ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

無理をしない

山から下ってきたら、毎日のようにお酒をのんで、いつもよりカロリーのある美味しいものばかり食べてる。それも夜遅くまで。なんとか1日だけはうどんとかお茶漬けとか食べておうちでリセット、ゆっくりできたのだけれど。なんだかカラダがゆうことできませんね。ただただカラダを休めたい。そんな感覚に陥っています。それは年齢のせいかもしれないし、生活リズムのくずれ、いや普段食べないお肉や魚を食べてびっくりしているのかも。

 

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たくさん飲みました。

 

 

いつも同じように食べ過ぎた飲みすぎた〜と言ってはいるものの、久々に友人たちと話をしていると若い頃の話をしては、ああだったね。こうだったねとずっと話が尽きないほど盛り上がります。みんなそうだと思いますが。そうして楽しく年末はお酒を酌み交わしていたのですが、ふとした時に「あの時◯◯してくれた事で自分は変わったんだよ」なんて事を言われました。それもたまたまなのか最近何度か重なりまして。

 

 

自分は何もしていないなぁとか、社会の役に立っているのだろうかぁなんて、思いにふける事がよくあるのですが。ああ、知らぬ間に自分は周囲の人に影響を与えているんだなぁとつくづく実感しました。なんだかそれだけで救われる気がしますね。また、それに恥じないような事を自分はしないといけないなぁとも。

 

とまあ、そんな気づきがありつつ。美味しいご飯を食べるのも、いいお酒を飲むのもとっても楽しいことなのだけれど。それもほどほどがいいわけで。美味しいものを食べてるのに疲れたとか、気持ち悪いとか言っている自分を目の当たりにすると。もう気持ち悪くなるまで飲まないって、何度も決心しているのに、なんとも人間って同じ事を繰り返すなあと、毎回トイレに顔を近づけてにらめっこしながら思います。

 

 

 

さて、今年をなんとなく振り返ってみると。

 

 

まぁ〜無理をしなかった。

 

本当にこれにつきました。

 

「無理をする」というのは人によって定義が違うと思うので。あくまで私の基準で書いてみると。

 

第一にぶどう栽培に対して影響を与えてしまうことはしないということ。そして無理をしているな・・・。と思った瞬間に、その行動をしないという選択をまずはとるようにしていました。いつも「やっぱり◯◯に行きたい。参加したい」って感情がでてくるのですが、行くか行かないか悩んでしまうと私は「いっちゃえいっちゃえモード」になるので、無理をしないという基準があるだけでだいぶカラダに余裕がうまれてきて、それが結果的には精神衛生上に良いように感じ、ようやく私の場合の「ココロとカラダのバランス」が良いようです。

 

自分の周りでご活躍されている方たちは、ものすごい行動力と、強靭な体力をもってどんどん前へと物事を進めていて。それを見るたびに自分は全然動けていないなぁとか、まだまだだなぁと思うことが多いけれど。その反面それは私にとってみて大事なことなのかどうか。との視点でみてみると。そこまで大事なことではなかったりして。それだけでも必要以上のよくわからない焦りや不安は消えていきます。

 

 

思えば去年は自分でもよくわからないままに、いろいろなところに出向いたり。暇さえあればちょっと厳しいスケジュールでも「行きます!」の一言のもとにとにかく動いている年だったなぁと。しかし、うちのおばばちゃんが亡くなったことがきっかけとなり。そこから自分の大切なものはなんだろうかということを考えるようになって。まあ内向き内向きへ。最近は中国故事ばっか読んでましたから。

 

ちょっとしんみりな感じですが、動かなかった事で出会えた縁もあったりして。山梨の中ではあんましつながりがなかったのですが。面白い方々とつながることができたりして。不思議なものです。

 

なんとも周囲の人に心配されたりすることもあったのですが(とってもありがたいです)、面白いもので動かないでいると、今度は動きたくなってくるんですよね。私なんかちょっちゅう貧乏ゆすりをしているので、本来はじっとしてられない性分のはずですから。よくもまあここまでじっとしていたなぁとも思います。年が明ければもしかしたら動きたくなるのかもしれないし、もしかしたらもう一年じっとしているかもしれません。そのくらいの気負いのない余裕をもった気持ちで動ける準備だけはして。その時を待ちたいと思います。

 

 

 

皆様良いお年をお過ごしくださいませ。