ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

正しいとか、間違っているとか

これも異常気象なのか?ってくらいに、過ごしやすい日が続いています。これが例年通りなのかもしれないし、普通よりもちょっとだけ標高の高い地域で仕事をしているからっていうこともありかもしれません。朝と夕方にはちょっと強めの風が吹いていて、肌寒いくらいにも。お昼は日陰でお昼寝をしているのですけど、皆口々に「これじゃあ、風邪をひいちまうな〜」なんていっているくらいですから。それでも涼しいというのはとっても有り難くて、仕事がとってもしやすい分、効率も上がっている気がします。寒く感じる強い風も見方によっては追い風なのかもしれませんね。

 

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爽やかな陽気という言葉がピッタリ。

 

 

先月から本格シーズンに入って一ヶ月。カラダは夏仕様にめきめきと変わってきていることもあり、疲労も軽減されてきているのですが、この時期は朝から夕方まで首を横に斜めに上にと傾けながら作業していることプラスして、腕を上げながら仕事をしているので、まあ首回り、肩周りがガチガチです。それにプラスして家に戻ってきてからはパソコンの前にいると、姿勢も悪いとあって。もう。ね。

 

 

こうして仕事をしていると色々な方から助言を受けることがあります。この作業はこうしたほうがいいよ。もっと早くなるよと。と農家出身でない私は見よう見まねで、なるべく早く仕事ができるようにならなくては・・・と、そうやっていたらそれなりに早く仕事ができるようになりました。大変ありがたいことです。

 

 

しかしあとから振り返ればそう見えるのですが、助言の仕方によってはその時その時で素直に受け取れないことがあります。言い方はそれぞれあるのはいいとして、時々いっていることがコロッと変わったり、あれ?昨日といっていること違うのだけれど。と思ったり。この前言った事を実践しているのに「これじゃあダメだよ」って言われると「何言ってるんだこいつは」って、いつもの感謝が飛んでいってしまい消えてしまう時も。やっぱり私も人間なのでそう思ったりしたこともあるのです。その時の私の調子もあるのでしょうが、言われた瞬間に怒りが湧いてくることもしばしば。

 

 

そんな時、普段怒りの感情を出していない分、怒りがどばどばどばって止めどなく出そうになるのだけど(それで漏れたりすることもあるけど)数分経つと「おっと、怒りが出てきているな」って自分を俯瞰してみることができるようになってきました。不思議なものでそうやって怒りを外から見れた瞬間に怒りは消えていきます。ここまで反応的になる必要はないなって思うし、怒っている自分ってダサいよなって思うので、どんどん収束していって平穏に戻ります。

 

その後は反省とまでは言わないけれど、なんであんなに自分は怒ったのだろう。と自分の中と、相手の中を探っていきます。

 

 

今回書いているパターンで、自分を探っていくと

 

 

自分は言われたことをやっている(正しい)

相手はこの前こういったのだから(間違い)

 

 

自分は正しさを証明しようとしているのか・・・

 

 

というところに落ち着きます。って私が反応的になるのはこうしたことが多いような気がします。この自分は正しいことをやっている!というエネルギーは変な正義感がくっついてくるので、案外強いもので。普段あまり反応的にならないのですが、こればっかりはわかっていても反応的になってしまうようです。ある種この怒りは、なにかニュースやらほかのメディアやらで「不祥事」のようなものが出てきた時、ネット上で色々な意見がでてくるときの心情に似ているかもしれませんね。

 

 

 

前述したのは受け身の場合ですが、この逆もありえるわけで。明らかに間違ったことをやっている人に対して、正しいことを言った場合に。受け手がなかなか聞き入れない場合はどうしますか?

 

こうした場合でも正しい方に分があると思うので(私は)、聞き入れない人に対しては「なぜこいつはいうことをきかないのか」って思ってしまいます。この場面に接したときには、正しい、正義感のようなもとに太刀打ちするのは容易ではないので「相手が納得しないのは違う理由かもしれない」ということにはなかなか気づけないようです。

 

 

ちょっと偏った場面を取り上げてしまいましたが、他にも似たようなことが次々と浮かんでくるのですよね。

 

 

 

「今の若い子たちはイベントにはよく参加するけれど、自分ではなかなか動かないんだよ」

 

 

前になにかのイベントのときにこう話している人がいて「そうなんですね」って私は答えていて。そうかもしれないなぁと少し思っていたけど。これは参加した人がどうこうではないよなぁと思ったり。

 

 

「努力すれば何でもできる。死ぬ気でやれば何でもできるんだよって、論破してやったよ」

 

って意気揚々と話されている方がいて。確かにそうよね。って思う反面。正しいのかもしれないけど、独りよがりのようにも見えるし、それで相手はなにが変わって、何が得られるのかしら。

 

 

 

 

 

そんな中、たまたま小説家の平野さんのインタビューを聞いていて、なんか心にのこった部分があって。

 

 

やっぱり信頼第一ですよ。変なこと言えば一時的には盛り上がるけど、そういう人たちはどこかでそこが割れて、そんな人かって馬鹿にされるし。いくらその人のフォロワーがいても半分は馬鹿にしてみてる状況になっちゃうのですよね。みんな忙しいし、信頼できないものには付き合いきれなくなってくる。

 

・・・・

 

「この意見よくわかんないけどでもこの人が言うのだからなんかあるのかな?」という感じに、反対意見も受け留められるくらいの物書きとしての信頼を維持するのが大切だなと思います。 

 

 

 

ちょっとニュアンスが違うし、切り取りなので、受け取り方が変わりそうですが、

 

 

 

正しいこと云々が問題ではなく、信頼がなければ受け入れることができない

 

 

結局ここにも人柄というか、人格が必要なんだよな。って

 

 

そんなことを書いていたら。昔、父親「肘をついて飯を食べるな!!」って何度も怒られていたけど、それって父親も時々肘をついてご飯を食べているのを何度が目撃して。「なんかおかしいよなぁ」と子どもごころに感じていたことも思い出しました。あんまし正論を振りかざすことはしていない(はず)ので、大丈夫だとは思いますが、いろいろを考えさせられました。

お腹の痛みで目覚める

昨日の話。朝起きた瞬間から体が重くて重くて。なんかおかしい。朝ごはんのときにもご飯が喉を通らなくて、ちょっと吐き気があるし、お腹も下しているし。何よりもお腹(胃のあたり)がグ〜っと鈍い痛みがあったんです。それでも何か食べなければ仕事が辛いと思って、少しだけ喉を通したのですけど、数十分もしないうちにお腹がさらに痛くなるという始末でした。

 

まあ、会社勤めだったら「お腹痛いです」ってお休みのコースなのですけど。お腹痛いのでぶどうさんちょっと待っててくださいというわけにはいかないわけで。まあ辛い辛い一日。それでも「本当にダメだったら途中で抜けて帰ろう帰ろう」って思っているうちにお昼がすぎ、いつの間にか夕方まで仕事をすることができました。家に着いても洗濯物だけは・・・洗い物だけは・・・と家事をすませ、21時前後には横になりました。

 

山梨に来てからは、体調不良でお休みしたことはないのですが。年に数回だけ、急に体調が悪くなるときがあるので、辛いのは変わらないけれど

 

「いやぁ〜久々にきた〜、ヤバいぞヤバいぞ〜これはだいぶ調子悪いぞ〜」

 

って心の中で楽しんでいる自分もいたりして。一日終わったときにはなんとも変な達成感まである始末で。人間って面白い生き物だなぁとも思うわけです(そんなの私だけかもだけど)こうして辛いときを何度か経験すると、これが変な経験となって、次に何か辛いことが起きたとき。

 

「この前のほうが辛かったから、多分今回は乗り切れるな」

 

なんて、辛さのバロメーターというか、評価基準ができてくるんですよね。私のお腹の痛みとは比べものにならないほどの(あたりまえですが)辛いことを経験されている方々はたくさんいるわけで、やっぱりそういう経験があると人って確実に強くなっているし、そんな方々には勝てないなぁと思ったりします。

 

 

 

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房つくり。これがあんな大きさの粒になるのですから。

 

そうそう。ぶどうは花がどんどん咲いているので、追いつけ追い越せでとにかく房作りの作業をしています。さすがに3年目のシーズンでハサミを動かす手はほどよく力抜けていて、「チョキチョキ」と小気味よい音に合わせて、ハサミにかけた指をせっせと動かしています。静かな場所であれば、ハサミの音が聞こえるだけで不思議な空間と化しているようで、畑の中は外と切り離された一種の別世界にも見えてきます。

 

 

 

 

さて。今日はちょっと危ない?話をします。

 

抵抗ある人は読み進めないほうがいいかもしれません。

 

 

 

皆さんは神様っていると思いますか。

運命って在ると思いますか。

人って生まれ変わると思いますか。

 

 

私はどう思っているかといえば、いないと思っていたんだけど、もしかしたらいるのかもしれないなって位置にいて、もうちょっとでいるんだなって傾きそうな場所に立っているというのが正しいかもしれません。

 

 

急になんだよお前。大丈夫か?

 

 

ってことなんですが。これは畑である本を繰り返し聞いていたから。

 

 

輪廻転生を信じると人生が変わる (角川文庫)

輪廻転生を信じると人生が変わる (角川文庫)

 

 

著者の山川紘矢さんは、有名な翻訳者で。過去に翻訳された本であればこちら

 

ザ・シークレット

ザ・シークレット

 

 

そう。引き寄せの法則って聞いてピンと来る方はわかるかもしれません。

 

kotobank.jp

 

 

本の名前にもあるように。「輪廻転生」なんて、書いてあるので、変な宗教か?とか言われそうですが・・・。(本の中では、宗教とスピリュアルは違うということにも触れています)

 

 

本の中ではとても信じられないような出来事がたくさん「これは本当かもしれないな」思った箇所がいくつかあったので。残しておきます。

 

自分は何か。

 

「自分は何をするために生まれてきたんだろう」

 

 

この類の問いが浮かんだことは皆さんはありますか?私が特別な人間でなければ、これまで生きてきた中で一度や二度はふと考えたことがある方がいるかもしれません。

 

この問いが浮かぶとき。なかなか夜寝付けないときの場合がほどんどで、いつも答えが出ません。このまま考え過ぎたら沼から足が抜けなくなるかも・・・どんどん強くなっていって「やめようやめよう」って、自制を効かせる。よし寝よう!と決めても、なかなか寝付けないので、また考えてしまう。そうして「ダメだダメだ」って自分に言い聞かせる。そんなことをやっているうちにいつの間にか夢の中・・・。

 

 

確たる成功者で「私はお金持ちになる」と知っている人はお金持ちになるそうです。私は総理大臣になると知っている人は総理大臣なります。ということも書かれています。自分を知っている人はそうなるようです。

 

過去にも皆さんがご存知のような経営者さんの自伝を何冊か読んでいるのですが、自分の運命を知る。見えない大きな手がある。宇宙と調和するということが普通に書かれていることを私は知っているので。真実を話しているかもしれないとますます感じます。

 

 

 

また似たような?ことがあります。

 

NLPの手法の中に、失敗ばかりしてしまう部下に相談されたときの対処法というのがあって、そこでは・・・

 

「なかなかうまくいかないんです」という言葉を聞いたら、それはチャンスです。それは過去にうまくいっていることがその人の中にあるからです。「どうしてうまくいかなかったってわかるの?」と聞いてあげると「ああ、この前は◯◯の場面で□□みたいなことがあって」とうまくいっていたことを本人が思い出します。

 

初めて教えてもらった時には「確かに・・・」と私は頷いたわけですが。

 

 

もう一つ。

 

 

やりたいことが見つからないという人に対して私はこうアドバイスすることがあります。

 

「小さい時、学生の時、褒められたことや、なんかうまくいってしまったことって何かないかな?」

 

「そこにヒントがあるんじゃないかな?」

 

とこう続けます。

 

 

ちょっと似ているようで、似ていないかもしれません。

 

しかし、これには近いものがあって。「自分とは何か」ということは「自分をおもいだす」ということにつながっていて「答えは自分の中にある。自分は答えを知っている」ということになるんだな。と、そんな気がしてなりません。

 

 

 

引き寄せの法則の本当の意味

 

「うわぁやったよ。これは引き寄せだよ」

「よかったね、引き寄せだね!」

 

なんて、いつかの友人との会話です。

 

ですがこれ。どうもこれは本質ではなさそうなのです。

 

引き寄せというのは、自分の得たい結果をエゴで引き寄せるという意味でないようで、目の前で起きていることは自分がすべて引き寄せたものだということを知り、それを受けいれることだというのです。だから引き寄せたい!と思ったものが、なかなか結果として得られない時。それも自分が引き寄せたものである。ということになります。(こんがらがってます)

 

ん〜。そう考えると。今の生活って不便な部分もあったり、もっとお金を稼がなくてはとか、いろいろ考えたりするけれど。とっても充実しているし、仕事も楽しいし、変な安定感もあるしと。ある意味理想型にどんどん近づいているのかもとも思えます。これも一種の捉え方次第の部分ありますが。

 

すべて自分が引き寄せたもの

 

 

妙に納得してしまうのは私だけでしょうか。

 

 

 

お腹の痛いのを和らげるのを必死で、意識はずっとハサミを持つ手と、本を聞く耳に集中していたので、やけに響いてきた。ということもあるかもしれません。われながら「こんなことを書いて大丈夫かな」って気持ちで書いているので戦々恐々なのですが。書いてしまったので仕方がありません。

 

 

前に知人と飲んでいるときにこんなやりとりがあって。

 

私「いやぁ〜、私は最近、スピリチュアルよりなんですよね〜」

友「え〜なになに、スピっているってこと?」

 

なんて、半分大丈夫かよお前!って意味で言われていたんだと思いますけど、

 

山川さんが本の中で

 

「もしかしたらそんな世界があるかもしれないな。って思うのは楽しいからです」

 

 

占いもそうですが、信じすぎず。面白がってみるというのは。とてもいい付き合い方かもしれません。

 

 

 

 

最後に

 

運命だから仕方がないんだ

 

 

というように、妥協の理由として使うのは違うと思います。とも述べられています。

 

 

・・・おっと。危ない危ない。気をつけなければ。

弱みの意識は果てしない

「本日の最高気温は○○では30度まで上がる見込みです」

 

 

近くの畑で同じく作業をしている方のラジオから聞こえてきました。ラジオを聞きながら農作業に勤しんでいる方は結構いらっしゃいまして、TVのない生活をしている私からしてみると「ああ今そんなことが世の中で起こっているんだ」なんてことがザラにあります。そんなことを思うたびに、やっぱり自分は世間とはちょっと離れているなぁと実感します。唯一ラジオを聞かなくてもわかるのは体感温度だけで、13〜14時の間は特に日差しも厳しいですが、体も慣れてきているので。家に帰れば心地よい疲労感が眠りを誘います。寝ようと決めたら5分ともちませんもん 。

 

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雨よけのビニールの下での誘引は暴れて絡まって大変です。 

 

 

最近は農作業を2人で向き合いながら誘引という作業をしています。植物は基本太陽に向かって、上ヘ上へと伸びていきます。それでは困るので、棚のワイヤーにテープで枝をくくりつける仕事をしています。2人作業しているので、時折話をするのですが、その方によくこういわれるのですよね。

 

「○○君は口がうまいからなぁ、なにもでてこんよ」

「またぁ、そんなこと言ってからに」

 

 

その方は仕事が早いので私はいつも

 

「□□さんは丁寧で仕事が早いですね〜」

「今日もその帽子格好いいっすね、どこで買ったんですか!」

 

 

 

なんてことをちょいちょいいったりして、場をゆるくしています。そうやって話すことでちょっと場が和らぎますし。疲れているのは変わりないけれど。一息ついてまた仕事に集中できると思うからです。

 

 

仲の良い(と私が勝手に思っている)人が相手となると、より顕著にいやらしい、わざとらしい言い方をしたりするので(私と接した方はわかるかも?)「口が上手いねぇ」なんて返答されることが多かったりするのですが、それとは別にこう言われることがあります。

 

 

「どうすればそんな風に話すことができるんですか?」

 

 

 

・・・これは褒めなのか!?褒めなのか!と調子に乗る前に。

 

 

 

そんな風に・・・・意外とそう聞かれるとなんでだろう?と、困ってしまう部分だったりします(逆に私も知りたい!)無意識の部分なので、私は普通に話をしているときに、どんどん相手に興味をもって色々聞いてしまい、どうしても深い話になってしまいがちなので、その場が重くならないように自然と楽しく、笑いながら話ができるようにしているのだと思います。

 

 

 

 

・・・・と、

 

 

 

実はそれは建前で、私はいつかのある強み診断で「説明上手」という項目が「弱み」に属していると判定を受けたことがあるのです。ようは説明下手ってこと。話すことに関してはコンプレックスに行かないまでも、どうしても遠回りの話をしたり論点が外れていってしまうことを意識の底でずっと気にしています。 だからそうならないように、相手に多く質問をして聞くように心がけて(あまりできていませんが)、話をあまりしないように仕向けて避けている節があります。

 

 

ここ最近知り合った方の仲で、イベントというか、多くの人の前で話をしている方がいらっしゃるのですが「あんな風になれたいいなぁ」と隠れて思っていたりするのが実態としてあります。大勢の人前で話すことが得意ですっていう人はあまりいない気がするし、だからこそ余計にすごいなぁと思っています。

 

 

 

そんなこと思っている中で、こんな話に出会います。

 

 

或るひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。

子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦(あた)るに口給を以ってすれば、屢屢(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

 

 

当時は弁の立つ人を賢者のようにもてはやしていた・・・

 

 

ある人が雍仲弓をみて、

 

「彼は仁者ではあるけれども、弁が立たないのは惜しいことである」

 

孔子はこれにたいして

 

「どうして弁がたつ必要があろう。いたずらに口先のうまさで世を渡れば一時的に成功することもあろうが、往々にしてこれがために人に憎まれるだろう。」

「雍が仁者がどうかしらないが。弁舌が立たないことは帰って美徳であり決して短所ではない。」

 

「どうして弁がたつ必要があろうか。」

 

 人々を戒めたのである。

 

論語」の読み方 渋沢栄一

 

 

 

なんともこれを聞いて、ハッとしたのと同時に。救われて、確かにそうかもしれないなぁと腑に落ちた感じでした。

 

 

 

話すのがうまくて。なおかつ人を巻き込んでいる方々を見ていると、私は「いやぁ、すごいなぁ」「あれくらい話ができればなぁ」と無い物ねだりをしてしまうけれど。話をうまくできないことは短所ではないのだよと、いわれると救われる部分がありました。

 

 

弱みは強みでカバーする

 

 

という言葉を聞いたことがあります。私も強みに関しては色々な本を読んで「よし!強みを伸ばしていこう!」と分かったつもりでいるのですが、やっぱり何かの場面で弱みと思っている部分が露見してしてしまい、意識し始めるともうとまりません。あれだけ「強みを意識しよう」と思っていてもです。まるで弱みほど強いものはないような。

 

 

 

これだけこう思って、書いてみてもやっぱりもっと話をするのがうまくなりたいと思うのですから、私もまだまだだなぁと思うわけですが、普段自分が短所だと思っていることは、自分がそう思っているだけで、周りの人から見たらそうでもない場合がほとんどかもしれませんね。

見えないものと仲良くなる

とにかく黒い。ほんとうに黒い。何が黒いかっていえば私の手。つい先日の雨から一転して晴れ模様が続いています。もしやすると、今の時期は初夏の陽気。朝夕は涼しくて、日中は程よく暖かい。そんな印象かもしれません。しかし、いくら気持ちの良い天気でも確実に紫外線は降り注いでいるわけで。長袖長ズボン。顔をすっぽり覆う帽子をかぶってお仕事をしているわけですが。どうもこうも、細かい作業をしているので手だけは裸・・・。

 

 

まあ別にこの歳になって気にすることはでないのですが。これからの時期半袖短パンで過ごすようになるので。想像すると・・・。やっぱりダサいのですよね。去年も同じこと言ってますが、とても暑い中で仕事をするのは全然大丈夫だけど。やっぱり日焼けの方が個人的には抵抗がありますね。

 

 

今日は休憩しているとき。他の農家さんとお話しをする機会がありました。何やら他の畑をやっている人の話しをしており「○○はもっとこうしないとダメなんだ」「いろいろアドバイスをしやっているのに」「なんであのようになるのかわからない」と何やら不満のご様子。私は「そうなんですね」と繰り返しているだけだったのですが、その農家さんは言いたいことをすべて言ったからか「まあ、がんばれよ」と私の目の前から離れていきました。

 

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雨よけ付きの葡萄棚の下から

 

 

なんだかこれには既視感がありました。

 

 

 

かつて会社に勤めていたとき。いくらデザインを仕上げても社長のゴーサインが出ずに困ったことが幾ばくかありました。まだまだ若かった私はこう思います。

 

 

「この前社長が言ったことをちゃんとやっているのに、なんでここまで文句を言われなければいけないのだろう」

「全然できてないじゃないかって言われても、まだ数時間も経っていないのに」

「自分はここまで頑張っているのに。なんでこうなるのだろう」

「社長は私を目の敵にしているんじゃないか」

 

 

とまあ、どんどん深みにはまっていたことを思い出しました。今思えば意図を読めない典型的な若造で。ただただ若かったなぁと苦笑いをしてしまうのですが。

 

 

「うまくいかないのは○○のせい」

 

 

結局これは原因を外に見つけようとしていたのだと。今なら思えます。

 

 

目の前で起きていることを素直に受け入れる・受け取るようにする。

 

 

この言葉は、なんとなくうまくいかなくて悩んでいる・困っている友人や知人に対して私がよくお話をすることです。今起こっている状態を受けいれることができない人はその状況に縛られ、永遠に抜け出せないということに気づくことができないと。しかし、この話をすると一定率でこう言われてしまいます。

 

 

「それが出来たら苦労しないよね。」

「そうできるように努力はしてみます。」

「○○君はすごいね〜」

 

とか。

 

 

なかなかそうは言われても。いざそうしてみようとしても。そのような思考にいたることは大変そうです(私も一丁前に人に言う割にはよく流されますが)

 

 

 

そんなことを思って農作業をしていたのですが、その時聞いていた本のこんな話しが耳に残りました。

 

 

現在という瞬間とどう付き合うか

 

 

どんなことが起きても友人らしく歓迎すること。

現在という瞬間と仲良くする。

 

 

現在という瞬間を敵としてみると、克服すべき障害に見えてくる。そこから苛立ちや欲求不満、ストレスが生まれる

 

問題だらけの世界に見えてくる

 

ニューアース

 

 

 

ということが書かれています。

 

ありもしない問題を作り出しているのは周囲ではなく。ほとんど自分が作り出しているのがよくわかります。

 

 

友達になる

 

 

なんとなく「受けいれる」となるとハードルが高そうにみえるけれど。友達のように接することならできそうだなって。みんな友達であればそこには大きな問題は起きようがないかなって。

 

 

 

 

と延々と書いたけれど。これが今日の頭の動き。

 

 

 

仕事もスムーズに進み。その仕事が終わることには頭もすっきりして1日を終えることができた!と思える、そんな日でもありました。

 

 

 

 

 

おまけ。

 

 

 

ご先祖様を大切にすることとは。ご先祖様に愛されるということ。

 

 

何かあるたびに「ご先祖様!助けてください」っていつも言っている人が、何年もお墓まいりすらしていなかったらどうでしょう。ご先祖様は助けてくれると思いますか?


しかし、定期的にお墓まいりに行く、お墓の手入れもしている。そんな人が「ご先祖様・・・」と頼んできたらどうでしょうか。


「おお、そうかそうか。助けてやろう」ってご先祖様も助けてあげたくなるのではないでしょうか。

 

 

 

あるインタビューの話から。


ちょっとニュアンスが違うし、スピリチュアルよりかもですかね・・・。

 

 

こうした概念というか見えないものと仲良くできると、いろいろところから応援してくれる、味方してくれている感覚になり、少しくらいの良くないこと。うまくいかないことがあっても「みんなに助けられているから大丈夫、大丈夫」というような心持ちとなり、心の支えになってくれそうです。

 

 

 

 

 

日中、青空の下で、農作業をしているととっても心地よいですし。今は同じ作業の反復なので、没頭して仕事をしている自分もわかります。どんなに朝眠くても。今日は仕事のあとスーパーに買い物に行かなきゃと思っていても。仕事が始まるといつの間にか頭の中で、もやもやしていたことは消え去ります。

 

 

そこに意識のスペースが生まれて、すんなりと新たな意識と気づきが入りやすくなるのかもしれません。

自らに問いかける

今日は1日中曇り空の下での作業でした。日差しがあるとないとでは大違い。ひんやりとしたなかでの農作業だったからか、思いの外スムーズに進んでいきました。やはり日中の気温は真夏に近づいているのでどんどん高くなっているので、ぶどうの成長も早い早い。いつ人の手より先に成長が進んでしまうのかと、ヒヤヒヤしています。まだ余裕は少しあるように見えますが、気が抜けない日が続きそうです。

 

 

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 ある休憩の一幕。休憩はしっかり。

 

 

 

 

日曜日は急報をいただいて。朝起きて準備をして山を降りました。それはお世話になった専門学校時代の恩師がお亡くなりになったとの知らせだったのです。

 

 

 

直接教えをいただいたことはないのですが、当時は進路相談の担当をされており。その先生のおかげでデザイナーの道の第一歩を踏み出したとといっても過言ではないくらい。

 

 

私は専門学校に通っていた時には、そこまでしっかり考えていなかったにせよ。なんとなく映像系の仕事に就きたいと思っていたのです。当時は映像業界でのやれCGだとか、音楽業界でもPVの分野がとっても華やかに見えたりしていて。まあ格好良いと思っていたわけなんです。だから就活は東京になんども行ったりして、最終試験までたどり着いた会社もあったんです。

 

 

しかし、ちょうどその時に体を壊してしまい。ぽっかりと就職活動できなくなってしまって、受かったかどうかは別にせよ、自分としてはいいところまで行っていた会社さんも受けることができなくなってしまったりして「まあ別に就職とかできなくてもいいかな」とか思ったりして。まあ、今の自分から見たら「もっとしっかりしろよ」「なにやっているんだお前は」って見えるくらいに腑抜けになっていたんですよね。別の言い方をすれば自暴自棄ってやつでしょうか(今も結構腑抜けだし、ビビリだったりするのは変わらないかも。)

 

 

しかし、みな就職は地元志向が強くて。私みたいにしょっちゅう東京へ就職活動をしている生徒は少数だったらしく「もったいないぞ」とよく言われていました。私は案の定「大丈夫ですから」って、意に返さなかったのですが。それでも私のところに何社か映像系の会社さんやら、印刷会社やらの情報を持ってきてくれたのです。それでも私は腑抜け状態だったのであんまし反応をしないでいると「俺が話をしておいてやるから面接してこい」って言われるがまま、言われた会社に面接に行って。結局、そうやって何社か面接をした結果で、ある会社のなかでデザインの仕事に関わらせていただくことになったと。

 

 

結局今の私は机に向かうでもなく、パソコンに向かうでもなく。畑で土と戯れてしまっています。そんな環境に身を置いている私ですが、多くはないにせよ、依頼があったり、お願いされたりと「デザイン」という枠で多少は人の役に立てているわけです。それはやはりデザイン仕事を経験させていただいたからですし、そこに放り込んでくれた先生がいたからだよなぁなんて。

 

 

 

故人を偲ぶとありますが。昨日は本当に不思議な感覚で。滑らかというか自然にあの当時のことが回想のように色々湧いてきたんです。それはお通夜の最初から最後まで。弔問後はすぐに山梨に帰ったのですが。そのときもずっと回想が続いていました。

 

 

 

私はとてもお気遣いをいただいていたのだと思っていますが。進路担当の先生なので、もしやすると一生徒として、接してくれただけかもしれません。しかし、あの時。あのことがなかったら。今の自分が存在しているかと考えてみたら。やっぱりいないのですよね。

 

 

何によって憶えられたいか ピーター・F・ドラッカー

 

終わりを思い描くことから始める スティーブン・R・コヴィー

 

有名すぎますね。

 

 

 

年齢を重ねていった先のこと。自分の最期・亡くなったあと。自分は周囲の人になんて言ってもらたいか、どんな人だったと思って欲しいのか。名著と言われる本の中には「自らに問いかけなさい」とそう言っています。普段から「忙しい、時間がない」または、漫然と生活しているような状態では問いかける機会は永遠に訪れないかもしれません。はっ!とそのことに気づいても、自らに問いかけをすることは難しいものです。私が旅立つまでには答えが出ているかどうか、まだわかりません。しかしもう一度向き合う時期にきているのではないかと感じてしまい。今日もずっと畑仕事をしながら問いかけ続けていました。

 

 

昨夜は、多くの生徒さんも弔問に訪れていました。多分OBの方で見たことのある方も多く散見されました。それだけ慕われていたことがわかります。間違いなく、私もその一人なのですから。

 

 

私が迷った時に道を示してくれた道先案内人。本当に苦しい時期に助けていただいた方の恩は決して消えないものです。接した時間は少ないにせよ、私の人生与えた影響ははかりしれません。分け隔てなく、いつも笑顔で、気軽にお声がけしてくれるとてもよい人柄の先生でした。 

 

 

故人のご冥福をお祈りします。

だから本を読みなさい

あんまり忙しいって言葉は使わないのですが、だいぶやる事が多くなってきました。風がまだひんやりとしている明け方から畑に向かい、夕方まで仕事をして。そのあとは自分の野菜畑の様子を見に出かけて行き、小一時間くらい水やりや細かい手入れをします。そうしてようやく家に戻ってくると、洗濯をしてご飯を作ってと。そんな事をしていると20時をこえていて、そこから頼まれている事をやってと・・・毎日があっという間に過ぎていきます。

 

まだまだ夏型のサイクルに体が慣れていないのでおもったより疲労感がありますが、それも慣れてくれば、その疲労感が心地よい眠りへのいざないとなるのを私は知っています。去年(2シーズン)のときには毎日同じ事の繰り返しがこのままずっと続くのだろうかという気持ちがあったりして思考に耽る事が多々ありましたが、それは今思えば完全な自分への驕りであって。一度として同じ瞬間というのものはないのだと途中で気づいたことで、さらに農作業に身が入るようになりました。

 

 

と。そんな悟ったかのような事を書いていますが。まだまだ私は未熟なので雑念が頭のいたるところにあって。それは雑草のようにも。

 

 

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本を読むことは生活の一部です。 

 

 

今日はちょっとだけ本の話を。時々ですが、人に本をお勧めしたり、差し上げたり。またどうやって本を選んでいるのかとか聞かれる事が増えてきています。周囲に比べれば読んでいる方だと思うので。本を読む事って自分にとってどういうことか。どんな影響を与えているかなど。適当に。

 

 

 

どうやって本を選んでいるのか

 

 

本って選ぶところから、ストーリーが始まっているのかもとか思ったり。どうその本に出会ったかというのは、後々記憶に残りやすいとかあるかもしれません。

 

 

書店で選ぶ

 

この本を買いに行こう!そんな事は関係ないさと。目的を決めずに本屋さんに出かけて行って、なんとなく目に付いた本、気になった本を買う。どちらかというと直感に沿って購入します。

 

著者さんで選ぶ

 

簡単です。何かのきっかけでその著者さんの1冊に出会った時。一度でも読んで面白かった。印象に残った。他の本も読んでみたい。と思った時は「何か他の本がないかな」と自然と探している事がほとんど。水が合うって言葉があるように。なんか自分の感覚に合う著者さんっているんですよね。

 

ちなみにこの感覚を初めて体感したのは、高校生に出会った池波正太郎さんでした。書店で文庫本を買った時にあまりに面白すぎて1冊読んだ後、また本屋さんに行ってもう1冊かって。すぐに読み切ってしまって、また本屋さんに行って数冊買って。1日に本屋さんに4回(確か)くらい行ったのを思い出します。高校生の当時、全然お金なかったのに文庫本だけで100冊近く買っていたので、今思えばすごい事で、この時に本を読む事の素養が育まれたのかもしれません。

 

紹介で選ぶ

 

紹介にもいろいろあります(けっこう範囲が広いです)

 

  • 友人・知人から
  • 書評ブログを週に何度かチェックする
  • FB、Instagramとかで誰か載せていたもの
  • 好きな著者さんの紹介
  • 本の中で紹介されている場合(文末の参照元などの情報から)
  • 購読している新聞、雑誌で紹介されているもの
  • 本を紹介しているPodcastから
  • ある有名人のインタビューの「私に影響を与えた1冊」から
  • 上場企業の社長さんの紹介・読んでいる本から

 

など・・・ 

 

年齢を重ねるごとに。紹介で、他人のフィルターが一度通った本を選ぶことがとても大切だと思うようになりました。本屋さんで直感を働かせることもできますが。いかんせん自分の経験だけでは浅くて狭くて。どうしても自分の判断で選ぶ本は傾向が似通ってしまい、視野が狭くなってしまいます。少しでもその呪縛から逃れるためには紹介が欠かせないと思います。

 

人から紹介された本を読んだ時。合わない本、読み辛い・難しい本のほうが比較的多いです。でもそれは当然で私の感覚にないものがその本にあるから。そういった時には、紹介してくれた人が「なぜこの本を面白いと思ったのか」「ああ、この著者さんのこの部分に影響を受けているなぁ」なんて、紹介してくれた人を思い浮かべながら読むと、もっと面白く読むことができます。

 

 

 

図書館で選ぶ

 

何かを調べるために図書館に行って、読んでいたら欲しくなっちゃう場合があたります。結構お高い本も多いので稀ですが。

 

 

番外編(オーディオブック)

 

家にいる時、車の移動中、農作業をしているときに。音楽を聴いていることに飽きてくると、耳で本を聞くようにしています。プロの声優さんが話しているし、章ごとに再生できるので何度聞いても飽きません。オーディオブックにも選ぶ基準があります。

 

・見るからに難しそうで、ずっしり重く、厚い本

・読みたいけれど時間がなくて読めない本

・昔からの名著と言われるもの

・原理原則を説いたもの

・生き方・哲学についての本

 

など・・・だいたいこんな感じです。

 

特にヘビロテしているのは上から

 

 

私は結構変態なので、7つの習慣は、去年から畑でずっと流しながら作業をしているのですが。多分100回以上は聞いています。もちろん聞き流しなので受け取りの程度はありますので賛否はあると思いますが、何度聞いても、その時の心境、出来事によって影響を受ける部分が違うのが不思議です。

 

 

というように。私は本好きなわけですが。結局はこれも孤独からくるものです。会いに行きたくても会いに行けないのです。特にシーズン中ですが、農作業をしているので、なかなか1年の中、数日でも離れるということができません。おのずと距離が決まってきます。直接私が興味を持っている人、気になる土地へと行くこと。イベントに誘われても、残念ながらそれほどの経済的余裕は今の私にはありません。また、直接人に会いに行ける範囲が人と話す機会が少ないので。知的好奇心や孤独を埋めようとする欲求が私を本へと向かわせるのかもしれません。

 

 

 

全てにあてはまるわけではありませんが、私が好きだなぁとか、興味がわく人ってだいたい本を読んでいるんです。本を読んでいるかどうかは話をしているだけでわかります。話をすることが苦手な方でも、本を読んでいる人は語彙を知っていますし、表現方法が多彩で豊かです。それは話をしていて明らかにわかってしまいます。また、その人の生きている時間では得ることのできないとても貴重な経験を得ることできます。追体験ができます。本を読む人は心が豊かだとも聞いたりしますが、その人の人格にも影響を与えていると思います。

 

今はネット全盛の時代で活躍されている方にも多く出会いますが、それがどんなに凄い人、面白いと言われている人でも、なんかピンとこないなぁ・・・という時に出くわすことががあります。その人はすごいし、真似できない。でもその感覚とは別にどうしても興味がわかない。結局それってなんだろうって考えていたのですが、それはその人に人格が備わっていないからだと思うようになりました。(私がいうのも生意気なのですが)

 

 

 

だから本を読みなさい。

 

 

 

 

とは言いませんし、言える立場にありませんが。本を読むことは人に深みを与えると信じています。最近本を読んでいないなぁという方。少しでも本を読んでみようと思ったら。明日本屋さんでとりあえず出かけていって、パラパラしてみると新しい出会いがあるかもしれません。

嵐の前のワンコール

ぶどうが本格的にシーズンインとなりました。冬場のあいだ殺風景だった畑にも徐々に緑が見え始め。にょきにょきと新梢が始めています。ここからは一気にぶどうの生育が進むのであっという間にぶどうの葉が山々の棚を覆っていくことでしょう。今週の頭からは、芽かきの作業となりまして、副梢を取り除いたり。いらない新梢はポキポキと取り除いています。今では芽かきをした新梢は天ぷらにして食べるようになっているらしく。近くの農協の販売所ではワンパック100円程度で売っています。保存がきかないので、産地だけの楽しみ。これも春の味覚に定着していくのでしょうか。

 

 

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新緑がまぶしい。 

 

 

さて。おとといの日が暮れるころ。仕事もおわって帰路につこうとした時。「明日はなにやら天気が悪いみたいだよ」ってことで「明日はお休みにしよう」となりまして、次の日がお休みとなりました(実際は深夜から明け方の雨で収まってしまったようですが)ここのところ急に暑くなったので、ゆっくりしながら寝ていようかなぁと家に着いて一息ついた時。

 

一通のメールが来たんですよね。

 

 

 

 「明日仕事?」

 

 

 

このメールが来た瞬間に明日のお休みがどうなるか決まったのでした。

絶妙です。まったく。

 

 

1日目の夜から、2日目の夕方まで参加してきましたよ。

 

【4周年企画:5月3日〜5日】ゴールデンウィークなのだ!

 

実は今回、久々に名古屋からいらっしゃる方がいてですね。ありがたいことにお声がけしていただいていたのです。その方とは以前他のイベントの際に一緒に掃除をしたことがありまして、同年代ということで意気投合(していたはずw)いたしまして、その後なかなかお会い出来る機会がなくて「また一緒にお酒を飲みたいですね〜」なんて言っていたわけです。はじめ連絡をいただいたその時点では「仕事があるので参加することができない」と。お断りの連絡を入れていたんです。しかし、今回仕事がお休みだったのですから、これはいかねば!と。こっそり。内緒で。向かいました。

 

 

sasariki.hatenablog.com

 

 

もう一年以上前なんですね。これまたあっという間です。

 

 

nanodaについてからは、いろいろと聞きたいことがあったので。根掘り葉掘り、仕事のことやら、プライベートのことやらとつもるお話をさせていただきました。やはり同年代の方で面白いことをやっていると、やっぱり一層気になるもので。SNSなどで近況を見たり、何かしらご活躍の噂を聞いたりするだけで。私ももっともっと動いて、面白いことをしなくては!と、よい刺激と、エネルギーをいただけるものです。今回いろいろとけしかけてしまったので、言った分だけ私も動きたいと思います。はい。

 

 

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これからの活躍に期待しちゃいます。

 

 

その後、次の日の朝は初めてのヨガを体験させていただきました。今回ゲストにいらっしゃっていた先生のなんとも魅きこまれるような声に合わせて、呼吸を整えながらカラダをゆっくりゆっくりと伸ばしていきます。私の友人(特に女性)がヨガ教室に通っている方がちらほらおりまして。皆、口々に「ヨガってとってもいいよ〜」「とってもリラックスできるよ」なんてよく聞く話で。正直に言うと・・・、なんかヨガやっているっていうと、なんかいい趣味だなぁって印象もあるし、ストレッチと何が違うの?なんて思っていました(ごめんなさい)

 

しかし、百聞は一見に如かずとはよく言ったもので。ヨガって恐ろしいです。いいんです。そうとってもいいんです。本当に皆にオススメしちゃうのもわかるし。やるまえと、やった後のカラダの軽さと、一体感が半端なかったです。こんなに効果のあるものなのかとびっくりしてしまいました。私はとくに、首、肩、腰。案の定パソコンに向かう時の姿勢もわるいし。ぶどうの棚の下で見上げながら作業をしているので案の定ガチガチなのです。それがもうとっても楽になりました。

 

しかしそれはやったあとの話で・・・

 

「気持ちの良いところでとめてください」

 

という場面が何度かあったのですが。

 

「先生!痛すぎて気持ちの良いところが見つかりません!」

 

と先生に言えなかったので、ココロの中で小さく叫びながら、歯を食いしばりながら。一生懸命、ヨガのポーズを取っておりました。もしやすると農作業より辛かったかもなんて(笑

 

 

時々、考え事や、ちょっとした不安があるときには、寝床の上で胡座をかいて自己流で瞑想をやったりしているのですが。ヨガを通してもう少し呼吸の仕方を学んだり、先にリラックスをした状態でやったほうが、絶対効果があるんだろうなぁ。ヨガを始めてみようかなぁと思うのですが。やってしまったら絶対にはまってしまう自分が鮮明に想像できてしまうので、農作業が落ち着いたら、本格的に始めてみようかしらと思っています。

 

 

 

そうしてヨガをやっていたらあっという間に時間がすぎて、お昼前。先に帰る方々を送るとのことで、一緒に向かい。駅内のお蕎麦やさんでお昼となりました。そろそろ私は帰ろうかなぁと思っていたのですが。一度小休止になり、ゲストでいらっしゃっていた方が一人で行動される様子だったので。ちょうど奈良井宿のお話も出ていたので。一緒に行きましょうとお誘いして、駅からそのまま奈良井宿へとアテンドさせていただきました。

 

そういえば。奈良井宿をアテンドするの何回目だろうか・・・。と住んでいない私がアテンドするのはいいのか・・・。とちょっと不安を覚えつつ、私がアテンドしていただいたときの光景を思い出しながら、説明もそれっぽくすることができました。

 

 

 

まっくす こと 東 信史さん

PROFILE | MAHOROBA

 

実は何度か知人のFBなどでお顔を拝見したことがありまして。絶対面白いことをされている方なんだろうなぁと思って。奈良井宿への車中で、いろいろと質問をさせていただきました(といいつつ、私の話を半分以上聞いてもらいました。ごめんなさい。)

 

どんなことをやられているか興味のある方はリンク先をご覧いただくとして。私の印象を少しだけ。

 

 

見た目だけで抱いた印象は、とにかく笑顔でほんわかしていて、何を考えているかわからない。という感じ。私って悪い癖でというか、習慣からか話している相手の顔の動き、カラダの動作を観察して「今この人は◯◯を考えているんだろうなぁ」と。勝手に想像しているのですが本当に読めない。わからない。だからこそ余計に気になってしまって。

 

 

お話をしていくなかで、まず感じたのは。聞き役に徹するということでしょうか。ファシリテーターを数多く経験されているというのもあるのかもしれませんが、相手の話をさえぎることをなく、淡々と相手をみて聞いているんですよね。聞いている表情は真剣なのだけど、和やかに受け取っているような。それにプラスして相手に威圧感を与えることがないんです。だから相手はどんどん話をしてしまう。また、参加している人にアドバイスをしているときに横で聞いていたのですが、先見性を持った話、視野の広さをひしひしと感じまして、とても賢い方なのだろうなぁとも。

 

過去の問題解決のお話も聞いていたのですが。どこにどう働きかければ、物事が進み出すのか、人が動くのかという「作用点」としっかりわかっていて。そこには何かしらの力は加えるけれど、しっかりみんなを巻き込んで。関心をしっかり持たせる、自分ごとにさせることの重要さを発見できました。

 

 

まあ私はといえば。今回もそうだったのですが、話をしているなかで自分の好きなこと、気になることになると一気に喋ってしまうのです。要は興奮してしまうと話が止まらなくなってしまうのです。それが良い、悪いではないのですが。年齢を重ねたせいか「多分俺ってうるさいし、しつこい喋りをしているのだろうなぁ」と感じることが増えているところに。とても落ち着いてお話をされているまっくすさんをみたら。我が身を振り返ってしまいました。農民ってやっぱり寂しいんだと思う(いいわけです。)

 

 

 

今回は4周年企画だったのですが。私もいつの間にかnanodaに出会ってから1年半くらいたっています。過去にも何度か触れていますが、連絡がくるときっていつも直近なんですが、だいたい次の日が何かしらの理由でお仕事がお休みなんですよね。どうやってそれを知っているのか、感覚で分かるのか。いつも不思議でしょうがないのですが、やはり何か持っているんでしょうね。きっと。

 

 

なんか塩尻に行くのも慣れたものになっていますし。塩尻まで約110kmあるのですが、当日に連絡がきても、行けちゃう距離だと錯覚してしまっていますし。慣れって恐ろしいですよね。

 

 

いつも外からのお客さんが多いこともあって、いろいろとnanodaに関していろいろとおっしゃる方がいると思いますが、やはり塩尻という土地柄、中山道、宿場町。歴史からみても人が交わる土壌があるのかなぁと。行くたびに感じます。実は過去を振り返ってみたら、nanodaと同じような場所があって、動かしている人がいたんじゃないかなぁと想像してしまいます。

 

 

外から見えれば「ああ、まちおこしのあれだよね」って枠に入れられてしまうのですが、そんなよくわからない小さな枠に収まらないような。不思議な魅力がnanodaにはあって人を惹きつけるのかもしれないなと。改めてそう感じました。関係者の皆さん、3日間お疲れさまでした。