ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

山の日の山

今年のお盆休みとはいつからいつまでのことをいうのでしょうか。毎年カレンダーとは縁のない生活をしておるので、祝日や連休という概念が飛んでしまっています。今年は山の日?なんの日?ということで新たな祝日ができたそうで。長くお休みとなる方も多いのではないでしょうか。私くは今シーズンのすももの収穫がおわり、ぶどうの収穫まで束の間のお休みの運びとなっています。昨年のこの時期にはちょっとばかし遠くへ駆け回っていたものですが、自分の野菜畑がちょうど収穫がピークのものがあったりして。せっかく手間をかけて育ててきたのに数日離れるのはちょっと気がひけるなあとか思っていて。特に予定は立てず。おばばちゃんのお墓詣りのために地元に帰るくらいになりそうです。

 

 

 

さて。そんなすももの収穫が峠に差し掛かる頃合いに、ある方からお誘いをいただいておりました。その時にはすももの収穫がどうなるかわからなかったのですが。ちょうどすももの収穫が終わるタイミングがぴったり合いまして。参加できる運びとなりました。またまたこれも引き寄せというべきか。お誘いが来た時にはほどんど参加できるようになってしまうという。

 

 

【8月10日-11日開催:山の日企画】1,928m山頂「鉢伏山荘」貸切でピアノライブ、翌朝は日の出を!

 

 

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 お世話になった鉢伏山

 

今回はイベントといっても。ゆったりするための企画でした。

 

夜はのんびり語らい歌声に酔いしれ、朝はゆったりヨガでカラダをほぐし、お昼前にはここちよい空気とともに山へ繰り出す。

 

とても楽しいひと時でした。本当に参加して良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

って。本当に前述の通りだったのですが。いくつか通じて自分が感じたことやら云々を残しておきます。

 

 

鉢伏山(はちぶせやま)位置の詳細はわかりませんが、塩尻岡谷市の間に位置しています。少しばかし調べてみると「鉢が伏せているような姿」に見えることからその名で呼ばれているようで、日本の他の地域でも同名の山があるそうですよ。

 

鉢伏山 (筑摩山地) - Wikipedia

 

山登り?トレッキング?正直に言うと私には縁のない話で。かつて山登りをした記憶があるのは片手の指で折り足りてしまうほどに少なく。小学校の時の富士山の五合目?から登ったこと。薩埵峠を六年生の時に歩いて超えたことがあって。

 

 

「食べ物を食べる時は歩きながら食べるのはいけません。座って食べるように」

 

と旅のしおりにも、出発前にも言われていて。それを覚えていたので、帰りの電車のホームのベンチで棒飴を口に含んでいて、それが食べ切らぬうちに電車に乗り。座る席がなく。しかたなしに立っていたらところ。

 

 

 

帰りの電車の中での隣の組の先生にばったりと、つねられながら途中の駅で降ろされ

 

「あなたたちわかっているの!?もう卒業するんですよ」

「どうするの。こんなんじゃ卒業できないよ」

 

と畳み掛けるように矢継ぎ早に怒られて、当時の班の班長だった私は。

特に厳しく怒られまして。これはなんとかしなくては・・・と。

ん〜。どうしたものか・・・。と。

 

「すいませんでした。なんとか卒業するまでに取り戻すんで」

「班長の自分が注意できませんでした。」

 

と頭をフル回転させながら、またよくわからないことを言いながら、なんとか電車に乗せてもらい。学校に着いた瞬間に班の男子が皆が愛のビンタをいただきまして。

 

ようやく許していただいたのですが、当時は納得いかないこともあるもんだと思っていたものの、どうやらそれは子供の時も大人になっても変わらないんですね。

 

 

 

・・・って話がとってもとってもそれました。

 

 

正直山を歩くということって何が面白いんだろうかと思う節が私にはありました。友人がいつも山のpicをInstagramとかであげているのをみて「おお〜また登っているなぁ」って感じ。小学校の時は周囲を見渡しながら、景色を楽しみながら歩くということまでに気持ちが向かわず、登りきったという達成感があるくらいでした。先生に言われるのも「よく頑張ったな」「よくここまで登りきった!」という褒め言葉をもらっていたんです。そこには登りきったという結果があり、それを達成できたということで。それが良いことのように見えていたのでしょうね。

 

しかしどうでしょう。ちょっとだけ山の頂上付近を歩いた「にわか登り」だけでしたが「なんて山を歩くことは楽しいのだろうか」という気持ちにくるっと反転してしまいました。皆で話をしながら、景色を楽しみながらゆったりのんびりあるいていく。空気がうまいというのはもちろんあるのですが、太陽が近く感じるし、雲が自分の下にあって、周囲を見渡すといつも自分より上にあるものがすべて下にある。普段見えないものがすべて見渡せる。頂上についても達成感というよりも。ただただ壮観で綺麗だなぁと。何事も体験してみないとわからないものです。

 

 

 

道中を楽しむと言葉がありますが。まさに昨日はその心境だったのでしょう。頂上しか見えていない人には道中のことは見えていません。鳥の声が聞こえる。雲が流れている。虫が花の周りに飛んでいる。みたことのない植物がある、道がゴツゴツしている。過程がどうとか、結果がどうとかそんなのどうでもよくって。道中を楽しむことには周囲にすべてに意識が向かっている。いや、起こっていることをすべて受けているというのでしょうか。不思議な感覚に浸っていました。

 

 

また山の上に立たないと見えないものがあって。普段遠くに見えているきれいな形の山は近くに寄れが岩肌が見えていたりして荒々しさを感じるし。長野に向かう途中でとおる諏訪湖は小さくて周囲の山に抱かれているようにも見えます。今回はちゃんと見えなかったのですが、富士山もきっと静岡からでも、山梨からでもない表情を見せてくれたに違いありません。視野を広げなさいとはよく言われることですが。どうしてなかなかこれが難しい。しかし、ゆったり楽しく山を練りあるくだけで普段見えないものが自然と見えてきて、いつのまにか視野が広がっていた・・・なんてこともあるかもしれませんよ。

 

 

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同じ位置から。見えるのは山荘の窓から漏れる明かりだけ。

 

少しだけ夜、表にでて寒さに縮こまりながら星をみていたのですが。言葉にならないくらい綺麗ですし。なんか宇宙からエネルギーが降り注いでいるような。一体化したような。この話はあんまり深く話をしすぎると長くなりそうなのでここではやめておきますが、えもいわれぬ感覚でした。これも最近読んでいる本の影響もあるのでしょうけど。

 

 

夜はテーブルを囲みつつ、それぞれの自由にピアノライブを楽しみました。

 

ayanishikimi.wixsite.com

 

錦見綾さん。普段はほのぼのしたように見えていたのですが。歌い始めると芯があってとても力強く。それでいて哀愁を感じるかのような。私の表現では表しきれないので、よければHPに行って歌声に浸ってみていただければ。

 

http://あかり.net

 

シンガーソングライターでもありつつも、古民家の再生の活動を前に立って行っているとのことで。そのお話も伺うことができました。これを聞くと地域活性化とかまちづくりとかに勝手とらえて、解釈をする人が出てきてしまうように思えますが。それとは似て非なるものだと感じました。違うんですよね。話を聞いていると典型的な「展開型」のストーリーのように。

 

「自分はなにもできないんです」とご自身でおしゃっていましたが、まあそんなことはないのでしょうけど。次々と人が集まってきて色々なことを助けてくれるそうで。人柄もそうですが魅力があるのでしょう。また、田舎でよくあるような話とかもあり、なんだか私も似たようなことがあるなぁと思いながら聞いていました。

 

山を歩いている道中にもすかさず。

 

歌詞と曲は一緒に浮かぶのですか。それは直感的にくるものですか?

 

歌詞と曲が同時に出てくるとはよく聞きますが、出てきたものは実際に形にしてみると想像どうりの仕上がりになるのですか?

 

なんて興味津々で歩きながら聴かせていただいて、無理に私のペースについてきてもらい。疲れさせてしまう一幕もありました(ごめんなさい)

 

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とっても爽やか。

 

 

朝は懇意にしていただいている先生に、ヨガの厳しくて愛のある指導をいただきまして。私のカラダの硬さと、歪みを改めて感じることができました。もうね。硬いのなんのって。しかし不思議なものですね。ただのストレッチだなんだっていう人がいるけれど。徐々に呼吸を整えながらカラダを動かしていくうちに、とってもココロとカラダが一体化していくし、内面へ内面へと意識が向いていきました。おかげさま?なのか、カラダが軽いのと、ほぐした各所が筋肉痛があります。教えていただいたポーズはしばらく毎日やってみようと思います。先生に注意されたのを思い出しながら。

 

 

山荘オーナーさんをはじめ、みなさんもとっても面白くて、独特な感性で。そしてとても優しい笑顔で。なんとも言えない人柄がにじみ出ているようでした。

 

「この山はみなさんの山です。またいつでもいらしてくださいね」

 

と帰り際に。

 

また、季節が違う時に顔を出しに伺いたいものです。

 

 

 

 

さあ、洗濯物やら家の片付けやらいろいろ所用を済ませ、畑にたっぷりとバケツで水やりをしたら、のんびり住処の山からおりて海の方へと。地元も暑いのかなぁ。

 

隠士たるや

これがゲリラ豪雨ってやつですか。なんだか梅雨は明けたら今度はカミナリゴロゴロ、雨ザーザー。なんだか休みない感じで。すももを収穫していると面白いくらいにアニメやドラマのようにちょっと空が暗くなったと思い、空を見上げると黒い雲。「ぽつ、ぽつ、ぽつ。ざぁ〜」って。ここ一週間でも2回ほど襲われました。当然服が濡れてしまって気持ちも萎えるのですが。それよりも先にベランダに干した洗濯物が気になってしまう自分がなんとも主夫のよそおいを呈しているようで、なんだか・・・ね。

 

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収穫どきは個々に離れて作業をいるので、体はテキパキと動かしつつ、オーディオブックを聞きながら気持ちはのんびりしながら仕事をしています。最近はまた新しい本を流しながらの作業で、聞いているうちにあっという間にその日の収穫が終わっているから便利なものですね。ちなみに今日はこちらを。

 

 

論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)

 

 

物語とついていることもあって、親しみやすく。内容を知ることができます。

 

 

論語は聞けば聞くほど面白い。聞けば聞くほどわかった気になって、全然わからなくて、間違った解釈をしたりもする。しかしまったく離れた場所やその時々、そのふとした瞬間に本当の意味に近づいたりする。わたしはずっと未熟なようで、いつもいつも早合点してしまうことが多くて、なんだかこれって子供の時からそうかもしれないなぁと。もしやすると私の酸っぱいモノ好きってその未熟さが反映されているのかなぁとも。これも「私の場合」という一つの受け取り方ではあるのですが。

 

 

 

沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、並びて耕す。孔子これをよぎり。子路(しろ)をして津(しん)を問わしむ。長沮が曰わく、夫(か)の輿(よ)を執 (と)る者は誰と為す。子路曰わく、孔丘(こうきゅう)と為す。曰わく、是(これ)魯の孔丘か。曰わく、是なり。曰わく、是ならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺曰わく、子は誰と為す。曰わく、仲由と為す。曰わく、是魯の孔丘の徒(と)か。対えて曰わく、然(しか)り。曰わく、滔滔(とうとう)たる者、天下皆な是なり。而(しか)るを誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且(か)つ而(なんじ)其の人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈(あ)に世を辟くるの士に従うに若(し)かんや。憂(ゆう)して輟(や)まず。子路以て告(もう)す。夫子(ふうし)憮然(ぶぜん)として曰わく、鳥獣(ちょうじゅう)は与(とも)に群を同じくすべからず。吾(われ)斯の人の徒と与にするに非(あら)ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易(か)えざるなり。

 

論語 微子篇  

 

どんな内容なのか、興味がある方は現代訳を調べていただければ。

 

 

ちょうど農作業のときに流していて、この中で登場する沮、桀溺という二人の「隠士」というのがなんだか、今のわたしの生き方に似ているような感じがしてしまって。なんだかすももを収穫しながら、苦笑いせざるをえませんでした。

 

kotobank.jp

 

 

聞いていた論語は物語のように訳されており。

 

子路という弟子に隠者について最後にこう話をしています。

 

卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならない。わしはただ当たり前の人間の道を当たり前にあるいてみたい。つまり人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい。というのがわたしの心からの願いじゃ、そこに喜びもあれば、安心もある。

 

隠士たちはこう濁った世の中には未練がないといっているそうじゃが、濁った世の中だからこそ、その中で苦しんでみたい。正しい道が行われている世の中なら今頃わしもあくせくと旅を続けてはいまい。

 

 

苦笑いしたのも、隠士の心境に近いものを私が持っていたからなのでしょう。しかしその反面、今の自分はこのままでいいのかという問いは、毎日どこかで顔を出してきます。小さなイライラや、うまくいかないことはあるけれど、そんな大きな問題にはならない。今の状況には苦しさがないのです。そうやっては人にこの心境を話しているけれど未だ見えてきません。もしやすると、この悶々としている状況が苦しんでいるということにも見えないでもありませんが。

 

論語の中では他の編でも、悩み苦しんでいる弟子に対して「安易に自分を卑下して、苦しみから逃げるのではなくて、もっと苦しんでみなさい」と諭す場面があります。自分には才能がないから、生まれがわるいから、お金がないから。〜だからと自分に言い聞かせることは苦しみから離れるおまじないのように見えて、苦しみという貴重な機会を奪っているかのようです。私はその編を聞いて、もうちょっと「このままでいいのか」という問いかけをして、このまま苦しんでみようと思います。あしからず。

 

 

 

そういえば昨日?でしたか。アプリのゆれくるがブルブルっと震えて伝えてきた地震速報。通知で来たのが震度7東京湾おき。私のいる地域では震度6が20秒後。通知をみた瞬間に数秒固まって、逃げなくてはとは玄関に向かうも、3階から駆け下りるにも間に合わない・・・。これはもうダメかなと。結局テーブルと壁に手をつけたまま覚悟を決めたのでした。

 

その後予測の時間が過ぎてもピクリとも揺れないのをみて、急いでネットをみて情報を集めると、何やら誤報らしいことがわかりました。それでも早くなった心臓の鼓動は眠りにつくまで止むことはありませんでした。日頃の防災意識の見直しやら、食料の備蓄などを見直さなけばと思ったのはみんなと同じでしょうか。

 

しかし、それよりももっと大きな発見がありました。

 

自分のことを臆病だと思っている私は、もっともっと「生きたい」気持ちや「神様助けて」という心持ちが先行するのだとばかり思っていたのですが、結局最後は起こることを受け入れる。現状を受け入れることを選んでいた自分にびっくりしました。諦めたともいうのかもしれないけど。強くなっていた自分を少しだけ垣間見ることができました。

もくもくぶつぶつと

久々に山を降りました。とはいっても2ヶ月ちょっとぶりくらいなので大したことではないのですが。お仕事が自然のものが相手なので。急な連続のお休みということでゆっくりとはいかずに一泊しかしてきませんでしたが。それでも一通りの所用は済ませることができました。

 

 

まずは朝早起きをして、自分の野菜畑に行く。やっぱり朝どりは違うようなので。それを実家に持って帰ろうと。そうしたら、野菜の師匠が「お〜もってけよ」と大玉のスイカを一つもたせてくれました。もちろんこれも朝どり。スイカに限っては冷蔵庫で数日寝かせた方が美味しいそうなのですぐには食べられませんが。

 

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夏がよく似合う。

 

そこから、ちょうど母親から数ヶ月ぶりに「桃が食べたい」という趣旨のメールがきていたのを思い出して、近くの共選所にむかいます。そうして一箱買って帰ろうとしたときに。ん。そうだ。実家だけもっていくのもなんかあれだなぁと。身近な友人にももっていこう。そうだ。前に勤めていた会社にも挨拶に行くって確か言っていたなぁと。いろいろ思い出し。桃を数箱購入して帰ることにしました。

 

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美味しくなってきました。桃。

 

 

実家に着いてしまうと、とたんに動きたくなくなってしまうので。まずは以前の勤め先に挨拶にいって。先輩やら、取締役やら、近況を報告することができました。近況と言いつつも雑談なんですが(お仕事中申し訳ない)

 

 

その中でもひとり。とても気遣っていただいている方がいらっしゃいまして。いつもいきなりお邪魔しているにもかかわらず、時間を割いてくれます。なんともありがたいことですね。いつもその方からはいろいろと質問を受けるんです。

 

 

「いつまで葡萄は続けるの?」

「大変じゃないの?」

「やめて戻って来ればいいのに。」

 

 

なんていつもそんな話から始まるのですけど(ありがたい)これがまた自分への問いかけとなって原点に戻れるような気もするのです。正直に言えばどの質問に対しても答えられているけれど。考えれば考えるほど迷うことは多いです。しかし今の所は毎日とても楽しいです。しかし現実的に考えれば普通に会社の勤め人だったら、どんなに楽だろうかと思うこともあります。それは仕事についてではなく。経済的に。保証もあるし。貯蓄もできるし。実家の家族も安心かもしれない、週末は休みだから親しい人たちとの時間を楽しめるかもしれない。いろいろなところに旅行にいったりも。あとおまけで、シャワーのある物件に住めるかもしれないし、水道からお湯がでるかもだし。

 

 

でも。理由はいろいろと思いつくけれど。全部楽なことしか考えていないんですよね。というか楽なことしか思いつかない。いわるゆる逃げっていうのでしょうか。こうしたらもっと自分はこうなれるっていうものが浮かんでこない。やっぱり自分は怠惰な人間だよなぁって思うので。なんか余計に。ってことはやっぱり成長はないよなぁと思って。

 

どんな選択をして、結果が出て。それについて周囲からいろいろ言われても、自分で思ったとしても。私にはすご〜く強くて、それらを黙らせる言い訳を一つだけ持っているんですよね。

 

 

「自分で選んだので」

 

 

 

って。

 

 

なんとなく強がっていますけど。いつだって不安はつきませんけどね。

懐かしい方々の顔を少し見るだけでも。なんか嬉しい気持ちになりました。

 

 

 

 

さて、今回はなによりもおばあちゃんのお墓詣りに行けたことがよかった。しばらく間が空いてしまうとなんかそわそわしてしまって。なかなかおじいちゃんも年を重ねてきたせいか、なかなかお墓の手入れまでは行き届きません。だからこそ帰った時にお墓の周りを綺麗に清めたいんです。今日は雨が降っていたのでそこまで気の利いたことはできませんでしたが。

 

 

毎回私が帰った時にはルーチンが決まっています。お墓に行く前には少しだけ回り道をして、JAの販売所に行きます。そこで供えるお花を幾つか買い求めるんです。今日はなんとなく、白、黄、紫が目に留まったのでそのお花の組み合わせで。会計を済ませたら販売所に備えてあるハサミで長さを揃えて、まとめて新聞紙に包みます。いつもやっていることなんですが、なかなか長さを揃えるのって難しくて。結局はお墓に供える時にもう一度切り揃えるんです。今日はこの前より短くしたから大丈夫だろう〜って思ったら、こんどは短すぎて・・・。そんなに短くしなくて大丈夫だったりするという。

 

 

お墓に着いたら、古い花殻をとりのぞいて、古い水を捨てながら綺麗に掃除をします。晴れていれば、水を含ませた布巾でお墓を拭きながらひとりお墓に向かって語りかけています。

 

これも思えば不思議なものです。生前よくおばあちゃんと一緒にひいおばあちゃんに当たる親戚のお墓に連れて行っていたのですが、おばあちゃんがお墓に向かって

 

「今日もきたよ〜」

「暑いだろう。今水をいれてやるからね」

 

と始まり、ずっと語りかけながらお墓の周りを綺麗にしていくんですよね。その時は今よりもうちょっと若かったせいか、その心境というか、ひとりで喋りながらもくもくと手を動かしているおばあちゃんを「年を重ねるとそうなるのかなぁ」「俺には全然わからないや」って思いながら、お線香だけは一緒にあげて手を合わせていたのですが。

 

それがどうでしょう。数回もお墓詣りにいかないうちに私も自然と語りかけているのですから。

 

「お〜っ。ばあさんきたぞ〜」

「今きれいに拭いてやるぞ〜」

「今日も全然花がきれいに切り揃わんかったやね」

 

・・・

 

 

それはおばあちゃんのお墓詣りの様子をずっと見てきたからかもしれないし、なんとなく語りかけるとなんとなく私にも語り返しているようにみえるのかもしれない。まあ結局はよくわからないのですけど。とりあえず、はたから見たらちょっと怪しく見えているかも。私。

 

そうして一通りお墓の手入れが終わったところで、お線香を焚いて供えて。そこから軽く目をつむり、手をあわせる。最初の時にはこうして手をあわせる時にはいろいろとお願いをしていました。おじいちゃんの健康のことや、家族を見守っていてくれって。でも途中で気付くんですよね。これじゃあいつまでたって安心できないよなぁと。おばあちゃんは世話好きだったから大丈夫だとは思うけれども。

 

気がついてからは、なんとなく生前のおばあちゃんの顔を思い浮かべながら、私の近況を声にはださないけれども心の中で語りながら、なんとなく会話をしている感じで。最近はその時間が長くなってきていて、30秒くらいから、いつのまにか数分間以上そのままの状態でいることが多くなりました。

 

こうして目をつむり、手を合わせている状態の時。とてもココロが穏やかで、とても落ち着いた状態になります。風の通る感じや、木々が揺れる音などが大きく一体となって感じます。五感が研ぎ澄まされていくのか、一種の集中している状態なんだと思いますが。そうして目を開けた時には安らぎというか、チカラがみなぎる感覚があります。もしかしたらおばあちゃんが・・・と思いながらも、これも私がそう思っているから。実際にそうなるのかもしれないけれど。

 

 

それにしても、地元に帰っても無理をしなくなりました。日常的にお酒も飲まなくなってしまったので、一人で街に繰り出して飲みに行くって発想もでてこなくなりまりました(といって、そんな余裕がないだけですが)これもおじさん化なんでしょうか。こういうとまた怒られそう。

 

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いつものたい焼きはかかさずでした。

 

ひさびさに見た海はちょっと荒れていたけれど。磯の香りを強く感じ。内陸の人たちが海へと向かう気持ちがなんだか少しだけ、わかった気がしました。

はじめに見つけた人

すももの収穫の中休みで、家で作業をしていました。なかなかこうした時間を持つことができないので、家の片付けやら、依頼物の考案などを集中してやっていました。普段外で暑い暑いと言いながら仕事をしているわけですが、それは屋内でも変わりませんね。というか、屋内のほうがなんかジメジメしているからか、暑さもそうですが、余計に疲れたようにも思います。昔は1日からだを動かして仕事をするって考えられなかったのですが、今はもう逆ですね。1日屋内で仕事をすることがなんと大変と感じることか。環境の変化、順応性。人間ってよくできているんだなぁと感心してしまいます。

 

 

 

そうして昼間からデスクに向かって作業をしつつ、ちらちらSNSを眺めていたのですが、私のフィードに知り合いの方がいいねをおしたものが流れてきました。

 

なんとなく眺めていたのですけど、地域活性化の分野で活躍されている方々に触れていました。

 

 

スーパー◯◯っていわれた人たちはとても充実そうに見えるけれど疲弊しているんですよね。

 

私生活の部分が崩壊している

 

自分の身近なところが充実させていなければ・・・

 

 

なんてうるおぼえですけど、なんか眺めていてこの人何言ってるだろうって。直接的に言っているわけではないのだけれど。文末の端々に「笑」って多用しているのもあって、これは意図してやっているのだろうけどよい印象ばかりではないなぁなんて、なんだかなぁと。

 

普段なら「確かにそうだなぁ」となるところですが。なんかひっかかってしまって。それはもしかするとちょうどある本を読んで感化されていたからかもしれません。

  

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

 

 愛の癒しについてのお話。

 

この本の中でこんな一節があります。

 

私は広場にあるあの井戸をいつも見ています。そしてずっと昔そこに水があることをしらなかったんだなって、

 

・・・

 

あの井戸のおかげで、たくさんの人々が、希望と愛と問題を抱えてここにやってくるようになったのです。ある人が勇敢にも水を探し求め、水を発見した。そして人々がその流れのまわりに集まってきました。私たちが、勇気を持って愛を探し求めれば愛は自ら姿を出現し、私たちはもっとたくさんの愛を自分に引き寄せることになるんだと思います。

 

もし誰か一人に真剣に愛されるなら、誰からも愛されるのです。

 

前後の文脈があるので、意味合いは異なると思いますが。

 

この文面では

 

「ある人が勇敢にも」

 

とあって

 

「ある勇敢な人」

 

とは書いていません。

 

 

井戸を発見したのは勇気はあったにせよ。普通の人だったのでしょう。「スーパー◯◯」と呼ばれる方々もはじめに何を見つけた普通の人。そのほとんどがなりたくてなったわけではなく周囲の人がそうさせた。はじめに井戸を見つけた人はきっと愛に苦しんだのでしょう。そして勇気を出して探しに出た人。苦しんだことのない人には見つけられない井戸。

 

ずっと愛を探し求めている人。

 

・・・私にはまだ愛を語る資格はなさそうなので。ここまでにしておきますが(あしからず)

 

 

私もいつもよくしていただいている方に「また顔に疲労が出ていますよ」ってよくお伝えするのですけど。そういった方々に頼ることもできるけれど、私たちが救うことができるんです。受け取ってばかりでは、いずれ相手は枯渇してしまいます。

 

 

お笑いの世界では「今年流行ったお笑い芸人」と言われることがありますが、実際は「今年消費された人たち」のように見えることがあります(もちろん本人たちの力もあるけれど)

 

話がそれました・・・・。

 

 

 

そうならないためには、関わる人が何かを置いてこなければなりません。与えなければなりません。◯◯さんに何をしてあげられるだろう。という問いは良い循環のスタートなのだと。与える人のほうが多くなったときの想像をすると、とても満ち足りた気持ちになります。

 

 

 

 

お金持ち。才能のある人。人々はそれらを敬いもし、妬んだりもします。生まれた時は不平等かもしれない。どう生きるかは選べる。こういう話を聞いても一向にもやもやは解決しないかもしれません。しかし、他の人が持っていないものの表現として「恩寵」と呼ぶ方がいます。それを持つ人にはそれを使う義務を課されているといいます。そしてその義務を果たせなくなると「才能の呪い」にかかるとも。

 

 

もしやすると。お金、才能がないと自分で思うことというのは「義務」がない分、案外気持ちが楽なのかもしれません。

 

 

 

 

さて、お仕事はなくても野菜畑へは毎日通います。いつもどおりの水やり。いつのまにか一ヶ月前に植えたオクラが大きく成長していて、大きな葉っぱが目につきました。

 

 

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まだ背は小さいのに、葉っぱは大きい大きい。

 

 

 

東南アジア原産?熱帯地方原産?詳しくはしらないけれど。暖かい地域の作物の力強さは目を見張るものがあります。しかしそんな力強さも年中暖かい地域だけ。日本の冬を越すことができないそうです。日本の四季というのは美しい、風情があるとプラス面を聞くことが多いけれど、ある植物たちにとってはただただ厳しさだけを突きつけられているかのようで。ここでなければずっと生きられたのにと思うと。なんだか悲しい気持ちになりました。

あまずっぱ〜いおくりもの

昨日は午後からすもものジャム仕込み始めて夕方には何本からストックを作ることができました。山梨に来て三年目。そして三回目のジャムを仕込みました。こうして回数を重ねるごとに去年の経験が活きているのを実感できます。果実の切り方から、材料の分量やら、加熱する時間、ビン詰めのタイミングもだいぶこなれた動きをしています。唯一変わらないのは、とろ火で加熱している時に木ベラでかき回す行為です。ここだけは短縮できない。火が強ければ吹きこぼれてしまうし、なによりも焦げ付いてしまう。まんべんなくかき回さないとムラができてしまう。わたしのおうちにはクーラーとかいうものはないので、窓とドアを全開にして、背中に汗が通っていくのをなんども感じながらじ〜っと鍋を見ながら手を動かしています。 

 

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とろ〜り。

 

 

毎年こんなことをしているのも、自分が食べるよう以上におもたせで持っていきたいから。過去にも触れたことはあるけれど。私は贈り物をすることが好きです。別にそれは大それたモノではなく、お手持ち、お土産の場合もあります。はじめは不純な動機から。よく思われたい、あげっっぱなしにしたい、貸しを作りたくない。そしてとても自己満足できるんです「俺は良いことをしているなぁ」って。新しく知り合った方に贈り物をすると戸惑われることがありますが

 

 

「お返しとかはいいので、もし崖で私が落ちそうになったときに助けてください」

 

 

と、いつもながらよくわからない理由をつけてはお渡しします。

 

 

 

しかし最近はなかなか贈り物をしづらくなりました。それは会社に勤めていたときにはそこそこ何かを買っておもたせができるのですが。恥ずかしながら今のわたしはそのようなことができる余裕がありません。でも、私が「恩」として受け取ったことへのお礼や、お近付きのしるしとして何かしたい。だからお金がないからできないなりに考えてみると、収穫したもので加工することくらいはできるよね。ということでそうしています。

 

 

さて、自分がこうして作ってお返しを〜と言っておきながら、わたしはいつももらってばかりです。それはモノでも、形のないものでも。

 

 

ちなみにおすそ分けに限っても、春から数えるだけでもいろいろ。

 

  • 大根
  • ニラ
  • 玉ねぎ
  • じゃがいも
  • ラディッシュ
  • サニーレタス
  • とうもろこし
  • かぼちゃ
  • ニンニク
  • スイカ
  • メロン
  • ニンニク

 

 

多分他にもいただいていると思う。

 

 

たくさんできたから、持っていきな。

 

 

って、とっても魔法の言葉。断る理由がありません。

 

畑から帰るときには魔法にかけられて帰ります。

 

 

 

私もお返しをしたいのですが、私は魔法にかけられているせいなのかお返しすることができなくなっています。というか、させてくれません。私よりも多くの野菜を作っているし。わたしの作った素人野菜よりも良い野菜を育てているので、その場でお返ししようもなく。ただただいただくだけ。できるのは「おいしかったよ」ってお礼を言葉で伝えるくらい。なんとも申し訳ない気持ちでもごもごしていると、言われることがあります。

 

 

俺らはいいから、他の人にやんな

 

 

簡単に言えば、食べきれないから。それだけの理由。特に夏野菜は多収穫で毎日畑に顔を出すと、なんらかの野菜を収穫できるので、調子に乗って種や苗を植えてしまうと本当に手持ち無沙汰になります。常備菜としてたくさんストックするのも楽しいですけど、その作った常備菜を保存しておける冷蔵庫の容量がありません。

 

 

この何気ない行為にみえるけど。とっても循環をスタートさせているんですよね。こうして受け取った好意は周囲に循環していく。

 

 

 

満たされているから、周囲に分け与えることができる。

 

分け与えるから、満たされていく。

 

 

自分が満たされるのが先か、相手が満たされるのが先なのか。こんな「先か後か」ってその流れの中に入ればあんまり意味を持ちません。

 

 

 

応援されるのは、多くの人をその人が応援しているから。

 

自らが与え続けるから、周囲から与えられる。

 

 

 

多くの本でも、インタビューを聞いていてもよく聞くことなのですが。自らが動くことに触れていることがわかります。待っていてもなにも起きない。結局一番早いのは自分から動くことなんですよね。そっちの方が断然早い。動くとなにが変わるかって、自分も変わるけど、自分が変わると周囲も変わっていく。

 

 

 

 

いつもないものねだりで「○○さんはいいなぁ」「□□さんばっかり!」と言っていてもなにも始まりません。そう言っている中では、周囲に何かを与えることができている人は少ないでしょう。モノでも、気持ちでも、好意でも。その人に集まってくるというのは。先に何かを発信しているから。「そんなことしてないけどなぁ」と思っていても、その人の立ち振る舞い、行為によって、意図せずとも何かを受け取っている誰かがいるのだと。

 

 

 

熱気むんむんのジャムをかき回しているときは、なにやら集中していたのか

 

今私はなんでジャムをかき回しているんだろうなぁ。

 

って考えていたら、いろいろなことが浮かんでは汗とともに流れていきました。

 

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種を除くのも根気がいります。

 

去年も作ったものは全て渡って行きました。今年のジャムは誰の手元にわたっていくのか。作った分だけの出会いがあると考えるとまた楽しくなります。もうちょっと追加で作っておこうかな。

心地いい苦み

すももの収穫が始まりました。私の体感覚では去年よりちょっと虫食い果が多い印象で。出荷に見合うものはちょっと少ないなぁとも。すももの印象って薄いんですよね。あんまし小さい頃も食べてこなかった。山梨はすももの出荷量が全国1位だというのは、後で知った話。また山梨には「サマーエンジェル」「サマービュート」なるオリジナルの品種があるのですが、いまいち認知度が低いように感じます。出荷用のラベルも申し訳ないけれど正直なんかパッとしないようにみえてしまって・・・(ごめんなさい)

 

まあいいや。私はすももは全体が赤くなる前が好きで、完熟もそれはそれで魅力があるのですが、酸味が勝っている早採りの固い奴がすきなんです。なんというか唾液が出てくるような(レモン想像するやつみたいに)感じがいいんです。すもも畑で、朝もいだものを食べたらシャキッとしますし。なによりもおいしくて・・・

 

 

11時くらいには出荷分の準備ができて、お仕事は切り上げ。そのまま自分の野菜畑に。ちょうど堆肥を切らせていたので、ホームセンターに寄り道。少し安くなっていたので15kgを2袋分。運んでいる途中は車の中が堆肥の匂いでいっぱいになるのですが。もう慣れてしまいました。畑に着いてからは夏野菜たちに追肥をしたり、脇芽の整理をしたりといつもの作業でした。

 

今の畑の様子は夏の暑さと同じくして虫たちがやってきて、特にトマトが食害を受けています。牛乳をかけて消毒をしているけれど、そんなにうまくはいかないわけで。今日も真っ赤に染まったトマトを収穫しようと、実に触れた瞬間に。「うっ」と感触で虫に食べられているのがいくつか・・・。

 

去年は虫を見つけたら全体を見渡して、必死に虫を除去していたのですけど。そうすることも減り、虫食いをみてもあまり反応しないようになりました。だって自然に任せているから・・・・。とはいいつつもやっぱり気持ち的には悲しくて。

 

今日も「うぁ〜食べられている〜」

 

一人、ピーピーギャーギャー、騒いでいたのですが。野菜畑の師匠には「虫がちょっと食べてくれるくらいがちょうどいいんだよ」っていわれて。ああ、確かにとちょっと気持ちが落ち着きます。今でも作りすぎている感があるのだから、調整してくれているのかぁ・・・。なんとも余裕のないことか私。そのありのままが一番調和がとれているのですよね。

 

 

 

さて、今日は一度おうちに戻って所用をすませたあと。夕方もう一度畑に戻りました。あいにくの夕立にあってしまい。ちょっと気分が萎えましたけど。ある野菜を初収穫したいがために。それはこやつです。

 

 

 

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さばかれるまえのゴーヤ。

 

 

多分子供の頃だったら全然好んで食べなかったゴーヤ。いつの間にかこのエグミ、苦味と一見するとマイナスになりそうなこの味覚がとっても美味しく感じるようになるんです。ビールも昔は美味しく感じなかったけど、いつの間にかおいしく感じるようになるとも聞きますし(私はビール。苦手というか受け付けませんが)

 

今の時期。ゴーヤって皆さんはいただくことはあるのでしょうか。好みが分かれますけど、苦手な人でもうまく下ごしらえすれば意外と食べれると思うのです。私の場合は、塩もみした後に、さっと湯どうしするのが定番で、炒めあわせる時には下ごしらえしたゴーヤは最後に投入といったところで。ちょっとえぐいなぁってくらいがとってもおいしいと思うのですが。

 

 

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ちゃんぷるちゃんぷる。

 

 

大人になると、こういった苦いものを好んで食べるようになる一方で、日常生活の苦い場面、部分は避ける一方でなんだかちぐはぐ。相入れなくなってくるような気がして、面白いなって思います。

 

  • 甘味
  • 塩味
  • 酸味
  • 苦味
  • 旨味

 

 

別に興味はないかもしれませんが、私の好きなフルーツは「グレープフルーツ」。ぶどうに関わっているけど、ダントツでグレープフルーツ。そして苦手なのはメロンや柿です。私の味覚は「酸味」が一番。次に「苦味」が心地良いようです。だから妖艶なあまさのするメロンは惑わされてしまってやいやい。ついでにいうと、ビールは「苦味」だけ。喉がおこちゃまなので喉越しとかよくわかりません。日本酒は「甘味」を前面に感じてしまって・・・。やっぱり酸味が欲しい。酸味をください。ということで、一丁前にワインが好みなんです(ワインもいろいろあるけれど)

 

 

最近よく人に話をしているのだけれど、自分に足りないものって「苦労とか辛い場面」だと思うんだよねって、急に言いだしては聞いてもらっているのですが、ある方から「それってぬるま湯じゃないの」ってキツめ?にいわれて。うすうす感じてはいたものの、やっぱりそうなのかもしれないとも思った場面があったのですが。今ってそれこそ「酸味」「苦味」が足りてないから、なんとなく停滞しているような感覚に浸っているのかもって。

 

 

あなたの足りてない味覚。なんとなく想像できました?

 

 

って、あきらかにこじつけ、思いつき。変な占いみたいになっているけれども。こうして頭の中で遊んでみるのも面白いものです。人は物事に共通項を見いだすことが好きなのか得意なのでしょうか。つながっているような、つながっていないような。結局のところよくわかりませんと逃げますけど。なんでもバランスが大切。でもその人のちょうどいいバランス。心地いいバランスがきっとあるはずで。これも一種の自分を思い出す作業なのかもしれません。

 

 

新鮮な野菜が食べれていいねぇといわれるけれど。確かにちょっとだけ優越感があって「いいだろ〜」って気持ちがあるけれど、こっちもバランスが大切なわけで。タンパク質と脂質が圧倒的に足りません。

 

 

もうちょっとお肉。食べなきゃ。

居場所を探したり、つくったり。

土曜日は雨降りでした。もうすぐすももの出荷が始まるということで。午前中はもろもろの準備をして午後はお仕事がお休みになりました。なかなかゆったりする時間がないので、ここぞとばかりに収穫していた野菜をまとめて漬けたり、おすそ分けして。加工中に出た野菜の端材ももれなく刻んでいためて。久々におうちでゆっくりと昼食をとることができました。

 

その後はなかなか手をつけられていなかった依頼の考案やら、郵便物の差し出しとか、お掃除とかをしていたんです。こうしてずっととりかかれなかったタスクをこなしていって、なんとももやもやしていた気持ちがスッキリ!ちょっとコーヒーを飲んで一息入れましょうかね。とコーヒー豆をごりごり。ピュ〜っと火にかけたケトルが鳴き始めたタイミングでコーヒーをドリップ。牛乳をたっぷり入れて。よ〜し。続きをやろうかなぁって。

 

そうしてデスクに戻った瞬間、スマホInstagramの通知が入ったんですよね。おお。さっきあげた昼食の反応かしら?っておもってアプリを開いてみると。

 

 

さりげなくコメントが入っていたんですよね。

 

「今夜、nanodaで待ってます!」

 

・・・。ついにInstagramまで手が伸びてきたか・・・。

 

うぁ〜どうしようかなぁと。せっかくのお休みでゆっくりしたほうがいいよなぁと思いつつも。結局このタイミングでお誘いがくるということはなにかの縁だよなぁって。断る理由もとくに見つからず。とりあえず畑仕事で顔の周りとか、いちおうほったらかしている身だしなみだけは綺麗サッパリと整えてから、簡単なお泊りセットをもって向かいました。そう塩尻。なんだかんだ言っているけれども、行く選択をしているのは私自身なんですよねって。

 

 

【7月9日(土)18:00-23:00】 ゲストと7月のお誕生日会なのだ!ーツルハシブックスの作り方なのだ!

 

 

ゲストは・・・・

 

ツルハシブックスの西田さん

 

www.tsuruhashibooks.com

 

まつもと空き家プロジェクトの増川さん

 

matsumoto.keizai.biz

 

どんなことをされている方達なのか。それは興味のあるかたに見ていただくとして。なんとなくおもったことを。

 

最近は自分がおしゃべりがとまらない人間だということを自覚し始めたので。今回はじっと堪えて?皆の話を聞いていました。どんな風に聞いていたかというと。

 

「最近の若い子たちが貢献したい、何かをしたいという気持ちはどこからくるのか?」

 

そんなことを考えながら聞き耳を立てていると。

皆にとっての本屋さんについて語る場面になっていました。

 

本屋さんの良いところや、各自の独自の見方を聞いて「なるほどなぁ」と思ってふむふむと唸っていたところ。

 

「書店って買わなくても、その場にいて良いというか、いていいんだって思える」

 

そんな話をしてくれた子がいました。

 

他の話の流れを含めて思ったことなのですが。

 

今は色々な情報がネットにも、スマホにもあるし、物理的にも結構満たされているからこそ、自らが面白いことをやろう!という「若い子たち」が増えているのかな?と思っていたのですけど、意外と自分の居場所がないと感じている子が実は多いのかな?ってなんとなく感じたのです。

 

そこで私は、

 

「やはりココロのどこかで満たされていない部分があって、それは一種の承認欲求に近いもので、周囲に目がいっているようで結局一番は自分の親(兄弟、親しい友達など)に向かっていると思うんです。認められたいというか、必要とされたいんのではないのでしょうか」

 

「そうして何かをするごとに、親の様子をうかがっているように見えます」

 

 

こうして切り出してみると。興味深い話を聞くことができました。

 

「似たようなことがあって。なにかのボランティアで最後まで残っているのは、無職の人やニートの子達が多いんですよ。ふだん居場所のない人はそこに居場所をみつけるのかもね」

 

 

きっと本来の居場所を担ってきたのは、間違いなく家族の住む家、近所付き合い、まちのコミュニティだったと思うのですが、それもいわゆる「昔」の考え方なのでしょうか。そうして少しの勇気と、行動力のある人現れて。居場所をつくると、あっという間に人が集まってくる。いろんな人がそこに集まっているようにも感じるけれど。そこで最後まで残るのは似た人達、そこに居場所を見出せた人が大半を占めていきそうです。

 

 

書いていて思ったのは、ずっと「自立」という「個」に向かっていた意識が急速に戻りつつあって。新しい事をしているようで、実は自ら離れたり捨て去っていったはずのコミュニティの再構築をただしているだけなんじゃないかとも。

 

 

 

まあ、いつもながら頭をこねくり回しすぎてまとまってませんが・・・。

(お酒が入っていたので、話の内容によっては私の脳内補完が多分に入っていそうです。あしからず)

 

 

 

さて今回も絶妙なタイミング。

 

本当かどうか。

 

「ちょうどInstagramをひらいたらリッキーの投稿だったんよね〜」

 

と、Y氏の談。真意はわかりませんが。いつもどんなに忙しい時でも私の雨のタイミングでちょうど時間ができたそのときに、さそいの手を入れてくる感じが、なんともいやらしくて、さすがだなぁと感嘆の思いなわけで。

 

生きているすべての人間の意識は実はすべてつながっている。

 

なんてことを聞いたことがあるので、それなら自然なことよね!と、帰りの車内で一人納得しながら、自分の山へと帰りました。

 

 

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朝。帰りに通ったの諏訪湖周辺はひんやり心地よい風が