誰しも自分の行動は間違いだったなぁとは思いたくないわけです。
ちょうどそんなことを考えているときに。私がいつもチェックしているブログに面白いことが書いてありました。
人生において大事なことは選択肢を2択にしないこと
・・・・
だいたい選択肢が2つしかないときって、実は1択になっていて、選択肢は自ずと決められてしまっている状況にあって、まー、あれですが、”Noしかいえない”とか、”迷わずにSay Yes”みたいなことなわけで、反対の選択肢は事実上ないに等しいみたいなことが往々にしてあって、そういうときに第三、第四の道を見つけることで、追い込まれないようにしつつ最良の選択をしていくことが常々大事だなって思っているのです。
これを読んでみたら。まあそうよね。確かに2択のときって決まってるわぁと。ひとり感嘆の息だったのはいうまでもありませんが。
なんでも考えているときには、無理やりにでも答えを導き出すことをしてしまいがちで、そうすれば今ある不安やら、悩みやらから解放されるような気がしますけど。それは短絡的なことで。解放されるのは一時的なもの。実は答えを見つけるのではなく、答えはわからんけど。これでもいいかもしれないなぁと。それがおっしゃっているような余裕を生むのでしょうか。
まあ今日もよくわからないことを書き連ねてしまいました。
昨日は昼間の畑仕事がちょっとだけ早く切り上げることができたので、自分の野菜畑に新たな種を蒔いてきました。とりあえず今手持ちの種を一通り蒔いてきましたよ。
- ベビーリーフ
- サニーレタス
- 春菊
- 三つ葉(初めて蒔いた)
- ビーツ
ビーツは春ものよりも、ちょっと気温が低くなる時期のほうがいい感じで成長するらしいのでちょっと楽しみかも。意外と私の周囲ではビーツに興味がある方々がおるので。うまくできれば・・・ね。三つ葉はちょと蒔きすぎた感はあるけれど。お味噌汁とかにちょっと添えるだけでなんだか高貴な気分になるので期待しちゃってる。夏野菜もひと段落で、残るはナス、ししとう、ピーマン、ゴーヤ、空芯菜くらい。空芯菜は暴れまくって困ってたり。秋茄子は美味しいと聞きます。が、毎日採ったものを食卓に並べているわりによくわかりません。毎日美味しいんですよね・・・悪しからず。
不便な人差し指を眺めては
久しぶりに包丁で手を切りました。この前切ったのは2年以上前だったような。やっぱり切ると痛いですね。それも今回は人差し指。絆創膏が巻いてあるだけでとっても不便です。こうしてキーボードを打っている時でさえ違和感があります。まあ包丁の扱いが悪かったのもそうなのですが今回は色々状況が重なってしまって。
ちょうど空芯菜の下ごしらえ中にドアベルがなったのです。ガスコンロは二口空いているし、玄関周りは今日収穫した野菜が散らばっていて。おうおうこのタイミングでくるかねって。そうして手元から目を離したところでスパッと。しかもその時はパンツ一丁の姿だったので。そうして指を口にくわえたまま、タンクトップとズボンを履いて出迎えました。
誰かといえば、市の職員さんが建物の点検らしく。ぱしゃぱしゃと写真をとっておかえりになりました。
この時の私の心がどう反応したか。なんか我ながらまだまだだなぁと思ったり。
やっぱりただの人間だなぁと。
チャイムがなります。
そしてすぐに指を切る。
「イテッ」
そのあとすぐ
「タイミング悪いなぁ、なんでこのタイミングでくるんだよ」
2回目のチャイムがなる
「あんたたちのせいで指を切ってしまったじゃないか、あせらせるなよ」
扉をあける。
部屋の点検をさせてくださいって。
そして点検が終わる「なにか不備な点はありますか」って
少しきになる点があるので、確認をお願いする。
「ご協力ありがとうございました」
「いえいえ、お手数をおかけしました」
職員さんも仕事だもんなぁ。怪訝な顔をしながら対応してしてしまった。
丁寧に対応をしてくれたのに申し訳無かったなぁ。やいやい。
とまあこんな感じの流れ。
指を切ったのは誰のせいかって。私のせい。
タイミングが悪い時を狙ってきているわけではない。
自分も反応がなければ2回目のチャイムをならすはず。
・・・
正直にいうと、2回目のチャイムが今回の怒りのピーク。市の職員さんが帰られてすぐに「手を切ったのを人のせいにしている」と怒りの原因がわかったので、すぐに怒りから解放されて、これも一種の学びだなぁと思えるわけです。なにか悪いと思われることが起きた時には完全に「他責の人」になっています。普段私は色々な人におせっかいながらも、それっぽいことを話しをしているけれど、おせっかいできる人間ではないなぁと反省モードに移行します。
そこからはここ最近の出来事の回想が始まって。上から目線で話をしていたかもしれないとか。価値観を押し付けていないか。ひとつの出来事から自らを振り返ることができるのです。
口が達者なのをいいことに、友人が話しをしているのに話を折って私の話をしてしまったり。普段ぶどうの仕事をしている際、師匠から「こうしなさい」「こうしたほうがいいよ」などとアドバイスなどを頂くことに対しても「そんなことはわかっているよ」と、何かと言い訳がましいことを言っている自分に気がつきます。なんとも情けないやら。
宰予の昼寝 公冶長篇
宰予、昼寝ぬ。子曰わく、朽木は雕るべからず、糞土の牆は朽るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子曰わく、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是改む
論語物語より
詳細は勝手に調べてみていただければ。
誤って改むるに躊躇してはならぬ。過ちは一時のことじゃ。しかし、誤って改めなければそれこそ救い難い過ちで、生涯を誤り通すことになってしまう。
何を言っても口先で人を言いくるめようとする心だけはよろしくない。
良い人を見たら見習えばいいし、悪い人をみたら自らを省みればいい。
憎んではならぬ、蔑んではならぬ、ただ銘々に自分を省みればそれでいいのじゃ。
このエピソードは特に耳に残っています。まったくもって言い得て妙な。
普段私たちは
良い人をみては、「あいつは◯◯だからできるんだよ」
悪い人をみては、「こうしないと。ああしないからだ」
特に最近ではネット上で誰でも自らの意思を表現することが簡単になりました。そこでは個々人の主観に立って多くの意見が散見されます。果たしてその中に自らを省みている人はどれくらいいるのでしょうか(もちろん私も含めて)
相手の立場になって考えられる人は、まずはどんなことでも、起こったことに対し「自分ごと」として考えることができる人なのかなぁと。なんとなくそんな答えが。
と、それっぽく。
見逃していたゴーヤが半分黄色になってた。
ぶどうの収穫は来週の頭から本格稼働です。その前に朝から野菜畑を綺麗にしてきました。春に植えた苗も収穫を終えつつあり、半分以上を切ったり抜いたりして、秋に向けて耕す。もうこんなにいらないよと言っていた野菜たちも収穫量が減ってくるとなんだか寂しくもあり、「食べきれないよ」って言っている時にはわからなかった「ありがたみ」がひしひしと湧いてきます。これも満たされている時には気づけないことですね。感謝をしながら、今日も明日も明後日も採りすぎた空芯菜と向き合いたいと思います。
そうそう。炒めるだけでとってもおいしいんんですよ。空芯菜。
「ぎゃ〜トラブルだ」の、その後に
久々にぶどうばたけに戻ってきたら、今シーズン最後の防除でした。要は畑にお薬を撒く作業。日中は暑いので早朝から薬を撒く車、スピードスプレーヤー(通称SS)に乗って、ゆっくり畑をのっそり撒き回ります。今年最後ということで、気を引き締めて撒きました。というか撒いていたのですが。なんででしょうか。すんなりと行かないのですよね。ある畑を撒き終って、ちょっとハンドルを切り返して、次の畑へと思った瞬間に「ばっこんっ」と何かを乗り越えまして。乗り越えた瞬間に前にも後ろにも進まないと。降りてみてみると、前輪と後輪の間に大きな岩が・・・。岩を乗り越えてハマってしまったのですよね。これはまずいと思って、タイヤの下敷きになる岩を探してきて、私になりに脱出を試みたのですけど。焼け石に水のごとくで。前輪は土を掘りあげて、半分ほど埋まってしまいました。結局師匠に助けを求めまして、脱出と相成ったのですが。
もがけばもがくほどタイヤは地面へと埋まっていく
今年は本当にトラブルが多くて。SSに乗るのは年に6回くらいなのですけど。何事もなく終ったのは1、2回であとは何かあるんですよね。なんでしょうか人間って面白いもので、こう悪いことが続くと何かあるんじゃないか・・・。って自然と傾くようで、最後に師匠に
「今年はトラブルばかりで申し訳ありません。なんかあるんでしょうか私って」
と言わずにはおれませんでした。
と。こうして今年の防除は終わりまして。あとは畑の草刈り、出荷の準備をして。収穫の時期を待つのみとなりそうです。収穫は始まればあっという間。だからこそ、健康だけは保ちつつシーズンを終えることができればと思っています。
さて。今日は朝から雨模様で降ったり止んだり、予定していたことができずじまい。自分の野菜畑に行って。苗床の準備をしたり、ナスの更新剪定をして秋茄子に備えようとか色々考えていたのですがそれもできず。どうしようかなと思っていたところ「そうだそうだ。近いうちにお客さんが来る予定がある」と思い出し。朝から部屋の大掃除をしておりました。カーテンを全て外して洗濯。網戸を外してブラシで汚れを落とす。部屋の配置換え、いらないと思った服、本、雑貨などをまとめてゴミ袋へ、など。少しは部屋の床にかかる重量を減らすことができたと実感できるくらい整理ができました。
そのおかげ?ではないですが、部屋もすっきりで時間もできたので、その後はずっと本を読み返しておりました。最近はちょうど「幸せについて」の基準?考えかた?に変化が起きているタイミングなので過去に買っていた「ポジティブ心理学」関係の本を本棚からまとめてとって、付箋のある箇所を一通りみたり、ぱらぱらとなんとなくやってみたり。そんなことをしてました。
実は読み返すきっかけになったのも、もう一つ理由がありまして。それは地元に帰省した折に、ひさびさにリアル本屋さんに出向いたときにある本に出会ったからなんです。
なんとも面白いことに先月出たばかりだったし(後で知ったけど)タイトルがまさに私の今の関心ごとというか、心の奥にひっそり隠れていた疑念そのものだったのです。私もネット社会の波に飲み込まれているので、大半がネットで購入するようになっておりました。本屋さんに行くにしても、書評や、好きな著者さんのお勧めなど、情報を集めてからまとめてリアル本屋さんで買うということをしておりまして。言うならば「目的買い」の人と化しておるんです。これはこれで悪くはないのですが。やっぱりリアル書店行かないとですね。だって行ったから出会ったのですもん。いかんせん偶然の出会いがないので行かないとダメだなって実感(無駄遣い防止にもなる利点もありますが)
また、この本の中に過去に私が持っている本のほとんどに触れられていて。ありゃ?こんなこと書いてたっけか。と思う引用が多数あって。引用をみてはいちいち本棚を眺めて手にとって確認。また引用を見つけては・・・と振り返るように仕向けているんじゃないのかって思うくらいに、きっかけをくれる本でした。
さて、ちょうど読んだ中にすぐに実践できたものがあったので。少しだけ触れてみます。
それは・・・
3つの基準で説明スタイルを判定する
という項目。
起きた出来事に対して
- 永続性 (永続的 or 一時的)
- 普遍性 (普遍的 or 特殊的)
- 個人度 (内 的 or 外 的)
上記3つを使って判定をする。
楽観的な人の場合・・・
良いことが起きた時
いつもそう、なんでもそう、自分の能力による結果
(永続的、普遍的、内的)
悪いことが起きた時
今回限り、この件に限り、自分以外が引き起こした結果
(一時的、特殊的、外的)
悲観的な人の場合は、良いこと、悪いことの反応が逆になるそうです。
まさに起きたことは一つ。捉え方は無限大ということ。
どうとらえるかによって、印象も変わりそうです。
ちょうど、冒頭で少しお話した私の出来事にも当てはめることができそうです。
畑で私がSSを石にはまってスタックしてしまった。
この起きたことに対して、説明スタイルを組みあげてみると。
・・・ちなみに今回は悪いことが起きた時ですね。
トラブルだよ。またSSでやってしまったよ、やっぱり俺が運転するとこうだよ、俺は運転するの下手くそだなぁ。(永続的、普遍的、内的)
と初動は悲観的な部分から入りました。
しかし、それは長くは続かず。
トラブルだよ。まっこんなときもあるよね、そういえばいつもと違うルートを通っていたし、たまたま通ったところに石がそこにあったんだから。(一時的、特殊的、外的)
と、心が落ち着いていきます。
私自身を分析してみると。もうちょっと若かりし頃は悲観的な部分をずっと引きずるような、肝の小さい奴だったのですけど。少しは大人に?なっているようで初動は悲観的だけれども、すぐに楽観的な感情が覆い尽くしていくようで。ちょっとした悪いことであれば1分も経たないうちに。とても悪いことが起きてもだいたいすぐに切り替わるようにできているようです。ここ最近のスピリチュアルにどんどん寄ってきていて、何事もそのままに受け入れる心のスペース広くあるのかも。
私の説明下手・不足でわかりづらいところもあるやもしれませんが、なにか良いこと、悪いことと自分で感じたことに対して、当てはめてみると面白いかもしれませんよ。また、なんとなくピンときた方、興味が出てきちゃった。なんて場合は本屋さんで手にとってみても。「幸せについて」って先に触れましたが、これ言うと心配されたりするのですが、別に病んでいるわけではなく正常です。ずっと考えていることに変わりはないのですけど。
うん。しばらく考えに耽る毎日でしたけど、そこから脱出するための糸口。ありそうです。
かぞくを顧みる
しばらく山を降りていました。それも数日間。野菜畑を充実させていくとともに、どうしても様子が気になってしまい、降りる回数と時間が減っています。なので、いつも一泊だけして山へとんぼ返りばかり。戻ってもなかなか休まらないし、友人にお誘いを受けてもなかなかお伺い出来ないというのがなんとも申し訳ないのですが、そのかわり?私がほどほどに手間を愛情をかけて作った野菜を朝摘みとかしちゃったりして、それを家族やら友人やらに食べてもらったりして。今の所それが好評をいただいている(ように私からは見える)ので、まあ差し引きすればちょうど中間で推移していて。うまく回っているのかなと。
子供の成長は早いよ。
今回は、前から夏にやろうやろうと。お誘いをいただいていた、親友?悪友?腐れ縁?とか、いろいろ表現ができる、中学から十数年来の知己のお宅へとお邪魔してきました。前回お邪魔したのはちょうど2年前だったようで。今や娘さんは小学校の高学年で、普通にお話もできちゃうし。なんだか友人の若い姿がお子さんの姿に重なって見えたりと。時の流れを感じずには入れませんでした。それでも、話し方、しぐさは昔のままだったりと。時の流れでは変わることのない部分もたくさん垣間見れました。こうして「楽しかったです」ってここで書いているわけですが、その分友人の奥方様にはいつもいつも、準備をしたり、片付けをしたりとお手間をかけっぱなしなわけで。ますます頭が下がる一方です。「もっとあなたは感謝をしなさいよ」と。密かにここでいっておきます。
さて、私とタイミングを同じくして県外におる妹が娘を連れて帰省しておりまして、ありがたいことに姪っ子の相手をさせていただけるという使命を賜りました。と、自宅にあるプール(膨らませるやつ)の監視員をしたり、地元の盆祭りにいって踊らせたり。もう一方で、一番の下の妹のお宅にお邪魔して、愛犬にかまってみたり、私は食べないけれどスーパーへ買い出しにいって、お夕飯だけ作ってみたりと(私がいくとなにもしないのですよ)なんでもないような普通の休みの過ごした方をしておりました。
こうしたことができるのでもあたりまえのようでいて、そんなこともないのが今の世の中のようで。兄弟姉妹間の仲がいいからなのですよね。色々な場所で出会う人で、興味を持ってしまうと時に私は色々なことを徐々に、大胆に、しつこくお話を聞いていくのは周知の通り。聞いていくうちに身の上になることもあり、そこから家族の話になって、「兄弟はいるんですか?」と自然と話が進むこともしばしば。こうして少ないながらも話を聞いていく中で気づくことがあって「もしかしたら自分たち兄弟、姉妹は仲がいいかもしれない」って。
兄弟姉妹間の仲がいいか悪いか。本当かどうかは話を聞いただけはわからないのですが「兄弟の仲はいいんですか?」って聞いた時に「仲が良いよ」という言葉はなかなか聞けません
「ん〜どうなんだろうねぇ」
「仲はあまり良くなくてさ」
「あんまし関心がないんだよね」
「ぜんぜん話、しないんだ」
っておっしゃる方が多いこと多いこと。そこには一種の恥ずかしさがあって、言葉とは裏腹に慕っていたり、見守っているようなこともあるのでしょうけど。あまり周りと比較することはないながら、話を聞く人が増えれば増えるほど。そう感じ、自分たちの仲が際立って良いように見えてきます。なんでもないようなことかもしれませんが、私がなにかのイベントやらの時に、気軽に若い人たちに話しかけることができるのも、下に妹が二人いるからでしょうし。話をすることに抵抗がありません。逆に年上の諸先輩の方々にはなかなか・・・ということもあったりしますが。そこからくる恩恵は計り知れないものがあります。というか今思えばたくさんあったなぁと。
こうして慕ってくれたり、見守っていてくれる存在が身近にあることほど、力強いものはないわけで。何かの苦労に出会った時には見えない力となって、助けてくれているようにも。はたから見れば兄弟愛の話をえんえんと書いているようですが、そこには私の長男気質?が反映されてるようにもみえ、もしかすると自然と関心をもつようにできているのかもしれませんね。
お盆だからということではないですが、いつもと同じくおばばちゃんのお墓にも。それにプラスして、生前おばばちゃんと一緒にいった、地元の行きつけの定食屋さんやら、街中のお蕎麦やさんを母上を連れて回りまして。なんとも懐かしいやら、寂しいやら。そうやってそれとなく回想しながらお腹いっぱい地元でのご飯を堪能してきました。おかげで毎日お腹の中が悲鳴をあげています。
こうして苦しい苦しいとお腹をさすっているとふと思い出すことがあります。
今では麦とか雑穀とか見直されていますけど
「私はね。白いご飯じゃなくて麦とかばっかり、子供のころに食べさせられていたからあんまり好きじゃない」
おばばちゃんが時折話しをしてくれたこと。思えば小学校低学年で辞めさせられて働いていたとも言っていたので、戦争末期に子供だった時の経験が染み付いていたのでしょう。そうして家でも外食でもそこから大盛りにしろ、大盛りを頼めと言っては、料理がテーブルに並ぶと・・・
「私はちょっとで良いから半分取りなさい」
いつも2/3くらいを強引に私の器へと無理やり運んでいました。
「半分じゃね〜だろ」
と私は悪態をつきながら食べては
「食わねえなら頼むなよな!」
なんて食べ終えた後、偉そうに思いながら、なんともはち切れんばかりのお腹をさすっていたわけですが、「お腹いっぱい食べさせたい」とも言っていたおばばちゃんの愛がそこにはあって。今となってはなんとも感謝しかなく。より深い愛を感じます。
しらす定食。生もゆでも一緒に。抜群の安定感。
と終わりたいところですが。贅沢なものではないにせよ、普段食べないお肉やらお魚やらをお腹いっぱい食べさせてもらってありがたい気持ち、幸福感でいっぱいなのはもちろんなのですが・・・・
毎日、取れた野菜と相談しながら献立を考えて、一汁一菜の暮らしに慣れた私には一気においしいものをばくばく食べて「苦しい苦しい」と言っている自分の姿がなんか浅ましく。そこから今度は飽食の意味を考えたりします。Instagramとかで美味しい料理のpicをみると。「いいなぁ」「うらやましい」「また良いものを食べているなぁ」と食テロの被害にあっていた私も、最近は外へ出て美味しいものを食べるという行為自体があまり魅力を感じなくなってきているようで。おうちでほどほどに「今日のご飯はおいしくできたぞ〜」って料理して食べているのが案外しっくりきているようです。
好きなものを存分に食べれる幸せは私の中では続かず短くて。お腹がパンパンになってしまうと逆に下がってしまうようにも。今の自分にはお腹いっぱい度100%近くご飯を食べてしまうと心もお腹も苦しさを感じてしまうようです。毎日質素ながらも適度に旬なものを食べているのがちょうど良いのかもしれません。お腹いっぱいになると私のココロは弱いもので何もしたくなくなっちゃうのも、ただただ胃袋が縮んだだけのもあるのでしょうけど。
さて。しばらく自分の野菜畑には顔を出せていません。畑にいくとどうなっているか気になるし。多分お化けだらけになっていると容易に想像できますが、明日は汗を流しながら畑仕事をして、お家のキッチンでお化け退治に勤しみたいと思います。