ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

はじめに見つけた人

すももの収穫の中休みで、家で作業をしていました。なかなかこうした時間を持つことができないので、家の片付けやら、依頼物の考案などを集中してやっていました。普段外で暑い暑いと言いながら仕事をしているわけですが、それは屋内でも変わりませんね。というか、屋内のほうがなんかジメジメしているからか、暑さもそうですが、余計に疲れたようにも思います。昔は1日からだを動かして仕事をするって考えられなかったのですが、今はもう逆ですね。1日屋内で仕事をすることがなんと大変と感じることか。環境の変化、順応性。人間ってよくできているんだなぁと感心してしまいます。

 

 

 

そうして昼間からデスクに向かって作業をしつつ、ちらちらSNSを眺めていたのですが、私のフィードに知り合いの方がいいねをおしたものが流れてきました。

 

なんとなく眺めていたのですけど、地域活性化の分野で活躍されている方々に触れていました。

 

 

スーパー◯◯っていわれた人たちはとても充実そうに見えるけれど疲弊しているんですよね。

 

私生活の部分が崩壊している

 

自分の身近なところが充実させていなければ・・・

 

 

なんてうるおぼえですけど、なんか眺めていてこの人何言ってるだろうって。直接的に言っているわけではないのだけれど。文末の端々に「笑」って多用しているのもあって、これは意図してやっているのだろうけどよい印象ばかりではないなぁなんて、なんだかなぁと。

 

普段なら「確かにそうだなぁ」となるところですが。なんかひっかかってしまって。それはもしかするとちょうどある本を読んで感化されていたからかもしれません。

  

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

 

 愛の癒しについてのお話。

 

この本の中でこんな一節があります。

 

私は広場にあるあの井戸をいつも見ています。そしてずっと昔そこに水があることをしらなかったんだなって、

 

・・・

 

あの井戸のおかげで、たくさんの人々が、希望と愛と問題を抱えてここにやってくるようになったのです。ある人が勇敢にも水を探し求め、水を発見した。そして人々がその流れのまわりに集まってきました。私たちが、勇気を持って愛を探し求めれば愛は自ら姿を出現し、私たちはもっとたくさんの愛を自分に引き寄せることになるんだと思います。

 

もし誰か一人に真剣に愛されるなら、誰からも愛されるのです。

 

前後の文脈があるので、意味合いは異なると思いますが。

 

この文面では

 

「ある人が勇敢にも」

 

とあって

 

「ある勇敢な人」

 

とは書いていません。

 

 

井戸を発見したのは勇気はあったにせよ。普通の人だったのでしょう。「スーパー◯◯」と呼ばれる方々もはじめに何を見つけた普通の人。そのほとんどがなりたくてなったわけではなく周囲の人がそうさせた。はじめに井戸を見つけた人はきっと愛に苦しんだのでしょう。そして勇気を出して探しに出た人。苦しんだことのない人には見つけられない井戸。

 

ずっと愛を探し求めている人。

 

・・・私にはまだ愛を語る資格はなさそうなので。ここまでにしておきますが(あしからず)

 

 

私もいつもよくしていただいている方に「また顔に疲労が出ていますよ」ってよくお伝えするのですけど。そういった方々に頼ることもできるけれど、私たちが救うことができるんです。受け取ってばかりでは、いずれ相手は枯渇してしまいます。

 

 

お笑いの世界では「今年流行ったお笑い芸人」と言われることがありますが、実際は「今年消費された人たち」のように見えることがあります(もちろん本人たちの力もあるけれど)

 

話がそれました・・・・。

 

 

 

そうならないためには、関わる人が何かを置いてこなければなりません。与えなければなりません。◯◯さんに何をしてあげられるだろう。という問いは良い循環のスタートなのだと。与える人のほうが多くなったときの想像をすると、とても満ち足りた気持ちになります。

 

 

 

 

お金持ち。才能のある人。人々はそれらを敬いもし、妬んだりもします。生まれた時は不平等かもしれない。どう生きるかは選べる。こういう話を聞いても一向にもやもやは解決しないかもしれません。しかし、他の人が持っていないものの表現として「恩寵」と呼ぶ方がいます。それを持つ人にはそれを使う義務を課されているといいます。そしてその義務を果たせなくなると「才能の呪い」にかかるとも。

 

 

もしやすると。お金、才能がないと自分で思うことというのは「義務」がない分、案外気持ちが楽なのかもしれません。

 

 

 

 

さて、お仕事はなくても野菜畑へは毎日通います。いつもどおりの水やり。いつのまにか一ヶ月前に植えたオクラが大きく成長していて、大きな葉っぱが目につきました。

 

 

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まだ背は小さいのに、葉っぱは大きい大きい。

 

 

 

東南アジア原産?熱帯地方原産?詳しくはしらないけれど。暖かい地域の作物の力強さは目を見張るものがあります。しかしそんな力強さも年中暖かい地域だけ。日本の冬を越すことができないそうです。日本の四季というのは美しい、風情があるとプラス面を聞くことが多いけれど、ある植物たちにとってはただただ厳しさだけを突きつけられているかのようで。ここでなければずっと生きられたのにと思うと。なんだか悲しい気持ちになりました。

あまずっぱ〜いおくりもの

昨日は午後からすもものジャム仕込み始めて夕方には何本からストックを作ることができました。山梨に来て三年目。そして三回目のジャムを仕込みました。こうして回数を重ねるごとに去年の経験が活きているのを実感できます。果実の切り方から、材料の分量やら、加熱する時間、ビン詰めのタイミングもだいぶこなれた動きをしています。唯一変わらないのは、とろ火で加熱している時に木ベラでかき回す行為です。ここだけは短縮できない。火が強ければ吹きこぼれてしまうし、なによりも焦げ付いてしまう。まんべんなくかき回さないとムラができてしまう。わたしのおうちにはクーラーとかいうものはないので、窓とドアを全開にして、背中に汗が通っていくのをなんども感じながらじ〜っと鍋を見ながら手を動かしています。 

 

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とろ〜り。

 

 

毎年こんなことをしているのも、自分が食べるよう以上におもたせで持っていきたいから。過去にも触れたことはあるけれど。私は贈り物をすることが好きです。別にそれは大それたモノではなく、お手持ち、お土産の場合もあります。はじめは不純な動機から。よく思われたい、あげっっぱなしにしたい、貸しを作りたくない。そしてとても自己満足できるんです「俺は良いことをしているなぁ」って。新しく知り合った方に贈り物をすると戸惑われることがありますが

 

 

「お返しとかはいいので、もし崖で私が落ちそうになったときに助けてください」

 

 

と、いつもながらよくわからない理由をつけてはお渡しします。

 

 

 

しかし最近はなかなか贈り物をしづらくなりました。それは会社に勤めていたときにはそこそこ何かを買っておもたせができるのですが。恥ずかしながら今のわたしはそのようなことができる余裕がありません。でも、私が「恩」として受け取ったことへのお礼や、お近付きのしるしとして何かしたい。だからお金がないからできないなりに考えてみると、収穫したもので加工することくらいはできるよね。ということでそうしています。

 

 

さて、自分がこうして作ってお返しを〜と言っておきながら、わたしはいつももらってばかりです。それはモノでも、形のないものでも。

 

 

ちなみにおすそ分けに限っても、春から数えるだけでもいろいろ。

 

  • 大根
  • ニラ
  • 玉ねぎ
  • じゃがいも
  • ラディッシュ
  • サニーレタス
  • とうもろこし
  • かぼちゃ
  • ニンニク
  • スイカ
  • メロン
  • ニンニク

 

 

多分他にもいただいていると思う。

 

 

たくさんできたから、持っていきな。

 

 

って、とっても魔法の言葉。断る理由がありません。

 

畑から帰るときには魔法にかけられて帰ります。

 

 

 

私もお返しをしたいのですが、私は魔法にかけられているせいなのかお返しすることができなくなっています。というか、させてくれません。私よりも多くの野菜を作っているし。わたしの作った素人野菜よりも良い野菜を育てているので、その場でお返ししようもなく。ただただいただくだけ。できるのは「おいしかったよ」ってお礼を言葉で伝えるくらい。なんとも申し訳ない気持ちでもごもごしていると、言われることがあります。

 

 

俺らはいいから、他の人にやんな

 

 

簡単に言えば、食べきれないから。それだけの理由。特に夏野菜は多収穫で毎日畑に顔を出すと、なんらかの野菜を収穫できるので、調子に乗って種や苗を植えてしまうと本当に手持ち無沙汰になります。常備菜としてたくさんストックするのも楽しいですけど、その作った常備菜を保存しておける冷蔵庫の容量がありません。

 

 

この何気ない行為にみえるけど。とっても循環をスタートさせているんですよね。こうして受け取った好意は周囲に循環していく。

 

 

 

満たされているから、周囲に分け与えることができる。

 

分け与えるから、満たされていく。

 

 

自分が満たされるのが先か、相手が満たされるのが先なのか。こんな「先か後か」ってその流れの中に入ればあんまり意味を持ちません。

 

 

 

応援されるのは、多くの人をその人が応援しているから。

 

自らが与え続けるから、周囲から与えられる。

 

 

 

多くの本でも、インタビューを聞いていてもよく聞くことなのですが。自らが動くことに触れていることがわかります。待っていてもなにも起きない。結局一番早いのは自分から動くことなんですよね。そっちの方が断然早い。動くとなにが変わるかって、自分も変わるけど、自分が変わると周囲も変わっていく。

 

 

 

 

いつもないものねだりで「○○さんはいいなぁ」「□□さんばっかり!」と言っていてもなにも始まりません。そう言っている中では、周囲に何かを与えることができている人は少ないでしょう。モノでも、気持ちでも、好意でも。その人に集まってくるというのは。先に何かを発信しているから。「そんなことしてないけどなぁ」と思っていても、その人の立ち振る舞い、行為によって、意図せずとも何かを受け取っている誰かがいるのだと。

 

 

 

熱気むんむんのジャムをかき回しているときは、なにやら集中していたのか

 

今私はなんでジャムをかき回しているんだろうなぁ。

 

って考えていたら、いろいろなことが浮かんでは汗とともに流れていきました。

 

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種を除くのも根気がいります。

 

去年も作ったものは全て渡って行きました。今年のジャムは誰の手元にわたっていくのか。作った分だけの出会いがあると考えるとまた楽しくなります。もうちょっと追加で作っておこうかな。

心地いい苦み

すももの収穫が始まりました。私の体感覚では去年よりちょっと虫食い果が多い印象で。出荷に見合うものはちょっと少ないなぁとも。すももの印象って薄いんですよね。あんまし小さい頃も食べてこなかった。山梨はすももの出荷量が全国1位だというのは、後で知った話。また山梨には「サマーエンジェル」「サマービュート」なるオリジナルの品種があるのですが、いまいち認知度が低いように感じます。出荷用のラベルも申し訳ないけれど正直なんかパッとしないようにみえてしまって・・・(ごめんなさい)

 

まあいいや。私はすももは全体が赤くなる前が好きで、完熟もそれはそれで魅力があるのですが、酸味が勝っている早採りの固い奴がすきなんです。なんというか唾液が出てくるような(レモン想像するやつみたいに)感じがいいんです。すもも畑で、朝もいだものを食べたらシャキッとしますし。なによりもおいしくて・・・

 

 

11時くらいには出荷分の準備ができて、お仕事は切り上げ。そのまま自分の野菜畑に。ちょうど堆肥を切らせていたので、ホームセンターに寄り道。少し安くなっていたので15kgを2袋分。運んでいる途中は車の中が堆肥の匂いでいっぱいになるのですが。もう慣れてしまいました。畑に着いてからは夏野菜たちに追肥をしたり、脇芽の整理をしたりといつもの作業でした。

 

今の畑の様子は夏の暑さと同じくして虫たちがやってきて、特にトマトが食害を受けています。牛乳をかけて消毒をしているけれど、そんなにうまくはいかないわけで。今日も真っ赤に染まったトマトを収穫しようと、実に触れた瞬間に。「うっ」と感触で虫に食べられているのがいくつか・・・。

 

去年は虫を見つけたら全体を見渡して、必死に虫を除去していたのですけど。そうすることも減り、虫食いをみてもあまり反応しないようになりました。だって自然に任せているから・・・・。とはいいつつもやっぱり気持ち的には悲しくて。

 

今日も「うぁ〜食べられている〜」

 

一人、ピーピーギャーギャー、騒いでいたのですが。野菜畑の師匠には「虫がちょっと食べてくれるくらいがちょうどいいんだよ」っていわれて。ああ、確かにとちょっと気持ちが落ち着きます。今でも作りすぎている感があるのだから、調整してくれているのかぁ・・・。なんとも余裕のないことか私。そのありのままが一番調和がとれているのですよね。

 

 

 

さて、今日は一度おうちに戻って所用をすませたあと。夕方もう一度畑に戻りました。あいにくの夕立にあってしまい。ちょっと気分が萎えましたけど。ある野菜を初収穫したいがために。それはこやつです。

 

 

 

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さばかれるまえのゴーヤ。

 

 

多分子供の頃だったら全然好んで食べなかったゴーヤ。いつの間にかこのエグミ、苦味と一見するとマイナスになりそうなこの味覚がとっても美味しく感じるようになるんです。ビールも昔は美味しく感じなかったけど、いつの間にかおいしく感じるようになるとも聞きますし(私はビール。苦手というか受け付けませんが)

 

今の時期。ゴーヤって皆さんはいただくことはあるのでしょうか。好みが分かれますけど、苦手な人でもうまく下ごしらえすれば意外と食べれると思うのです。私の場合は、塩もみした後に、さっと湯どうしするのが定番で、炒めあわせる時には下ごしらえしたゴーヤは最後に投入といったところで。ちょっとえぐいなぁってくらいがとってもおいしいと思うのですが。

 

 

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ちゃんぷるちゃんぷる。

 

 

大人になると、こういった苦いものを好んで食べるようになる一方で、日常生活の苦い場面、部分は避ける一方でなんだかちぐはぐ。相入れなくなってくるような気がして、面白いなって思います。

 

  • 甘味
  • 塩味
  • 酸味
  • 苦味
  • 旨味

 

 

別に興味はないかもしれませんが、私の好きなフルーツは「グレープフルーツ」。ぶどうに関わっているけど、ダントツでグレープフルーツ。そして苦手なのはメロンや柿です。私の味覚は「酸味」が一番。次に「苦味」が心地良いようです。だから妖艶なあまさのするメロンは惑わされてしまってやいやい。ついでにいうと、ビールは「苦味」だけ。喉がおこちゃまなので喉越しとかよくわかりません。日本酒は「甘味」を前面に感じてしまって・・・。やっぱり酸味が欲しい。酸味をください。ということで、一丁前にワインが好みなんです(ワインもいろいろあるけれど)

 

 

最近よく人に話をしているのだけれど、自分に足りないものって「苦労とか辛い場面」だと思うんだよねって、急に言いだしては聞いてもらっているのですが、ある方から「それってぬるま湯じゃないの」ってキツめ?にいわれて。うすうす感じてはいたものの、やっぱりそうなのかもしれないとも思った場面があったのですが。今ってそれこそ「酸味」「苦味」が足りてないから、なんとなく停滞しているような感覚に浸っているのかもって。

 

 

あなたの足りてない味覚。なんとなく想像できました?

 

 

って、あきらかにこじつけ、思いつき。変な占いみたいになっているけれども。こうして頭の中で遊んでみるのも面白いものです。人は物事に共通項を見いだすことが好きなのか得意なのでしょうか。つながっているような、つながっていないような。結局のところよくわかりませんと逃げますけど。なんでもバランスが大切。でもその人のちょうどいいバランス。心地いいバランスがきっとあるはずで。これも一種の自分を思い出す作業なのかもしれません。

 

 

新鮮な野菜が食べれていいねぇといわれるけれど。確かにちょっとだけ優越感があって「いいだろ〜」って気持ちがあるけれど、こっちもバランスが大切なわけで。タンパク質と脂質が圧倒的に足りません。

 

 

もうちょっとお肉。食べなきゃ。

居場所を探したり、つくったり。

土曜日は雨降りでした。もうすぐすももの出荷が始まるということで。午前中はもろもろの準備をして午後はお仕事がお休みになりました。なかなかゆったりする時間がないので、ここぞとばかりに収穫していた野菜をまとめて漬けたり、おすそ分けして。加工中に出た野菜の端材ももれなく刻んでいためて。久々におうちでゆっくりと昼食をとることができました。

 

その後はなかなか手をつけられていなかった依頼の考案やら、郵便物の差し出しとか、お掃除とかをしていたんです。こうしてずっととりかかれなかったタスクをこなしていって、なんとももやもやしていた気持ちがスッキリ!ちょっとコーヒーを飲んで一息入れましょうかね。とコーヒー豆をごりごり。ピュ〜っと火にかけたケトルが鳴き始めたタイミングでコーヒーをドリップ。牛乳をたっぷり入れて。よ〜し。続きをやろうかなぁって。

 

そうしてデスクに戻った瞬間、スマホInstagramの通知が入ったんですよね。おお。さっきあげた昼食の反応かしら?っておもってアプリを開いてみると。

 

 

さりげなくコメントが入っていたんですよね。

 

「今夜、nanodaで待ってます!」

 

・・・。ついにInstagramまで手が伸びてきたか・・・。

 

うぁ〜どうしようかなぁと。せっかくのお休みでゆっくりしたほうがいいよなぁと思いつつも。結局このタイミングでお誘いがくるということはなにかの縁だよなぁって。断る理由もとくに見つからず。とりあえず畑仕事で顔の周りとか、いちおうほったらかしている身だしなみだけは綺麗サッパリと整えてから、簡単なお泊りセットをもって向かいました。そう塩尻。なんだかんだ言っているけれども、行く選択をしているのは私自身なんですよねって。

 

 

【7月9日(土)18:00-23:00】 ゲストと7月のお誕生日会なのだ!ーツルハシブックスの作り方なのだ!

 

 

ゲストは・・・・

 

ツルハシブックスの西田さん

 

www.tsuruhashibooks.com

 

まつもと空き家プロジェクトの増川さん

 

matsumoto.keizai.biz

 

どんなことをされている方達なのか。それは興味のあるかたに見ていただくとして。なんとなくおもったことを。

 

最近は自分がおしゃべりがとまらない人間だということを自覚し始めたので。今回はじっと堪えて?皆の話を聞いていました。どんな風に聞いていたかというと。

 

「最近の若い子たちが貢献したい、何かをしたいという気持ちはどこからくるのか?」

 

そんなことを考えながら聞き耳を立てていると。

皆にとっての本屋さんについて語る場面になっていました。

 

本屋さんの良いところや、各自の独自の見方を聞いて「なるほどなぁ」と思ってふむふむと唸っていたところ。

 

「書店って買わなくても、その場にいて良いというか、いていいんだって思える」

 

そんな話をしてくれた子がいました。

 

他の話の流れを含めて思ったことなのですが。

 

今は色々な情報がネットにも、スマホにもあるし、物理的にも結構満たされているからこそ、自らが面白いことをやろう!という「若い子たち」が増えているのかな?と思っていたのですけど、意外と自分の居場所がないと感じている子が実は多いのかな?ってなんとなく感じたのです。

 

そこで私は、

 

「やはりココロのどこかで満たされていない部分があって、それは一種の承認欲求に近いもので、周囲に目がいっているようで結局一番は自分の親(兄弟、親しい友達など)に向かっていると思うんです。認められたいというか、必要とされたいんのではないのでしょうか」

 

「そうして何かをするごとに、親の様子をうかがっているように見えます」

 

 

こうして切り出してみると。興味深い話を聞くことができました。

 

「似たようなことがあって。なにかのボランティアで最後まで残っているのは、無職の人やニートの子達が多いんですよ。ふだん居場所のない人はそこに居場所をみつけるのかもね」

 

 

きっと本来の居場所を担ってきたのは、間違いなく家族の住む家、近所付き合い、まちのコミュニティだったと思うのですが、それもいわゆる「昔」の考え方なのでしょうか。そうして少しの勇気と、行動力のある人現れて。居場所をつくると、あっという間に人が集まってくる。いろんな人がそこに集まっているようにも感じるけれど。そこで最後まで残るのは似た人達、そこに居場所を見出せた人が大半を占めていきそうです。

 

 

書いていて思ったのは、ずっと「自立」という「個」に向かっていた意識が急速に戻りつつあって。新しい事をしているようで、実は自ら離れたり捨て去っていったはずのコミュニティの再構築をただしているだけなんじゃないかとも。

 

 

 

まあ、いつもながら頭をこねくり回しすぎてまとまってませんが・・・。

(お酒が入っていたので、話の内容によっては私の脳内補完が多分に入っていそうです。あしからず)

 

 

 

さて今回も絶妙なタイミング。

 

本当かどうか。

 

「ちょうどInstagramをひらいたらリッキーの投稿だったんよね〜」

 

と、Y氏の談。真意はわかりませんが。いつもどんなに忙しい時でも私の雨のタイミングでちょうど時間ができたそのときに、さそいの手を入れてくる感じが、なんともいやらしくて、さすがだなぁと感嘆の思いなわけで。

 

生きているすべての人間の意識は実はすべてつながっている。

 

なんてことを聞いたことがあるので、それなら自然なことよね!と、帰りの車内で一人納得しながら、自分の山へと帰りました。

 

 

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朝。帰りに通ったの諏訪湖周辺はひんやり心地よい風が

いちじくがひとつ。

今日はやっと一部の畑で袋がけが始まりました。春の終わりからずっと駆け足で葡萄の成長がすすみ。なんとか人間の手がついていっている状況がずっと続いておりますが。袋がけが始まるとちょっとばかし先がみえてきたようにも感じ。少しばかり心に余裕が生まれてきます。それでもやることはまだまだいっぱいあるのでもう一踏ん張りというところなのですが。

 

なんとも日中の最高気温が30度を越えてくるとさすがに疲労感が違ってきます。例年通り順調に頬がこけ、体重も減っているのは変わらないことですが。今年は自分で育てた野菜を毎日食べているので、時々くる腹痛だけ除けば健康そのもので。こうして健康に毎日すごせることに感謝しっぱなしです。

 

 

野菜畑についても、ようやくトマトが赤くなり始め。もう少しすれば夏野菜の収穫のピークを迎えそうです。野菜だけに限れば、私の食糧自給率は90%くらい行くんじゃなかとも。毎日ご飯は自分でつくっているけれど。私の献立で足りないのは、きのこともやしとキャベツくらいで。あとはほとんど揃っています。シソに至っては去年のこぼれだねから勝手に芽が出てきて。ちょっとだけ植え替えてあげただけで、今シーズンすでに200〜300枚くらい収穫できています。おかげさまで毎日なににでもしそを合わせてご飯を食べています。

 

 

 

 

さて。野菜の水やりを終えて、農道を歩いていると。何度か通りすがりに挨拶はしていたけど、ちゃんと話したことのない、おばあちゃんとなんだか目があったんです。

 

「今日は何を収穫したの?」

 

私よりも広い畑でいろいろな作物をいるのはそれとなく知っていたので、謙遜しながら、ちょっと恥ずかしなという気持ちで

 

「今日はししとうとピーマンを少しだけ摘んできました」

 

持っていた袋の中身を開けながら答えます。

 

 

「いいね。私のいろいろ作っているんだよ。」

 

 

そこから少しばかし話をしていました。

 

 

「今は何が採れる?」

「畑で作っているの?」

「今は里芋の水やりが一苦労なのよ」

 

 

 

いろいろな事をたくさん教えてくれて、そこから畑を見ていきなよって。そうしてちょっと散策させていただいて、私の小さな10坪ちょっとの畑よりも数倍広いし、うまく畑のレイアウトが出来てて、野菜の株間も絶妙で無駄がない感じ。

 

 

「きっと、ずっとやっているからだね」

 

 

おじいちゃんとおばあちゃんの二人でやっているそうな。今は面積の少なくなった果樹の仕事をお天道様が真上に上がるまでやって、15時くらいまではお家で休んで。そうしてそこから野菜畑にきて世話をしているそうな。大変なのといいつつも、それが毎日の習慣だから自然にみえました。

 

 

「ちょっとまってな」

 

 

ふと思い出したかなのように、畑の奥に入ってがさごそやっているなと思ったら、何かを手にして戻ってきました。

 

 

「これひとつだけど、食べて」

 

 

そこには、もいだばかりイチジクがありました。

 

 

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 なんともいいフォルム。

 

 

最近は雨が降っていなければ、毎日仕事終わりに野菜畑で水やりとかしていると、何度か書いていますが。ただ好きで、自分が食べるために、ちくちく作業をしているだけですけど。そうしているだけでこうしたご好意をいただく事が随分増えてきました。野菜をいただく事も多いです。それもたくさんの量を一度にいただくので、なんだか申し訳ない気持ち。何もお返しする事ができないので「いただくだけになってしまってすみません」とつたえると。

 

 

「話を聞いてくれただけでいいんだよ。もらっていきなって」

 

 

ここには一切の損得の意識もないんです。今日初めて話したばかりの見ず知らずの若造に良くしてくれるんです。私なんかまだまだ至らないことが多くて。人からよく思われたい欲求がどこかに潜んでいます。私の周囲でも、何かの集まりに参加した時でも。結局自ら何かを提供している人は何人くらいいるんでしょうか。それも見返りなしで。ほとんどの人が「くれくれ」って状態のようにも感じます。

 

与えることができる人がさらに与えられる。

 

よく言ったもので、

 

  • お金が儲かったら募金をするという人は、儲かってからする人はいないし。
  • 子供が遊んでくれっていって、仕事が終わったら遊んであげるからねといって、仕事が終わってから自分から「遊ぼうか」っていう人は少ない。
  • もう少し時間があれば・・・といって、時間ができても実は何もしない。

 

 

枚挙にいとまがありません。普段からしていないことはできないのです。

 

そんなことを考えてしまう私だからこそ、なんとも嬉しい気持ちと一緒にいちじくを握り締めながら(優しくね)帰路につきました。

 

 

 

 

今は世の中ではイギリスでの国民投票の話では「若者」「老人」の構図をいろいろと語っていたり、日本では名経営者といわれていた方の「老害」だとか「晩節を濁すな」とか、高齢者の方への風当たりが一部で強くなっているようです。ご年配の方の中にも様々な人がいますのでひとくくりにはできませんが、いずれ誰もが年齢を重ねていきます。その時どうなっているか。同じ立場になるかもしれませんし、ならないかもしれません。しかし少なくとも今の高齢者の方への対応は未来への自分へと返ってくるような気がしてなりません。

 

 

現代では核家族が普通ですし。身近なおばあちゃんおじいちゃんとと関わる機会も少ないようにも思えますし。普段から接していればそこまで怪訝な態度にも気持ちにもならないと思うのですが・・・。高齢者社会という言葉が使われて久しい世の中です。多くの問題頻繁に目にします。しかし、その問題の多くは単に孤独だとか。必要とされていないという気持ちだとか。コミュニケーションに端を発することがほとんどではないかなとも感じます。一週間にちょっとだけでも会話を交わすだけで。ほとんどの問題は解決してしまうのではないかってふと考えてしまいました。(浅はかな考えかもしれません

 

 

イチジク。一見馴染みがなさそうにみえて。じつはとっても身近なものでした。子供の頃、実家の前はイチジク畑が一面に広がっていました。時々農家さんがイチジクをくれて食べていたんです。今はもう賃貸住宅が建っているので、畑があった面影もありません。なんとも不思議なものでなんだかその頃の情景とともに、生前のおばあちゃんの記憶がふと思い出されました。懐かしいようなちょっと寂しいような。それもイチジクをくれた優しいおばあちゃんにその姿を重ねていたのかもしれませんね。

 

 

こうして思い浮かんだ時には呼ばれているような気もします。もう少しで今のバタバタした農作業の峠を越えそうな気がしています。(峠を越えても休めませんが)そろそろお墓参りにいって久々に顔を見せにいきたいものです。

 

つるのからまり

まあ暑いです「暑いですね」が挨拶になってきたら、その間はずっと夏でいいんじゃないでしょうかって思うくらいに、日常にその言葉が溶け込んでいるような季節です。休憩するにも、どこもかしこも暑いのでみんな日陰を探すのに一生懸命です。手を動かしているときより、じっとしているときのほうが暑さを感じてしまって仕方がないです。相変わらずぶどうの成長にあおられまくりな日々を過ごしております。朝出かけて行って夕方まであっという間ですから。それだけ集中できているのかもしれません。

 

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今日は草をたくさん刈りました。

 

仕事終わりには相変わらず、野菜畑に出向いています。こちらも気温の上昇とともに成長が進んでいます。今日も仕事終わりに畑にいって、ちくちく作業をしていたらいつの間にか1時間半前後たっているのです。こちらもいろいろとやることがあるのです。そういえば。この前友人から「○○って普段何やってるか、全然わからんね〜」って言われて。確かにそうかもって思ったので。あんまし詳細は触れたことないですけど、とある日の流れを書いてみます。

 

  • 5:00  起床

 

NHK WORLD RADIO JAPAN(Podcast)をとりあえず流す。朝ごはん、お弁当を作る。ご飯を食べながら本か新聞をチラチラみる。顔洗って、歯を磨く。仕事の支度をする。

 

  • 6:20   葡萄畑に出発
  • 17:20 葡萄畑を出る

 

  • 17:35 野菜畑に到着
  1. 全体の水やり
  2. 草取り
  3. 各野菜の脇芽の除去
  4. 病害箇所の除去
  5. 新しい野菜を植えるための耕起
  6. 地張りきゅうりの種まき
  7. トマト・なす・ピーマンの誘引
  8. ゴーヤーの副梢の整理
  9. きゅうり、なす、ししとうの収穫

(これは今日やったこと)

 

とまあ、今日はゴーヤーの絡まったツルを解くのが大変で大変で、一度つるんでしまうと外すのに一苦労でした。

 

しかし、時間で言えば水やりが7割くらい幅を占めている。こんなことをやってればそれだけかかるのですけど、もうこれも1日のルーチンに入っているので、大変じゃないし。むしろ夕方の涼しい時間に静かに作業をしていると、体がクールダウンしていって、気持ちも落ち着いてきます。これだけやっても、周囲は明るいですから。日の長さをじかに感じます。いちおう農民っぽいことをちゃんと?してるんですよ。

 

  • 19:20 野菜畑を出る
  • 19:35 帰宅

 その後はお家に帰ってきて、まずはお米を研いで、炊飯器のスイッチオン。お風呂を沸かす。ケトルでお湯を沸かす。その後は洗濯機をまわす。紅茶か、コーヒーを入れて一息つきながら、ちょっと部屋の片付け、洗濯を取り込む。そうして収穫してきた野菜とにらめっこしながら夕飯の準備。最近は一汁一菜にきゅうりの丸かじりが多いかも。そうして、お風呂に入る

 

  • 21:00 〜

 

着替えてその日にやったことの記録をつける。ブログを書く、頼まれごとを進める

 

  • 22:00くらい〜 

 

だいたいこの時間に眠気が迎えにやってくる感じ。夏の睡眠不足は即体調不良につながるので、とりあえず何をしていても切り上げて、本を片手に寝るようにしてます。だいたい数ページで落ちてます。

 

 

と、どうですか。これでわかりましたかね?

 

 

みなさんからみて、この生活がどんな風に見えるかはわかりませんが、なんか満足しきってしまってるんですよね。太陽の下で働いているのも、自分で好きなものを栽培して調理して食べることも、あき時間に本を読めるのも。今の私には贅沢なんですよね。この年齢で山の中にきたのはちょっと早かったかもって最近思いますもん。満足したらそこで成長は止まるとかいう人もいるけれど。好きに言ってくれればいいやって。

 

 

本当に山梨にきたときは仕事以外では誰も知り合いもいないし、葡萄以外で何をすればいいかとかも別に何も考えていなかったし、とりあえず葡萄をやろうって決めたので黙々とこなしているだけで、漠然とこうなったらいいなぁと思っていることはあっても、目の前のことをこなしているだけ。今のその延長線上にいて、余裕が生まれたところに、負担にならないことを少しずつやらせていただいているだけのこと。

 

 

葡萄が好きで、ワインが好きで。仕事を辞めて、小さな一人旅をして。そうして畑にきましたって、自己紹介とかで普通に人に話すけど。別にそのときの自分が一番興味あったのがそれだったから動いてみただけで。特にビジョンが見えていたわけでもないのですよね。あんなに毎日街に繰り出しては、お酒ばっか飲んでいた私ですけど、月に1度飲むか飲まないかくらいになってしまって、ワインも全然飲んでないですから。ワインを含めお酒を飲まなくなると「あれ?俺ってワインって好きだったのだろうか?」ってふと思うことがありますから、どうしようもないですよねw

 

 

自分の選択したことをしているから、多少の悩みとか不安とかあれど。人に何かをやれって言われるわけでもないし、ストレスもほとんどないので、ほどほどにいい生活かもしれません。そんなことなので前は友人が少ないからイベントとかに言って色々な人の話を聞いたりして、つながり増やそう!とかって、孤独の穴埋めみたいなことをしてましたけど。それもなくなってきました。

 

 

前にも書いたことがあるのですけど、小学校からの友人に。

 

○○ってさ、昔から特定のやつらとつるまないのに、はぶきにはならないんだよね。

 

 

って、今でも記憶に残っているのですが。

 

結局、私の小さい頃からの落ち着く場所は前述のとおりで。そこへ戻ってきたのかもしれません。

 

 

やはり、面白い人や気の合う仲間と一緒に行動したりするのも楽しいけれど。集団に属するのってエネルギーがいると思うのですよね。離れるのももちろん。

 

どんな場所にいっても、似た者同士が自然と集団を形成する

 

 

と、ある本で書いてありましたが。私もそう思いますし。その結果勝手にそれぞれの線を引いて「あの人はあのグループの人だよね」ってなる場合もあるのかなって。あるいみのそれが内輪感ってやつで。そうなるといくら働きかけても「あの人たちはそんなことをしていますね」って他人事に見えているだけで、まるでべつの世界のことに言う人もいます。また一回つるんでしまうとなんか抜けづらいですし(私だけ?)「最近○○さんこないよね」ってなりそうですもん。

 

 

それって人間なので仕方がないとも私は思うので、どうするかといえば自分の直感を判断基準に、一人で動くということでしかないんですよね。SNSとかでいろんな人のシェアされたことがフィードに流れてますけど、それはもう他の人のバイアスが入ってしまっているので、影響を受けてしまっているんです。特にネットで情報をしっかりと集めていますっているけど、ネットの情報って一次情報以外がほとんどだし、若い世代ほどネットで検索するのが得意な分、たどり着く情報が似てきてしまって。話を聞いても面白みにかけているような。

 

 

・・・・

 

 

いつの間にか話が脱線ししぎて、道路を走っていたようです。

 

何事も適度な付き合い方って大事だなって思いました。おしまい。

 

 

 

さて、あんましニュースを見ていないので詳しくはわからないのですけど、なにやら水不足?なんですね。確かに雨が少ないなぁと思っていましたけど、葡萄にはプラスに働くのではないかなとも。周辺では早生の桃の出荷が始待っている様子で。果物王国の一角である山梨に訪れる人が増えそうですね。

 

 

ああ、時間が・・・。もう寝なくては。

周り回って元の場所に

ここしばらくはずっと、葡萄の成長具合になかなか追いつくことができず、明け方からせかせかとした作業が続いており、暑くて汗をかいているのか、冷や汗なのかわからないまま、いつの間にか週が終わっているという感じ。「今日何曜日だっけな?」ってふと気付いたときに呟くのですがチラッとiPhoneをみると「ああもう日曜なのか」ってこんな感じの独り言とかしょっちゅう。もうその季節なのかわかりませんが、夏の暑さのせいにしておきたいところ。

 

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休憩の日陰を探すのが大変です。 

 

 

ここ2ヶ月くらいは日中はがっつり農作業した後に、自分の野菜畑にいってさらに農作業をするというのが日課「俺は葡萄のあとに、野菜作ったりする気にならんよ」って師匠にいわれることがあって。確かにそうだなぁ、自分でもよく続くよなぁと思いつつも、野菜畑でちまちまと水やりしたり、誘引したり、脇芽とったりしていると、これはこれで疲れがとれるというか、気持ちが落ち着くというか、クールダウンになるというか、なんかプラスに働いているのです。

 

 

特にここ数日は晩春、初夏の野菜の初収穫ラッシュで、ビーツ、サニーレタス、玉ねぎ、にんにく、きゅうり、ししとうなどと、続いているし、新ジャガもたくさんいただいていて至れり尽くせり。よけいに楽しいのかも。自分で作っているから美味しく感じるのはもちろんなのですが、最近知人の姉様から

 

「安心感が贅沢だね」

 

ってお言葉をいただいて。さらに増し増しで味も気持ちも満たされているように感じます。有機とかエコとかには勝てないのかもしれないけど、自分で育てて、自分で消費する贅沢には変えられないよなと、さらに実感して。ますますのめり込んでいるようにも。

 

 

収集心の強い私の性も相まって、育てたことのない野菜、他の人がやってない種とかに手を出しまくってしまう。こんなところにも自分がでているなぁと感じます。収穫が近くなる作物があると、すでにそのスペースで何を育てようかって、ずっと思案してますもんね。最近ではホームセンター以外でも、種売り場を自然とチェックしてますから、よほど楽しいんでしょう(まるで他人事みたいに)

 

 

そんな風に生活しているので、どんどん周囲への関心が減ってきて困っています。まあ充実して、楽しいのだけれど「俺はこのままの生活をしていていいんだろうか」って思ったりもします。ありがたいことに「○○君はもったいないよ、なにか新しく始めればいいのに!」って何度かおっしゃっていただくこともあるのですけど。いいか悪いか今の現状に満足してしまっているようで、ますます欲が湧かないんですよね(欲がないわけじゃないですが)しいて言うならきっと調理道具がほしい!になりそうだし。

 

 

 

最近、農作業をしながらよく論語関連の本聞いていて「やばい今の私の状態はもしかして怠慢かも」「次の目標が必要なのか」って感じたと思ったら、他の編を聞くと「あれ、これが足るを知るってことなのか」となんだかよくわからない状態になっています。今のところの結論?としては、今自分は安定の位置にいる気がしているので、きっと必要なのは「苦労」なのかな?と思うに至っております。その苦労を十分に買うお金はそんなにないですけど。

 

 

ここまで書いてきて気付いたのは「今の関心事は自分に向いている」ってこと

 

 

少ないながらもいろんな人に、いろんな本に出会ってきました。そうすれば何かのタイミングで変化が起きると思っていて。そうしていろいろ外に向いていた意識は、どんどん自分に収束してきています。なんだか急がば回れ状態で駆け回っていたけれど、結局自分の元へたどり着いたというかなんというか。前は自分より若い人たちに「いろいろなイベントに行ったほうが」「面白い人たちの話を聞くのがいいよ」って我が物顔で偉そうに言っていたのが恥ずかしいくらい。

 

 

多分今の自分が同じ状況でなにか聞かれたら。

 

自分をもっと知りなさい。関心をもちなさい

 

ってことをいいそうです。

 

要は自分のことに意識を向ける時間をもっととればいいんじゃないかなぁってことをいつもながら、しつこく、延々としゃべってしまいそうで怖いです。

 

 

 

外から内へというのも。普通、自分を知らない人が周囲からの刺激を受けたところで、変化してないんですよね。ただ一緒の場にいて気持ちよくなっているだけ。本当にビビビッて変化が訪れる瞬間も訪れることももちろんありますが、イベントでもなんでも、その場を離れたら徐々にその意識がなくなっていって、いつの間にかあるべき日常、自分に戻っているんです。すごい人にあいにいくと、なんだかその気になっているってやつなんですが。本当に表面だけその気になっているだけの色々なことしても意味ないなって(全部私自身のことを書いてます)

 

 

じゃあどうするんだよって。ってことですが。

 

 

刺激に対して、自分がどう反応しているかを観察する

 

 

 

少し意識するだけでも、多くのことがわかります。あくまで私でいうと、

 

 

 

内容とかよくわからないけど、誘われたから参加した

 

 

 

ってパターンが一番楽しいし得るものがあります。変に頭の中で準備してないですし、フリーな状態で行けるのが良かったり。また私は人に興味が向くので。なにかのイベントに行ったときに一番気にになるのって、その人のフォロワーはどんな人たちかってことだったりもしますし。そうして一定の確率で「なんだこの人不思議な感覚の人だなぁ」「全然この人読めないぞ」って属性の違う人に出会ったら、もう最高。

 

 

 

 

ちょっとニュアンスが違うけれど、ある番組で武井壮さんの若いときの体調管理の話を聞いていて、すごいなと思った話があって。

 

 

「自分の調子がいいときってどんなときなんだろう」

 

って問いから始まって、天気でも、食べ物、体温でもとにかくなんでも記録していたと。そうして常に調子の良い状態を知り、それをキープしていた。

 

 

というようなお話しされていて。ここまでしてやっと自分を知ることができるんだよなって。じゃあ、自分はどこまで自分のことを知っているんだろうと思いを走らせても、結局よくわからないんです。というか考えてなかったんだなと気づくわけです。

 

 

 

しきりにチャレンジがどうとか、目標がどうとか、面白いことをやりましょう!ってなるけど、それを聞いて「よし俺も!!」ってすぐに行動へってなる人はいいけれど、私はなかなかそうはならなかった。でもそれは悪いことではなくて、ちょっと物怖じしちゃう気持ちがあるのであれば、無理に同調とか、真似しなくてもいいと思うんです。チャレンジも目標も義務になってしまったら重石にしかならないですから。そんなのその人たちに任せておけばいいやって、くらいに思っていればいいじゃないでしょうか。それが自分なんですから。自然とそのときがくれば、周囲にいわれるまでもなく、チャレンジしていたときの自分をみんな知っていると思います。

 

 

とだらだらと書いてしまいましたけど、自分ってなかなかというか。どんどん分からなくなっているというのが実感です。あしからず。

 

 

こんなことをかいているのも、重ねてきた年齢がそうさせるのか、山川夫妻が翻訳された本、関連本をまとめて買って、毎日寝る前に読み進めている(眠気に負けてだいたい数ページでもう意識ないですが)からなのか。よくわかりませんが、とりあえず瞑想をして探ってみたいと思います。もちろん睡眠学習ではなく。