ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

いちじくがひとつ。

今日はやっと一部の畑で袋がけが始まりました。春の終わりからずっと駆け足で葡萄の成長がすすみ。なんとか人間の手がついていっている状況がずっと続いておりますが。袋がけが始まるとちょっとばかし先がみえてきたようにも感じ。少しばかり心に余裕が生まれてきます。それでもやることはまだまだいっぱいあるのでもう一踏ん張りというところなのですが。

 

なんとも日中の最高気温が30度を越えてくるとさすがに疲労感が違ってきます。例年通り順調に頬がこけ、体重も減っているのは変わらないことですが。今年は自分で育てた野菜を毎日食べているので、時々くる腹痛だけ除けば健康そのもので。こうして健康に毎日すごせることに感謝しっぱなしです。

 

 

野菜畑についても、ようやくトマトが赤くなり始め。もう少しすれば夏野菜の収穫のピークを迎えそうです。野菜だけに限れば、私の食糧自給率は90%くらい行くんじゃなかとも。毎日ご飯は自分でつくっているけれど。私の献立で足りないのは、きのこともやしとキャベツくらいで。あとはほとんど揃っています。シソに至っては去年のこぼれだねから勝手に芽が出てきて。ちょっとだけ植え替えてあげただけで、今シーズンすでに200〜300枚くらい収穫できています。おかげさまで毎日なににでもしそを合わせてご飯を食べています。

 

 

 

 

さて。野菜の水やりを終えて、農道を歩いていると。何度か通りすがりに挨拶はしていたけど、ちゃんと話したことのない、おばあちゃんとなんだか目があったんです。

 

「今日は何を収穫したの?」

 

私よりも広い畑でいろいろな作物をいるのはそれとなく知っていたので、謙遜しながら、ちょっと恥ずかしなという気持ちで

 

「今日はししとうとピーマンを少しだけ摘んできました」

 

持っていた袋の中身を開けながら答えます。

 

 

「いいね。私のいろいろ作っているんだよ。」

 

 

そこから少しばかし話をしていました。

 

 

「今は何が採れる?」

「畑で作っているの?」

「今は里芋の水やりが一苦労なのよ」

 

 

 

いろいろな事をたくさん教えてくれて、そこから畑を見ていきなよって。そうしてちょっと散策させていただいて、私の小さな10坪ちょっとの畑よりも数倍広いし、うまく畑のレイアウトが出来てて、野菜の株間も絶妙で無駄がない感じ。

 

 

「きっと、ずっとやっているからだね」

 

 

おじいちゃんとおばあちゃんの二人でやっているそうな。今は面積の少なくなった果樹の仕事をお天道様が真上に上がるまでやって、15時くらいまではお家で休んで。そうしてそこから野菜畑にきて世話をしているそうな。大変なのといいつつも、それが毎日の習慣だから自然にみえました。

 

 

「ちょっとまってな」

 

 

ふと思い出したかなのように、畑の奥に入ってがさごそやっているなと思ったら、何かを手にして戻ってきました。

 

 

「これひとつだけど、食べて」

 

 

そこには、もいだばかりイチジクがありました。

 

 

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 なんともいいフォルム。

 

 

最近は雨が降っていなければ、毎日仕事終わりに野菜畑で水やりとかしていると、何度か書いていますが。ただ好きで、自分が食べるために、ちくちく作業をしているだけですけど。そうしているだけでこうしたご好意をいただく事が随分増えてきました。野菜をいただく事も多いです。それもたくさんの量を一度にいただくので、なんだか申し訳ない気持ち。何もお返しする事ができないので「いただくだけになってしまってすみません」とつたえると。

 

 

「話を聞いてくれただけでいいんだよ。もらっていきなって」

 

 

ここには一切の損得の意識もないんです。今日初めて話したばかりの見ず知らずの若造に良くしてくれるんです。私なんかまだまだ至らないことが多くて。人からよく思われたい欲求がどこかに潜んでいます。私の周囲でも、何かの集まりに参加した時でも。結局自ら何かを提供している人は何人くらいいるんでしょうか。それも見返りなしで。ほとんどの人が「くれくれ」って状態のようにも感じます。

 

与えることができる人がさらに与えられる。

 

よく言ったもので、

 

  • お金が儲かったら募金をするという人は、儲かってからする人はいないし。
  • 子供が遊んでくれっていって、仕事が終わったら遊んであげるからねといって、仕事が終わってから自分から「遊ぼうか」っていう人は少ない。
  • もう少し時間があれば・・・といって、時間ができても実は何もしない。

 

 

枚挙にいとまがありません。普段からしていないことはできないのです。

 

そんなことを考えてしまう私だからこそ、なんとも嬉しい気持ちと一緒にいちじくを握り締めながら(優しくね)帰路につきました。

 

 

 

 

今は世の中ではイギリスでの国民投票の話では「若者」「老人」の構図をいろいろと語っていたり、日本では名経営者といわれていた方の「老害」だとか「晩節を濁すな」とか、高齢者の方への風当たりが一部で強くなっているようです。ご年配の方の中にも様々な人がいますのでひとくくりにはできませんが、いずれ誰もが年齢を重ねていきます。その時どうなっているか。同じ立場になるかもしれませんし、ならないかもしれません。しかし少なくとも今の高齢者の方への対応は未来への自分へと返ってくるような気がしてなりません。

 

 

現代では核家族が普通ですし。身近なおばあちゃんおじいちゃんとと関わる機会も少ないようにも思えますし。普段から接していればそこまで怪訝な態度にも気持ちにもならないと思うのですが・・・。高齢者社会という言葉が使われて久しい世の中です。多くの問題頻繁に目にします。しかし、その問題の多くは単に孤独だとか。必要とされていないという気持ちだとか。コミュニケーションに端を発することがほとんどではないかなとも感じます。一週間にちょっとだけでも会話を交わすだけで。ほとんどの問題は解決してしまうのではないかってふと考えてしまいました。(浅はかな考えかもしれません

 

 

イチジク。一見馴染みがなさそうにみえて。じつはとっても身近なものでした。子供の頃、実家の前はイチジク畑が一面に広がっていました。時々農家さんがイチジクをくれて食べていたんです。今はもう賃貸住宅が建っているので、畑があった面影もありません。なんとも不思議なものでなんだかその頃の情景とともに、生前のおばあちゃんの記憶がふと思い出されました。懐かしいようなちょっと寂しいような。それもイチジクをくれた優しいおばあちゃんにその姿を重ねていたのかもしれませんね。

 

 

こうして思い浮かんだ時には呼ばれているような気もします。もう少しで今のバタバタした農作業の峠を越えそうな気がしています。(峠を越えても休めませんが)そろそろお墓参りにいって久々に顔を見せにいきたいものです。

 

つるのからまり

まあ暑いです「暑いですね」が挨拶になってきたら、その間はずっと夏でいいんじゃないでしょうかって思うくらいに、日常にその言葉が溶け込んでいるような季節です。休憩するにも、どこもかしこも暑いのでみんな日陰を探すのに一生懸命です。手を動かしているときより、じっとしているときのほうが暑さを感じてしまって仕方がないです。相変わらずぶどうの成長にあおられまくりな日々を過ごしております。朝出かけて行って夕方まであっという間ですから。それだけ集中できているのかもしれません。

 

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今日は草をたくさん刈りました。

 

仕事終わりには相変わらず、野菜畑に出向いています。こちらも気温の上昇とともに成長が進んでいます。今日も仕事終わりに畑にいって、ちくちく作業をしていたらいつの間にか1時間半前後たっているのです。こちらもいろいろとやることがあるのです。そういえば。この前友人から「○○って普段何やってるか、全然わからんね〜」って言われて。確かにそうかもって思ったので。あんまし詳細は触れたことないですけど、とある日の流れを書いてみます。

 

  • 5:00  起床

 

NHK WORLD RADIO JAPAN(Podcast)をとりあえず流す。朝ごはん、お弁当を作る。ご飯を食べながら本か新聞をチラチラみる。顔洗って、歯を磨く。仕事の支度をする。

 

  • 6:20   葡萄畑に出発
  • 17:20 葡萄畑を出る

 

  • 17:35 野菜畑に到着
  1. 全体の水やり
  2. 草取り
  3. 各野菜の脇芽の除去
  4. 病害箇所の除去
  5. 新しい野菜を植えるための耕起
  6. 地張りきゅうりの種まき
  7. トマト・なす・ピーマンの誘引
  8. ゴーヤーの副梢の整理
  9. きゅうり、なす、ししとうの収穫

(これは今日やったこと)

 

とまあ、今日はゴーヤーの絡まったツルを解くのが大変で大変で、一度つるんでしまうと外すのに一苦労でした。

 

しかし、時間で言えば水やりが7割くらい幅を占めている。こんなことをやってればそれだけかかるのですけど、もうこれも1日のルーチンに入っているので、大変じゃないし。むしろ夕方の涼しい時間に静かに作業をしていると、体がクールダウンしていって、気持ちも落ち着いてきます。これだけやっても、周囲は明るいですから。日の長さをじかに感じます。いちおう農民っぽいことをちゃんと?してるんですよ。

 

  • 19:20 野菜畑を出る
  • 19:35 帰宅

 その後はお家に帰ってきて、まずはお米を研いで、炊飯器のスイッチオン。お風呂を沸かす。ケトルでお湯を沸かす。その後は洗濯機をまわす。紅茶か、コーヒーを入れて一息つきながら、ちょっと部屋の片付け、洗濯を取り込む。そうして収穫してきた野菜とにらめっこしながら夕飯の準備。最近は一汁一菜にきゅうりの丸かじりが多いかも。そうして、お風呂に入る

 

  • 21:00 〜

 

着替えてその日にやったことの記録をつける。ブログを書く、頼まれごとを進める

 

  • 22:00くらい〜 

 

だいたいこの時間に眠気が迎えにやってくる感じ。夏の睡眠不足は即体調不良につながるので、とりあえず何をしていても切り上げて、本を片手に寝るようにしてます。だいたい数ページで落ちてます。

 

 

と、どうですか。これでわかりましたかね?

 

 

みなさんからみて、この生活がどんな風に見えるかはわかりませんが、なんか満足しきってしまってるんですよね。太陽の下で働いているのも、自分で好きなものを栽培して調理して食べることも、あき時間に本を読めるのも。今の私には贅沢なんですよね。この年齢で山の中にきたのはちょっと早かったかもって最近思いますもん。満足したらそこで成長は止まるとかいう人もいるけれど。好きに言ってくれればいいやって。

 

 

本当に山梨にきたときは仕事以外では誰も知り合いもいないし、葡萄以外で何をすればいいかとかも別に何も考えていなかったし、とりあえず葡萄をやろうって決めたので黙々とこなしているだけで、漠然とこうなったらいいなぁと思っていることはあっても、目の前のことをこなしているだけ。今のその延長線上にいて、余裕が生まれたところに、負担にならないことを少しずつやらせていただいているだけのこと。

 

 

葡萄が好きで、ワインが好きで。仕事を辞めて、小さな一人旅をして。そうして畑にきましたって、自己紹介とかで普通に人に話すけど。別にそのときの自分が一番興味あったのがそれだったから動いてみただけで。特にビジョンが見えていたわけでもないのですよね。あんなに毎日街に繰り出しては、お酒ばっか飲んでいた私ですけど、月に1度飲むか飲まないかくらいになってしまって、ワインも全然飲んでないですから。ワインを含めお酒を飲まなくなると「あれ?俺ってワインって好きだったのだろうか?」ってふと思うことがありますから、どうしようもないですよねw

 

 

自分の選択したことをしているから、多少の悩みとか不安とかあれど。人に何かをやれって言われるわけでもないし、ストレスもほとんどないので、ほどほどにいい生活かもしれません。そんなことなので前は友人が少ないからイベントとかに言って色々な人の話を聞いたりして、つながり増やそう!とかって、孤独の穴埋めみたいなことをしてましたけど。それもなくなってきました。

 

 

前にも書いたことがあるのですけど、小学校からの友人に。

 

○○ってさ、昔から特定のやつらとつるまないのに、はぶきにはならないんだよね。

 

 

って、今でも記憶に残っているのですが。

 

結局、私の小さい頃からの落ち着く場所は前述のとおりで。そこへ戻ってきたのかもしれません。

 

 

やはり、面白い人や気の合う仲間と一緒に行動したりするのも楽しいけれど。集団に属するのってエネルギーがいると思うのですよね。離れるのももちろん。

 

どんな場所にいっても、似た者同士が自然と集団を形成する

 

 

と、ある本で書いてありましたが。私もそう思いますし。その結果勝手にそれぞれの線を引いて「あの人はあのグループの人だよね」ってなる場合もあるのかなって。あるいみのそれが内輪感ってやつで。そうなるといくら働きかけても「あの人たちはそんなことをしていますね」って他人事に見えているだけで、まるでべつの世界のことに言う人もいます。また一回つるんでしまうとなんか抜けづらいですし(私だけ?)「最近○○さんこないよね」ってなりそうですもん。

 

 

それって人間なので仕方がないとも私は思うので、どうするかといえば自分の直感を判断基準に、一人で動くということでしかないんですよね。SNSとかでいろんな人のシェアされたことがフィードに流れてますけど、それはもう他の人のバイアスが入ってしまっているので、影響を受けてしまっているんです。特にネットで情報をしっかりと集めていますっているけど、ネットの情報って一次情報以外がほとんどだし、若い世代ほどネットで検索するのが得意な分、たどり着く情報が似てきてしまって。話を聞いても面白みにかけているような。

 

 

・・・・

 

 

いつの間にか話が脱線ししぎて、道路を走っていたようです。

 

何事も適度な付き合い方って大事だなって思いました。おしまい。

 

 

 

さて、あんましニュースを見ていないので詳しくはわからないのですけど、なにやら水不足?なんですね。確かに雨が少ないなぁと思っていましたけど、葡萄にはプラスに働くのではないかなとも。周辺では早生の桃の出荷が始待っている様子で。果物王国の一角である山梨に訪れる人が増えそうですね。

 

 

ああ、時間が・・・。もう寝なくては。

周り回って元の場所に

ここしばらくはずっと、葡萄の成長具合になかなか追いつくことができず、明け方からせかせかとした作業が続いており、暑くて汗をかいているのか、冷や汗なのかわからないまま、いつの間にか週が終わっているという感じ。「今日何曜日だっけな?」ってふと気付いたときに呟くのですがチラッとiPhoneをみると「ああもう日曜なのか」ってこんな感じの独り言とかしょっちゅう。もうその季節なのかわかりませんが、夏の暑さのせいにしておきたいところ。

 

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休憩の日陰を探すのが大変です。 

 

 

ここ2ヶ月くらいは日中はがっつり農作業した後に、自分の野菜畑にいってさらに農作業をするというのが日課「俺は葡萄のあとに、野菜作ったりする気にならんよ」って師匠にいわれることがあって。確かにそうだなぁ、自分でもよく続くよなぁと思いつつも、野菜畑でちまちまと水やりしたり、誘引したり、脇芽とったりしていると、これはこれで疲れがとれるというか、気持ちが落ち着くというか、クールダウンになるというか、なんかプラスに働いているのです。

 

 

特にここ数日は晩春、初夏の野菜の初収穫ラッシュで、ビーツ、サニーレタス、玉ねぎ、にんにく、きゅうり、ししとうなどと、続いているし、新ジャガもたくさんいただいていて至れり尽くせり。よけいに楽しいのかも。自分で作っているから美味しく感じるのはもちろんなのですが、最近知人の姉様から

 

「安心感が贅沢だね」

 

ってお言葉をいただいて。さらに増し増しで味も気持ちも満たされているように感じます。有機とかエコとかには勝てないのかもしれないけど、自分で育てて、自分で消費する贅沢には変えられないよなと、さらに実感して。ますますのめり込んでいるようにも。

 

 

収集心の強い私の性も相まって、育てたことのない野菜、他の人がやってない種とかに手を出しまくってしまう。こんなところにも自分がでているなぁと感じます。収穫が近くなる作物があると、すでにそのスペースで何を育てようかって、ずっと思案してますもんね。最近ではホームセンター以外でも、種売り場を自然とチェックしてますから、よほど楽しいんでしょう(まるで他人事みたいに)

 

 

そんな風に生活しているので、どんどん周囲への関心が減ってきて困っています。まあ充実して、楽しいのだけれど「俺はこのままの生活をしていていいんだろうか」って思ったりもします。ありがたいことに「○○君はもったいないよ、なにか新しく始めればいいのに!」って何度かおっしゃっていただくこともあるのですけど。いいか悪いか今の現状に満足してしまっているようで、ますます欲が湧かないんですよね(欲がないわけじゃないですが)しいて言うならきっと調理道具がほしい!になりそうだし。

 

 

 

最近、農作業をしながらよく論語関連の本聞いていて「やばい今の私の状態はもしかして怠慢かも」「次の目標が必要なのか」って感じたと思ったら、他の編を聞くと「あれ、これが足るを知るってことなのか」となんだかよくわからない状態になっています。今のところの結論?としては、今自分は安定の位置にいる気がしているので、きっと必要なのは「苦労」なのかな?と思うに至っております。その苦労を十分に買うお金はそんなにないですけど。

 

 

ここまで書いてきて気付いたのは「今の関心事は自分に向いている」ってこと

 

 

少ないながらもいろんな人に、いろんな本に出会ってきました。そうすれば何かのタイミングで変化が起きると思っていて。そうしていろいろ外に向いていた意識は、どんどん自分に収束してきています。なんだか急がば回れ状態で駆け回っていたけれど、結局自分の元へたどり着いたというかなんというか。前は自分より若い人たちに「いろいろなイベントに行ったほうが」「面白い人たちの話を聞くのがいいよ」って我が物顔で偉そうに言っていたのが恥ずかしいくらい。

 

 

多分今の自分が同じ状況でなにか聞かれたら。

 

自分をもっと知りなさい。関心をもちなさい

 

ってことをいいそうです。

 

要は自分のことに意識を向ける時間をもっととればいいんじゃないかなぁってことをいつもながら、しつこく、延々としゃべってしまいそうで怖いです。

 

 

 

外から内へというのも。普通、自分を知らない人が周囲からの刺激を受けたところで、変化してないんですよね。ただ一緒の場にいて気持ちよくなっているだけ。本当にビビビッて変化が訪れる瞬間も訪れることももちろんありますが、イベントでもなんでも、その場を離れたら徐々にその意識がなくなっていって、いつの間にかあるべき日常、自分に戻っているんです。すごい人にあいにいくと、なんだかその気になっているってやつなんですが。本当に表面だけその気になっているだけの色々なことしても意味ないなって(全部私自身のことを書いてます)

 

 

じゃあどうするんだよって。ってことですが。

 

 

刺激に対して、自分がどう反応しているかを観察する

 

 

 

少し意識するだけでも、多くのことがわかります。あくまで私でいうと、

 

 

 

内容とかよくわからないけど、誘われたから参加した

 

 

 

ってパターンが一番楽しいし得るものがあります。変に頭の中で準備してないですし、フリーな状態で行けるのが良かったり。また私は人に興味が向くので。なにかのイベントに行ったときに一番気にになるのって、その人のフォロワーはどんな人たちかってことだったりもしますし。そうして一定の確率で「なんだこの人不思議な感覚の人だなぁ」「全然この人読めないぞ」って属性の違う人に出会ったら、もう最高。

 

 

 

 

ちょっとニュアンスが違うけれど、ある番組で武井壮さんの若いときの体調管理の話を聞いていて、すごいなと思った話があって。

 

 

「自分の調子がいいときってどんなときなんだろう」

 

って問いから始まって、天気でも、食べ物、体温でもとにかくなんでも記録していたと。そうして常に調子の良い状態を知り、それをキープしていた。

 

 

というようなお話しされていて。ここまでしてやっと自分を知ることができるんだよなって。じゃあ、自分はどこまで自分のことを知っているんだろうと思いを走らせても、結局よくわからないんです。というか考えてなかったんだなと気づくわけです。

 

 

 

しきりにチャレンジがどうとか、目標がどうとか、面白いことをやりましょう!ってなるけど、それを聞いて「よし俺も!!」ってすぐに行動へってなる人はいいけれど、私はなかなかそうはならなかった。でもそれは悪いことではなくて、ちょっと物怖じしちゃう気持ちがあるのであれば、無理に同調とか、真似しなくてもいいと思うんです。チャレンジも目標も義務になってしまったら重石にしかならないですから。そんなのその人たちに任せておけばいいやって、くらいに思っていればいいじゃないでしょうか。それが自分なんですから。自然とそのときがくれば、周囲にいわれるまでもなく、チャレンジしていたときの自分をみんな知っていると思います。

 

 

とだらだらと書いてしまいましたけど、自分ってなかなかというか。どんどん分からなくなっているというのが実感です。あしからず。

 

 

こんなことをかいているのも、重ねてきた年齢がそうさせるのか、山川夫妻が翻訳された本、関連本をまとめて買って、毎日寝る前に読み進めている(眠気に負けてだいたい数ページでもう意識ないですが)からなのか。よくわかりませんが、とりあえず瞑想をして探ってみたいと思います。もちろん睡眠学習ではなく。

正しいとか、間違っているとか

これも異常気象なのか?ってくらいに、過ごしやすい日が続いています。これが例年通りなのかもしれないし、普通よりもちょっとだけ標高の高い地域で仕事をしているからっていうこともありかもしれません。朝と夕方にはちょっと強めの風が吹いていて、肌寒いくらいにも。お昼は日陰でお昼寝をしているのですけど、皆口々に「これじゃあ、風邪をひいちまうな〜」なんていっているくらいですから。それでも涼しいというのはとっても有り難くて、仕事がとってもしやすい分、効率も上がっている気がします。寒く感じる強い風も見方によっては追い風なのかもしれませんね。

 

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爽やかな陽気という言葉がピッタリ。

 

 

先月から本格シーズンに入って一ヶ月。カラダは夏仕様にめきめきと変わってきていることもあり、疲労も軽減されてきているのですが、この時期は朝から夕方まで首を横に斜めに上にと傾けながら作業していることプラスして、腕を上げながら仕事をしているので、まあ首回り、肩周りがガチガチです。それにプラスして家に戻ってきてからはパソコンの前にいると、姿勢も悪いとあって。もう。ね。

 

 

こうして仕事をしていると色々な方から助言を受けることがあります。この作業はこうしたほうがいいよ。もっと早くなるよと。と農家出身でない私は見よう見まねで、なるべく早く仕事ができるようにならなくては・・・と、そうやっていたらそれなりに早く仕事ができるようになりました。大変ありがたいことです。

 

 

しかしあとから振り返ればそう見えるのですが、助言の仕方によってはその時その時で素直に受け取れないことがあります。言い方はそれぞれあるのはいいとして、時々いっていることがコロッと変わったり、あれ?昨日といっていること違うのだけれど。と思ったり。この前言った事を実践しているのに「これじゃあダメだよ」って言われると「何言ってるんだこいつは」って、いつもの感謝が飛んでいってしまい消えてしまう時も。やっぱり私も人間なのでそう思ったりしたこともあるのです。その時の私の調子もあるのでしょうが、言われた瞬間に怒りが湧いてくることもしばしば。

 

 

そんな時、普段怒りの感情を出していない分、怒りがどばどばどばって止めどなく出そうになるのだけど(それで漏れたりすることもあるけど)数分経つと「おっと、怒りが出てきているな」って自分を俯瞰してみることができるようになってきました。不思議なものでそうやって怒りを外から見れた瞬間に怒りは消えていきます。ここまで反応的になる必要はないなって思うし、怒っている自分ってダサいよなって思うので、どんどん収束していって平穏に戻ります。

 

その後は反省とまでは言わないけれど、なんであんなに自分は怒ったのだろう。と自分の中と、相手の中を探っていきます。

 

 

今回書いているパターンで、自分を探っていくと

 

 

自分は言われたことをやっている(正しい)

相手はこの前こういったのだから(間違い)

 

 

自分は正しさを証明しようとしているのか・・・

 

 

というところに落ち着きます。って私が反応的になるのはこうしたことが多いような気がします。この自分は正しいことをやっている!というエネルギーは変な正義感がくっついてくるので、案外強いもので。普段あまり反応的にならないのですが、こればっかりはわかっていても反応的になってしまうようです。ある種この怒りは、なにかニュースやらほかのメディアやらで「不祥事」のようなものが出てきた時、ネット上で色々な意見がでてくるときの心情に似ているかもしれませんね。

 

 

 

前述したのは受け身の場合ですが、この逆もありえるわけで。明らかに間違ったことをやっている人に対して、正しいことを言った場合に。受け手がなかなか聞き入れない場合はどうしますか?

 

こうした場合でも正しい方に分があると思うので(私は)、聞き入れない人に対しては「なぜこいつはいうことをきかないのか」って思ってしまいます。この場面に接したときには、正しい、正義感のようなもとに太刀打ちするのは容易ではないので「相手が納得しないのは違う理由かもしれない」ということにはなかなか気づけないようです。

 

 

ちょっと偏った場面を取り上げてしまいましたが、他にも似たようなことが次々と浮かんでくるのですよね。

 

 

 

「今の若い子たちはイベントにはよく参加するけれど、自分ではなかなか動かないんだよ」

 

 

前になにかのイベントのときにこう話している人がいて「そうなんですね」って私は答えていて。そうかもしれないなぁと少し思っていたけど。これは参加した人がどうこうではないよなぁと思ったり。

 

 

「努力すれば何でもできる。死ぬ気でやれば何でもできるんだよって、論破してやったよ」

 

って意気揚々と話されている方がいて。確かにそうよね。って思う反面。正しいのかもしれないけど、独りよがりのようにも見えるし、それで相手はなにが変わって、何が得られるのかしら。

 

 

 

 

 

そんな中、たまたま小説家の平野さんのインタビューを聞いていて、なんか心にのこった部分があって。

 

 

やっぱり信頼第一ですよ。変なこと言えば一時的には盛り上がるけど、そういう人たちはどこかでそこが割れて、そんな人かって馬鹿にされるし。いくらその人のフォロワーがいても半分は馬鹿にしてみてる状況になっちゃうのですよね。みんな忙しいし、信頼できないものには付き合いきれなくなってくる。

 

・・・・

 

「この意見よくわかんないけどでもこの人が言うのだからなんかあるのかな?」という感じに、反対意見も受け留められるくらいの物書きとしての信頼を維持するのが大切だなと思います。 

 

 

 

ちょっとニュアンスが違うし、切り取りなので、受け取り方が変わりそうですが、

 

 

 

正しいこと云々が問題ではなく、信頼がなければ受け入れることができない

 

 

結局ここにも人柄というか、人格が必要なんだよな。って

 

 

そんなことを書いていたら。昔、父親「肘をついて飯を食べるな!!」って何度も怒られていたけど、それって父親も時々肘をついてご飯を食べているのを何度が目撃して。「なんかおかしいよなぁ」と子どもごころに感じていたことも思い出しました。あんまし正論を振りかざすことはしていない(はず)ので、大丈夫だとは思いますが、いろいろを考えさせられました。

お腹の痛みで目覚める

昨日の話。朝起きた瞬間から体が重くて重くて。なんかおかしい。朝ごはんのときにもご飯が喉を通らなくて、ちょっと吐き気があるし、お腹も下しているし。何よりもお腹(胃のあたり)がグ〜っと鈍い痛みがあったんです。それでも何か食べなければ仕事が辛いと思って、少しだけ喉を通したのですけど、数十分もしないうちにお腹がさらに痛くなるという始末でした。

 

まあ、会社勤めだったら「お腹痛いです」ってお休みのコースなのですけど。お腹痛いのでぶどうさんちょっと待っててくださいというわけにはいかないわけで。まあ辛い辛い一日。それでも「本当にダメだったら途中で抜けて帰ろう帰ろう」って思っているうちにお昼がすぎ、いつの間にか夕方まで仕事をすることができました。家に着いても洗濯物だけは・・・洗い物だけは・・・と家事をすませ、21時前後には横になりました。

 

山梨に来てからは、体調不良でお休みしたことはないのですが。年に数回だけ、急に体調が悪くなるときがあるので、辛いのは変わらないけれど

 

「いやぁ〜久々にきた〜、ヤバいぞヤバいぞ〜これはだいぶ調子悪いぞ〜」

 

って心の中で楽しんでいる自分もいたりして。一日終わったときにはなんとも変な達成感まである始末で。人間って面白い生き物だなぁとも思うわけです(そんなの私だけかもだけど)こうして辛いときを何度か経験すると、これが変な経験となって、次に何か辛いことが起きたとき。

 

「この前のほうが辛かったから、多分今回は乗り切れるな」

 

なんて、辛さのバロメーターというか、評価基準ができてくるんですよね。私のお腹の痛みとは比べものにならないほどの(あたりまえですが)辛いことを経験されている方々はたくさんいるわけで、やっぱりそういう経験があると人って確実に強くなっているし、そんな方々には勝てないなぁと思ったりします。

 

 

 

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房つくり。これがあんな大きさの粒になるのですから。

 

そうそう。ぶどうは花がどんどん咲いているので、追いつけ追い越せでとにかく房作りの作業をしています。さすがに3年目のシーズンでハサミを動かす手はほどよく力抜けていて、「チョキチョキ」と小気味よい音に合わせて、ハサミにかけた指をせっせと動かしています。静かな場所であれば、ハサミの音が聞こえるだけで不思議な空間と化しているようで、畑の中は外と切り離された一種の別世界にも見えてきます。

 

 

 

 

さて。今日はちょっと危ない?話をします。

 

抵抗ある人は読み進めないほうがいいかもしれません。

 

 

 

皆さんは神様っていると思いますか。

運命って在ると思いますか。

人って生まれ変わると思いますか。

 

 

私はどう思っているかといえば、いないと思っていたんだけど、もしかしたらいるのかもしれないなって位置にいて、もうちょっとでいるんだなって傾きそうな場所に立っているというのが正しいかもしれません。

 

 

急になんだよお前。大丈夫か?

 

 

ってことなんですが。これは畑である本を繰り返し聞いていたから。

 

 

輪廻転生を信じると人生が変わる (角川文庫)

輪廻転生を信じると人生が変わる (角川文庫)

 

 

著者の山川紘矢さんは、有名な翻訳者で。過去に翻訳された本であればこちら

 

ザ・シークレット

ザ・シークレット

 

 

そう。引き寄せの法則って聞いてピンと来る方はわかるかもしれません。

 

kotobank.jp

 

 

本の名前にもあるように。「輪廻転生」なんて、書いてあるので、変な宗教か?とか言われそうですが・・・。(本の中では、宗教とスピリュアルは違うということにも触れています)

 

 

本の中ではとても信じられないような出来事がたくさん「これは本当かもしれないな」思った箇所がいくつかあったので。残しておきます。

 

自分は何か。

 

「自分は何をするために生まれてきたんだろう」

 

 

この類の問いが浮かんだことは皆さんはありますか?私が特別な人間でなければ、これまで生きてきた中で一度や二度はふと考えたことがある方がいるかもしれません。

 

この問いが浮かぶとき。なかなか夜寝付けないときの場合がほどんどで、いつも答えが出ません。このまま考え過ぎたら沼から足が抜けなくなるかも・・・どんどん強くなっていって「やめようやめよう」って、自制を効かせる。よし寝よう!と決めても、なかなか寝付けないので、また考えてしまう。そうして「ダメだダメだ」って自分に言い聞かせる。そんなことをやっているうちにいつの間にか夢の中・・・。

 

 

確たる成功者で「私はお金持ちになる」と知っている人はお金持ちになるそうです。私は総理大臣になると知っている人は総理大臣なります。ということも書かれています。自分を知っている人はそうなるようです。

 

過去にも皆さんがご存知のような経営者さんの自伝を何冊か読んでいるのですが、自分の運命を知る。見えない大きな手がある。宇宙と調和するということが普通に書かれていることを私は知っているので。真実を話しているかもしれないとますます感じます。

 

 

 

また似たような?ことがあります。

 

NLPの手法の中に、失敗ばかりしてしまう部下に相談されたときの対処法というのがあって、そこでは・・・

 

「なかなかうまくいかないんです」という言葉を聞いたら、それはチャンスです。それは過去にうまくいっていることがその人の中にあるからです。「どうしてうまくいかなかったってわかるの?」と聞いてあげると「ああ、この前は◯◯の場面で□□みたいなことがあって」とうまくいっていたことを本人が思い出します。

 

初めて教えてもらった時には「確かに・・・」と私は頷いたわけですが。

 

 

もう一つ。

 

 

やりたいことが見つからないという人に対して私はこうアドバイスすることがあります。

 

「小さい時、学生の時、褒められたことや、なんかうまくいってしまったことって何かないかな?」

 

「そこにヒントがあるんじゃないかな?」

 

とこう続けます。

 

 

ちょっと似ているようで、似ていないかもしれません。

 

しかし、これには近いものがあって。「自分とは何か」ということは「自分をおもいだす」ということにつながっていて「答えは自分の中にある。自分は答えを知っている」ということになるんだな。と、そんな気がしてなりません。

 

 

 

引き寄せの法則の本当の意味

 

「うわぁやったよ。これは引き寄せだよ」

「よかったね、引き寄せだね!」

 

なんて、いつかの友人との会話です。

 

ですがこれ。どうもこれは本質ではなさそうなのです。

 

引き寄せというのは、自分の得たい結果をエゴで引き寄せるという意味でないようで、目の前で起きていることは自分がすべて引き寄せたものだということを知り、それを受けいれることだというのです。だから引き寄せたい!と思ったものが、なかなか結果として得られない時。それも自分が引き寄せたものである。ということになります。(こんがらがってます)

 

ん〜。そう考えると。今の生活って不便な部分もあったり、もっとお金を稼がなくてはとか、いろいろ考えたりするけれど。とっても充実しているし、仕事も楽しいし、変な安定感もあるしと。ある意味理想型にどんどん近づいているのかもとも思えます。これも一種の捉え方次第の部分ありますが。

 

すべて自分が引き寄せたもの

 

 

妙に納得してしまうのは私だけでしょうか。

 

 

 

お腹の痛いのを和らげるのを必死で、意識はずっとハサミを持つ手と、本を聞く耳に集中していたので、やけに響いてきた。ということもあるかもしれません。われながら「こんなことを書いて大丈夫かな」って気持ちで書いているので戦々恐々なのですが。書いてしまったので仕方がありません。

 

 

前に知人と飲んでいるときにこんなやりとりがあって。

 

私「いやぁ〜、私は最近、スピリチュアルよりなんですよね〜」

友「え〜なになに、スピっているってこと?」

 

なんて、半分大丈夫かよお前!って意味で言われていたんだと思いますけど、

 

山川さんが本の中で

 

「もしかしたらそんな世界があるかもしれないな。って思うのは楽しいからです」

 

 

占いもそうですが、信じすぎず。面白がってみるというのは。とてもいい付き合い方かもしれません。

 

 

 

 

最後に

 

運命だから仕方がないんだ

 

 

というように、妥協の理由として使うのは違うと思います。とも述べられています。

 

 

・・・おっと。危ない危ない。気をつけなければ。

弱みの意識は果てしない

「本日の最高気温は○○では30度まで上がる見込みです」

 

 

近くの畑で同じく作業をしている方のラジオから聞こえてきました。ラジオを聞きながら農作業に勤しんでいる方は結構いらっしゃいまして、TVのない生活をしている私からしてみると「ああ今そんなことが世の中で起こっているんだ」なんてことがザラにあります。そんなことを思うたびに、やっぱり自分は世間とはちょっと離れているなぁと実感します。唯一ラジオを聞かなくてもわかるのは体感温度だけで、13〜14時の間は特に日差しも厳しいですが、体も慣れてきているので。家に帰れば心地よい疲労感が眠りを誘います。寝ようと決めたら5分ともちませんもん 。

 

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雨よけのビニールの下での誘引は暴れて絡まって大変です。 

 

 

最近は農作業を2人で向き合いながら誘引という作業をしています。植物は基本太陽に向かって、上ヘ上へと伸びていきます。それでは困るので、棚のワイヤーにテープで枝をくくりつける仕事をしています。2人作業しているので、時折話をするのですが、その方によくこういわれるのですよね。

 

「○○君は口がうまいからなぁ、なにもでてこんよ」

「またぁ、そんなこと言ってからに」

 

 

その方は仕事が早いので私はいつも

 

「□□さんは丁寧で仕事が早いですね〜」

「今日もその帽子格好いいっすね、どこで買ったんですか!」

 

 

 

なんてことをちょいちょいいったりして、場をゆるくしています。そうやって話すことでちょっと場が和らぎますし。疲れているのは変わりないけれど。一息ついてまた仕事に集中できると思うからです。

 

 

仲の良い(と私が勝手に思っている)人が相手となると、より顕著にいやらしい、わざとらしい言い方をしたりするので(私と接した方はわかるかも?)「口が上手いねぇ」なんて返答されることが多かったりするのですが、それとは別にこう言われることがあります。

 

 

「どうすればそんな風に話すことができるんですか?」

 

 

 

・・・これは褒めなのか!?褒めなのか!と調子に乗る前に。

 

 

 

そんな風に・・・・意外とそう聞かれるとなんでだろう?と、困ってしまう部分だったりします(逆に私も知りたい!)無意識の部分なので、私は普通に話をしているときに、どんどん相手に興味をもって色々聞いてしまい、どうしても深い話になってしまいがちなので、その場が重くならないように自然と楽しく、笑いながら話ができるようにしているのだと思います。

 

 

 

 

・・・・と、

 

 

 

実はそれは建前で、私はいつかのある強み診断で「説明上手」という項目が「弱み」に属していると判定を受けたことがあるのです。ようは説明下手ってこと。話すことに関してはコンプレックスに行かないまでも、どうしても遠回りの話をしたり論点が外れていってしまうことを意識の底でずっと気にしています。 だからそうならないように、相手に多く質問をして聞くように心がけて(あまりできていませんが)、話をあまりしないように仕向けて避けている節があります。

 

 

ここ最近知り合った方の仲で、イベントというか、多くの人の前で話をしている方がいらっしゃるのですが「あんな風になれたいいなぁ」と隠れて思っていたりするのが実態としてあります。大勢の人前で話すことが得意ですっていう人はあまりいない気がするし、だからこそ余計にすごいなぁと思っています。

 

 

 

そんなこと思っている中で、こんな話に出会います。

 

 

或るひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。

子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦(あた)るに口給を以ってすれば、屢屢(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

 

 

当時は弁の立つ人を賢者のようにもてはやしていた・・・

 

 

ある人が雍仲弓をみて、

 

「彼は仁者ではあるけれども、弁が立たないのは惜しいことである」

 

孔子はこれにたいして

 

「どうして弁がたつ必要があろう。いたずらに口先のうまさで世を渡れば一時的に成功することもあろうが、往々にしてこれがために人に憎まれるだろう。」

「雍が仁者がどうかしらないが。弁舌が立たないことは帰って美徳であり決して短所ではない。」

 

「どうして弁がたつ必要があろうか。」

 

 人々を戒めたのである。

 

論語」の読み方 渋沢栄一

 

 

 

なんともこれを聞いて、ハッとしたのと同時に。救われて、確かにそうかもしれないなぁと腑に落ちた感じでした。

 

 

 

話すのがうまくて。なおかつ人を巻き込んでいる方々を見ていると、私は「いやぁ、すごいなぁ」「あれくらい話ができればなぁ」と無い物ねだりをしてしまうけれど。話をうまくできないことは短所ではないのだよと、いわれると救われる部分がありました。

 

 

弱みは強みでカバーする

 

 

という言葉を聞いたことがあります。私も強みに関しては色々な本を読んで「よし!強みを伸ばしていこう!」と分かったつもりでいるのですが、やっぱり何かの場面で弱みと思っている部分が露見してしてしまい、意識し始めるともうとまりません。あれだけ「強みを意識しよう」と思っていてもです。まるで弱みほど強いものはないような。

 

 

 

これだけこう思って、書いてみてもやっぱりもっと話をするのがうまくなりたいと思うのですから、私もまだまだだなぁと思うわけですが、普段自分が短所だと思っていることは、自分がそう思っているだけで、周りの人から見たらそうでもない場合がほとんどかもしれませんね。

見えないものと仲良くなる

とにかく黒い。ほんとうに黒い。何が黒いかっていえば私の手。つい先日の雨から一転して晴れ模様が続いています。もしやすると、今の時期は初夏の陽気。朝夕は涼しくて、日中は程よく暖かい。そんな印象かもしれません。しかし、いくら気持ちの良い天気でも確実に紫外線は降り注いでいるわけで。長袖長ズボン。顔をすっぽり覆う帽子をかぶってお仕事をしているわけですが。どうもこうも、細かい作業をしているので手だけは裸・・・。

 

 

まあ別にこの歳になって気にすることはでないのですが。これからの時期半袖短パンで過ごすようになるので。想像すると・・・。やっぱりダサいのですよね。去年も同じこと言ってますが、とても暑い中で仕事をするのは全然大丈夫だけど。やっぱり日焼けの方が個人的には抵抗がありますね。

 

 

今日は休憩しているとき。他の農家さんとお話しをする機会がありました。何やら他の畑をやっている人の話しをしており「○○はもっとこうしないとダメなんだ」「いろいろアドバイスをしやっているのに」「なんであのようになるのかわからない」と何やら不満のご様子。私は「そうなんですね」と繰り返しているだけだったのですが、その農家さんは言いたいことをすべて言ったからか「まあ、がんばれよ」と私の目の前から離れていきました。

 

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雨よけ付きの葡萄棚の下から

 

 

なんだかこれには既視感がありました。

 

 

 

かつて会社に勤めていたとき。いくらデザインを仕上げても社長のゴーサインが出ずに困ったことが幾ばくかありました。まだまだ若かった私はこう思います。

 

 

「この前社長が言ったことをちゃんとやっているのに、なんでここまで文句を言われなければいけないのだろう」

「全然できてないじゃないかって言われても、まだ数時間も経っていないのに」

「自分はここまで頑張っているのに。なんでこうなるのだろう」

「社長は私を目の敵にしているんじゃないか」

 

 

とまあ、どんどん深みにはまっていたことを思い出しました。今思えば意図を読めない典型的な若造で。ただただ若かったなぁと苦笑いをしてしまうのですが。

 

 

「うまくいかないのは○○のせい」

 

 

結局これは原因を外に見つけようとしていたのだと。今なら思えます。

 

 

目の前で起きていることを素直に受け入れる・受け取るようにする。

 

 

この言葉は、なんとなくうまくいかなくて悩んでいる・困っている友人や知人に対して私がよくお話をすることです。今起こっている状態を受けいれることができない人はその状況に縛られ、永遠に抜け出せないということに気づくことができないと。しかし、この話をすると一定率でこう言われてしまいます。

 

 

「それが出来たら苦労しないよね。」

「そうできるように努力はしてみます。」

「○○君はすごいね〜」

 

とか。

 

 

なかなかそうは言われても。いざそうしてみようとしても。そのような思考にいたることは大変そうです(私も一丁前に人に言う割にはよく流されますが)

 

 

 

そんなことを思って農作業をしていたのですが、その時聞いていた本のこんな話しが耳に残りました。

 

 

現在という瞬間とどう付き合うか

 

 

どんなことが起きても友人らしく歓迎すること。

現在という瞬間と仲良くする。

 

 

現在という瞬間を敵としてみると、克服すべき障害に見えてくる。そこから苛立ちや欲求不満、ストレスが生まれる

 

問題だらけの世界に見えてくる

 

ニューアース

 

 

 

ということが書かれています。

 

ありもしない問題を作り出しているのは周囲ではなく。ほとんど自分が作り出しているのがよくわかります。

 

 

友達になる

 

 

なんとなく「受けいれる」となるとハードルが高そうにみえるけれど。友達のように接することならできそうだなって。みんな友達であればそこには大きな問題は起きようがないかなって。

 

 

 

 

と延々と書いたけれど。これが今日の頭の動き。

 

 

 

仕事もスムーズに進み。その仕事が終わることには頭もすっきりして1日を終えることができた!と思える、そんな日でもありました。

 

 

 

 

 

おまけ。

 

 

 

ご先祖様を大切にすることとは。ご先祖様に愛されるということ。

 

 

何かあるたびに「ご先祖様!助けてください」っていつも言っている人が、何年もお墓まいりすらしていなかったらどうでしょう。ご先祖様は助けてくれると思いますか?


しかし、定期的にお墓まいりに行く、お墓の手入れもしている。そんな人が「ご先祖様・・・」と頼んできたらどうでしょうか。


「おお、そうかそうか。助けてやろう」ってご先祖様も助けてあげたくなるのではないでしょうか。

 

 

 

あるインタビューの話から。


ちょっとニュアンスが違うし、スピリチュアルよりかもですかね・・・。

 

 

こうした概念というか見えないものと仲良くできると、いろいろところから応援してくれる、味方してくれている感覚になり、少しくらいの良くないこと。うまくいかないことがあっても「みんなに助けられているから大丈夫、大丈夫」というような心持ちとなり、心の支えになってくれそうです。

 

 

 

 

 

日中、青空の下で、農作業をしているととっても心地よいですし。今は同じ作業の反復なので、没頭して仕事をしている自分もわかります。どんなに朝眠くても。今日は仕事のあとスーパーに買い物に行かなきゃと思っていても。仕事が始まるといつの間にか頭の中で、もやもやしていたことは消え去ります。

 

 

そこに意識のスペースが生まれて、すんなりと新たな意識と気づきが入りやすくなるのかもしれません。