ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

ご褒美のためじゃなく

いつのまにか松のうちが明けてしまいそう。皆さんはどのように年を迎えられたのでしょうか。私は年末は静岡でゆるりと過ごさせていただきまして、母上にお願いして録画してもらっていた鬼平犯科帳ファイナル」をひとりでのんびりみておりました。池波正太郎先生の著書は一通りみていたので、一人感慨深い気持ちなりながら画面をみておりまして。キャストの皆さまもずいぶんお歳を召されたなぁと。最後にはこれでおわってしまうのかと寂しい気持ちになってしまいました。

 

年明け早々にしばし旅に出ておりました。というか連れ出してもらいました。行きたかったワイナリーにもいけましたし。日本海側のおいしい海の幸やら料理やらもいただく事ができて、つられるように夕方からはお酒を飲んでは、朝起きてその土地土地の名所を歩いてみては、思いを巡らしておりました。やはり訪れた事の場所にいるとなんといいますか、多くの刺激とともに一種の興奮状態になるようで、車で移動をしている時もとても楽しめました。

 

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能登半島から日本海

 

 

いつかも書いたけれど。どうも私にとっては日本海側は異国で。車で走っていると方向感覚がおかしくなります。ナビの地図上で上に海があるのはどうも慣れないのです。静岡出身の私には右側に海があるときには東京方面を向いているし。左に海があれば名古屋方面とこんな感じで。だから?なのか余計に異国感。太平洋側にお住いの方はわかってくれる人がいると思いたい・・・。やたらと異国感を強調しているけど。沿岸の国道を走って海を眺めているとなんかこの景色は見たことあるかも、地元のあの街に似ている。って景色が重なる場所もあって。城下町で海が身近にあるだけでなんだかんだ親しみを覚えずにはいれませんでした。

 

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武家屋敷跡。静岡にはあんまし残ってない感じ。 

 

今回は別にイベントに参加するわけでもなく、人に会いに行くわけでもないし、目的もない。本当の骨休めと言える旅で。とてもとても楽しかったです。しかしなんといいますか。今の自分にはもったいないなと思ってしまいました。それは自分が周囲と比べてあまり頑張っていないからなのか、休耕期でそこまで働いていないからなのか。よくわかりませんが。

 

これまでは

 

「しっかり頑張っているから、ここまで自分に◯◯をしていいだろう」

 

って許可がでていたように思えていたけれど。それはちょっと違って。ただただ自分は普段苦労している、ここまで頑張っているのだからと甘やかして与えていただけかもしれないなぁと。全然たいしたことしてないのに。しかし、毎日を大切に、充実させて過ごす。また小さな楽しみでも喜びでもいいので。幸せだなぁと思える瞬間が身近にあるだけで、甘やかす必要ってなくなってきて。必要以上に自分に与えなくてもよくなってくるようです(少なくとも私は)

 

 

そう鑑みて、今の世の中っていつから休日って概念にビタッとハマってしまったのかと。みんな似たように週末にどこかにお出かけして気分をリフレッシュとか、自分にご褒美とか。充電できたので明日からまた頑張れそうですとか。ん〜。なんだかそれがリフレッシュするのが働く目的になっているようにも見えて。私はそれは求めていないのだろうなぁって。果たしてもっと私自身が頑張ればそうなるのか・・・。「それは価値観の違いだよ」って言われてしまえばそこまで話ですけれど。

 

 

 

たまたま新潟から富山へと向かう道中である土地を通りました。なんだか建物とかが見るも無惨な姿で、こんな街初めて見たよなぁと思いながらここはなんていう街なんだろうと、交差点の標識を眺めてみると。糸魚川との文字が。糸魚川・・・。なんか聞いたことがあるようなないようなと。記憶を辿ってどこでみたんだろうかと思ったら。年末の大規模火災に見舞われてしまったのだ。と思い出しなんとも悲しい気持ちになりました。画面を通してみるのと、実際に現場をみるのでは受ける印象も違います。

 

 

今回の火災の原因などは私は詳しく知らないのですが、近年で大火と言われるものは久しくなかったようです。一昔前の江戸時代では数年に一度は大火と呼ばれるものがあったようで、それは木造の家屋でそれが密集していたわけで、火事が起こりやすく、いったん火がつくとどんどん燃え広がるので、鎮火するのはとても困難をだったと。鬼平の話ではないけれど。わざわざ役に”火付”盗賊改方とついているように。火付けは重罪で。火付けは市中引き回しの上、火あぶりの刑か死罪を言い渡される場面が何度か出てきますから。遠い昔の話と思っていたけれど。火事の恐ろしさを改めて感じました。

 

 

さて、こんな風にな〜んも考えないで年末年始を迎えてしまった私。毎年年末に書くやりたいことリストをまだ書いてもいません。ようやくそれに気づいた私は本屋さんに行って、ようやく手帳を買い求めてきました。周囲の皆は新年の挨拶に多くの目標を抱えているのをみて。私も書くぞ〜というようにはなかなかなりませんで。なかなか筆が進んでおりません。

 

今週末は都心に出向こうかと考えておりましたが、なにやら天候が雨だか雪だかで。お出かけはしないほうがいいとの暗示かなと思ってしまったので。お家にこもって作業をちくちく。ようやく郵便受けに入っていた年賀状をみたのでそのご返信と。手帳にやりたいことやら、会いたい人リストやら。のんびりあせらず、書いていこうと思います。

 

そんなこんなで今年もよろしくどうぞ。

無理をしない

山から下ってきたら、毎日のようにお酒をのんで、いつもよりカロリーのある美味しいものばかり食べてる。それも夜遅くまで。なんとか1日だけはうどんとかお茶漬けとか食べておうちでリセット、ゆっくりできたのだけれど。なんだかカラダがゆうことできませんね。ただただカラダを休めたい。そんな感覚に陥っています。それは年齢のせいかもしれないし、生活リズムのくずれ、いや普段食べないお肉や魚を食べてびっくりしているのかも。

 

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たくさん飲みました。

 

 

いつも同じように食べ過ぎた飲みすぎた〜と言ってはいるものの、久々に友人たちと話をしていると若い頃の話をしては、ああだったね。こうだったねとずっと話が尽きないほど盛り上がります。みんなそうだと思いますが。そうして楽しく年末はお酒を酌み交わしていたのですが、ふとした時に「あの時◯◯してくれた事で自分は変わったんだよ」なんて事を言われました。それもたまたまなのか最近何度か重なりまして。

 

 

自分は何もしていないなぁとか、社会の役に立っているのだろうかぁなんて、思いにふける事がよくあるのですが。ああ、知らぬ間に自分は周囲の人に影響を与えているんだなぁとつくづく実感しました。なんだかそれだけで救われる気がしますね。また、それに恥じないような事を自分はしないといけないなぁとも。

 

とまあ、そんな気づきがありつつ。美味しいご飯を食べるのも、いいお酒を飲むのもとっても楽しいことなのだけれど。それもほどほどがいいわけで。美味しいものを食べてるのに疲れたとか、気持ち悪いとか言っている自分を目の当たりにすると。もう気持ち悪くなるまで飲まないって、何度も決心しているのに、なんとも人間って同じ事を繰り返すなあと、毎回トイレに顔を近づけてにらめっこしながら思います。

 

 

 

さて、今年をなんとなく振り返ってみると。

 

 

まぁ〜無理をしなかった。

 

本当にこれにつきました。

 

「無理をする」というのは人によって定義が違うと思うので。あくまで私の基準で書いてみると。

 

第一にぶどう栽培に対して影響を与えてしまうことはしないということ。そして無理をしているな・・・。と思った瞬間に、その行動をしないという選択をまずはとるようにしていました。いつも「やっぱり◯◯に行きたい。参加したい」って感情がでてくるのですが、行くか行かないか悩んでしまうと私は「いっちゃえいっちゃえモード」になるので、無理をしないという基準があるだけでだいぶカラダに余裕がうまれてきて、それが結果的には精神衛生上に良いように感じ、ようやく私の場合の「ココロとカラダのバランス」が良いようです。

 

自分の周りでご活躍されている方たちは、ものすごい行動力と、強靭な体力をもってどんどん前へと物事を進めていて。それを見るたびに自分は全然動けていないなぁとか、まだまだだなぁと思うことが多いけれど。その反面それは私にとってみて大事なことなのかどうか。との視点でみてみると。そこまで大事なことではなかったりして。それだけでも必要以上のよくわからない焦りや不安は消えていきます。

 

 

思えば去年は自分でもよくわからないままに、いろいろなところに出向いたり。暇さえあればちょっと厳しいスケジュールでも「行きます!」の一言のもとにとにかく動いている年だったなぁと。しかし、うちのおばばちゃんが亡くなったことがきっかけとなり。そこから自分の大切なものはなんだろうかということを考えるようになって。まあ内向き内向きへ。最近は中国故事ばっか読んでましたから。

 

ちょっとしんみりな感じですが、動かなかった事で出会えた縁もあったりして。山梨の中ではあんましつながりがなかったのですが。面白い方々とつながることができたりして。不思議なものです。

 

なんとも周囲の人に心配されたりすることもあったのですが(とってもありがたいです)、面白いもので動かないでいると、今度は動きたくなってくるんですよね。私なんかちょっちゅう貧乏ゆすりをしているので、本来はじっとしてられない性分のはずですから。よくもまあここまでじっとしていたなぁとも思います。年が明ければもしかしたら動きたくなるのかもしれないし、もしかしたらもう一年じっとしているかもしれません。そのくらいの気負いのない余裕をもった気持ちで動ける準備だけはして。その時を待ちたいと思います。

 

 

 

皆様良いお年をお過ごしくださいませ。

真実はどこ。

一足先に昨日忘年会がありまして。午後の早い時間帯から飲み始め。あまり普段は頂かない日本酒を飲みながらまったりしておりました。正直にいうと日本酒はあまり好んで頂かないのですが、ありがたくおちょこがなくなると、自動的に注がれるのでその流れに沿いながらいただいていたんです。過去に日本酒をいただいた後での失敗談が何度かあって、次の日は厳しいかなぁと思って身構えていたのですが。そこまで残ることもなく。いい感じ。

 

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七賢の直営店でどっぷり。

 

野菜、お肉、お魚。生物、焼き物と口に運んでは、ちょこっと日本酒をいただくことを繰り返していると。なんとなく素人なりにも良さが分かってくるものですね。この組み合わせはとても合うなぁと思ったり、これはちょっと違うかなぁと。自分なりの飲み方ができてきます。それだけいいものをいただいたのかもしれませんが、食わず嫌いっていうものはやっぱりあって。たまには選択肢として日本酒もいいのかもしれないなぁと感じました。

 

 

さて、今年は特に?メディアが騒がしい昨今でありまして。友人と話をしたりするときに耳に入ってくるのですが。まあなんでしょうか、何かと気になってしまって、人それぞれに湧いてくる感情もあるとは思いますけど。なんといいますか、知りたい知りたいという「知的好奇心」の方向性がなんかそちらに向いていってしまって、何も考えないでいるとどんどん関心の輪が大きくなってしまっているなぁと感じています。

 

 

今や気軽にグーグル先生で検索さえすれば、どんなことでも情報が手に入るなんてことも聞いたことがありますが、それがかえって「検索してもわからないもの」が出てきてしまうと、なんとかしてそれを知ろうと欲求と、わからないものへの恐怖に似た感情がでてきて。「真実が知りたい」ってことにつながっていのだろうなぁって。そこで自分の想像していた「真実」と同じであれば安心するし。異なる「真実」だった場合に至っては、信じていたのに。ってなる。そうして「真実」には良いも悪いもないはずなのに、怒りや、傷つくということを自分で選択して一喜一憂すると。

 

 

私自身の経験からも、大人になってから知る「真実」ってあって。家族の知らなかった事を不意に知る事になったり。友人とあの時、あの頃の話をしたりした時に初めて知る事もちょくちょくあるけれど。それは自ら知りたいという欲求からではない分、そこに意味付けをせず「そうだったんだな」と素直に受け入れる事ができているようにも(これも内容や人によると思いますが)

 

 

他にも似たような?ことがあって、前職で食品関係のお仕事でしたので関心があってそこそこ勉強をしていたのですが。数年前からあるよくわからないけれども安心安全という神話。どこかの誰かが作った「安心・安全」を探してきて◯◯だから「安心・安全」だよって、自分で試したこともないのに妄信してきて、その「安心・安全」が崩れたときに「どうしてくれるんだ」ってなることとか。ここにもその選択をとった自分の責任を曖昧にしている部分がありそう。

 

 

知りたい知りたい!という欲には、内と外があって。外に関心が向けば向くほどに、内へと向かう意識から遠ざかっていく。言い方を変えれば内にある部分が見えなくなってきてしまう。それは普段から感じている将来への不安、日常でのストレスのようなものから遠ざけてくれるので、いい隠れ蓑になっているようにも思えて

 

 

でも、実は自分の内面へと意識を向けていくと、不安というものはかわらないけれども、よくわからない「見えない不安」から、認識できる「見える不安」にはなるので、その不安とうまく付き合えることができると。共存することもできるし、何かしらの手は打つことも選べる。その違いはとっても大きいなぁって。(私は内面へ進み過ぎちゃってる感がありますが)やっぱり私も何かしら調べたりチェックはしているわけでして。FBとInstagramは常日頃触っているので、なんとも私の関心の輪も大きめ大きめで引っ張られていること(ごめんなさい)

 

 

こんなことを書いているのも。最近は仕事をしながら阿闍梨さんの話を聞きながら仕事をしていて。その中でその阿闍梨さんの師匠が言っていた言葉がありまして。

 

 

ムダなことなどひとつもない

ムダなことなどひとつもない

 

 

 

 

「賢(かしこ)バカ」になってはいけないよ

 

みんな、知識を持っていて、頭で計算をして、わかっているつもりでいるけれど、いざ行動!となるとできないんだな。そういうのを、うちのお師匠さんから教わったけど、『賢バカ』って言うんだと思うよ

 

 

 

なんとも私は「賢バカ」だよなぁと思って、粛々とぶどうの枝を切っているのですが。何かしらの外からきた情報に対して、ああでもない、こうでもない。こうするべきだ。私ならそうするのになんでそうしないんだ。何て反応ばかりしたらまさに言葉通りの「賢バカ」になってしまうようなぁとも。

 

 

悪い事象に、良き事象と思うことに出会った時には、それを先生として。自らを省み、行動できる人へと向かいたいものです。

まいにちごはん。

1日ずっと枝を切っています。去年は標高の低い畑から徐々に上へと上がって行ったのですが、後半になるにつれて雪の影響で侵入できない畑が出てきてしまい、なんともスケジュール通りにならないといったことがありまして、それなら先に雪の影響を受けやすい畑から作業をしていこうとなりまして、最奥地のすももの剪定からスタートしています。

 

このすももの畑は日照時間が短くて。10時にやっと全面的に日が差したと思ったら、12時を境に太陽は山陰に隠れ始め、14時にはほぼ陰ってしまうと。そんな立地なものですから。雪が積もってしまうと全然雪が解けないのです。とりあえず畑には上がれず、上がれたとしても足がズッポリ、日陰で気温が上がらない、風がビュービューで、静岡出身のガリガリ君にはきびしいきびしい。今年はそれがないだけで天国のようです。(寒さは耐えるのが辛くて辛くて)

 

さてさて、最近はあまりお出かけをする機会が少ないことがあって、私のInstagramは自分の狭い行動範囲を誇示するかのような編成になっておりまして。

 

 

料理 > 畑 >  

 

 

そんな有様なのです。そしてとりあえず仕事は日が出てから日が沈むまでなので。まあ時間があるんです。ようは暇な時間が多くなってきたわけで。そうなると私は何に一番時間をつかっているのだろうか?と考えていると、とりあえず「ご飯を作って、ゆっくり食べること」に時間を使っているようです。

 

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今日はきのこ祭りのお味噌汁だったよ。

 

大体は前日に何を作ろうかなぁって漠然と考えているのですが、とりあえず。家に帰ってから「今日は何を作ろうかなぁ」と冷蔵庫を見渡して。ご飯を炊くか炊かないかを決めます。そうして。お。今日はこの野菜が食べたいなぁ。って感じで決まったら料理を考えます。過去に作ったものならそのまま作り始め。味付けを変えたり、他の料理を見てみようかなぁって決めたら私は「みんなのきょうの料理をみて参考にします。

 

www.kyounoryouri.jp

 

ゲストがきた時には、ワインを飲みに来る人がほとんどなので。なんとなく今日のワインにはこの食材やら味付けやらが合うんじゃないかなぁとかも。そこそこ外さずに作れるようになってますし。なによりもゲストが来た方がたくさんご飯作れるし。普段食卓に並ばない料理を作れるので、ゲストより私が一番楽しんでいるっていうね。最近はイワシの煮付けがヒットでした。

 

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鯖より、秋刀魚より、美味しい気がしたよ。

 

しかしなんでそうなったのだろうかって。考えてみると。デザインの仕事をしている時に食材、料理の写真を自分で撮影することがあって。いろいろな料理本を買っていた時期があったんです。そうして家には月間の料理雑誌が溜まっていきまして。これだけ料理本があるのだから作ろうかなってなって。当時付き合っていた子や、友人がきたときに調子に乗って料理を作って振る舞い始めたんですよね。なんでも格好つけからですから。

 

特にその中でもきょうの料理ビギナーズには大変お世話になりまして。まあ初心者にやさしい、わかりやすいレシピでなんとも美味しく作れたんですよね。まあそれで本当に美味しいかどうかは別として、作った料理を食べてもらって「おいしい、おいしい」って食べてくれるのが嬉しくて。私はどんどん味をしめてしまったわけです。そこからはレシピはきょうの料理ビギナーズからよく選ぶようになりました。3年間くらい毎月買ってましたから。理研究家の方や、プロの講師の方のレシピもさることながら。TVで勢いのある研究家の人とか大好きなんですよね。レミ先生とか最高だと思うよ。

 

 

そんな私は少数派?らしくて、今はクックパッド先生が全盛なのでしょうか。恥ずかしながら私は使ったことがなくてですね。前に皆でおうちご飯を作ろうってなった時、調べるソースが私だけクックパッドじゃなかったっていうことがあって。なんとも隠れてレシピを見ていたものです。

 

 

こうして時間がある時に、ちょっと前までは英語を勉強しよう。資格を取る勉強をしよう。為になる本を読もう。なんてどれだけ時間を投資に回せるか〜って、意気込んでいたものですが。すっかりその毒気は抜けて行ってしまって。仕事を除いたら、ご飯を作るのが一番楽しいのです。いいか悪いかはよくわかりませんけど。それはそれで毎日を充実して丁寧に過ごしているような気もするし。人生のいいスパイスになってるから、まいっかってことで。

 

 

それでも健康管理には一役買っているようで、加工品を食べる機会はとっても少ないですし。バランスはいいか悪いかはわかりませんが、塩分摂取が少し多いかなぁくらいで、カラダに悪いものは比較的避けることができているように思います。なんかFBとかで「絶対に食べない方がいい添加物」みたいなリンクがフィードにながれてきて。しきりに不安を煽ってくるようですが、もともと食品会社に勤めていて多少知識はあるし、そもそも毎日自炊しているから気にする必要はありませんから。そもそも「食」に関心を持っている人が気にすればいい話で。食以外の関心を占めている人に無理に情報をシェアする必要ない気がしてならないとも思うのですが。

 

 

なんとも私のせま〜いせま〜い料理の話を書き連ねてしまって。どれくらいの人が興味わくのかしらというところと、俺は料理作れるぜアピールはいいからって感じだと思いますが。今こうやって楽しく毎日料理を作って、おいしくご飯を食べられるのも。昔買っていた料理本のおかげですし。そこから繋がっていることを考えると、無駄なことって本当にないなぁとしみじみ思います。あんましストレスがないのも、野菜ばっかり食べているからかもしれませんし。

 

 

毎日のご飯をちょっと工夫するだけで、元気と幸せがやってきます。季節感も感じます。そして毎日のご飯がおいしいだけで生きている実感と感謝に繋がっていきますよ。

 

明日は何作ろう。

思い出してみる

昨日の話。朝起きてカーテンを開けると、表一面が真っ白。予想どうりの雪模様で。朝からおうちにお籠り状態でした。まだ今年はスタッドレスに変えていないので。雪降る前にとガソリンスタンドやらスーパーやらと。買い出しに行っておいて正解だったようです。灯油を買いに行ったスタンドにはタイヤ交換をされている方が1台、2台、3台と次から次へと訪れているようでした。

 

 

ここしばらくは自分を探る旅に出ていて、少しずつですが自分を思い出してきています。いつもだと一人で本を読んでは物思いにふけっていることが多いのですが、ありがたいことにゲストがきたり、私が出向いたりする機会が続きまして、いろいろな人に話を聞いてもらったり、問いかけをしたりしてさらに深まってきました。思い出せば思い出すほどに、全然自分って変わっていないんですよね。だいぶ小さい頃から。それが良い、悪いではないのだけれど。

 

 

ちょっと前までは何かしらの診断を受けたりテストを受けたりして「ああ、そうなのね」と、ますます自分を知ったような気になっていたり。周囲の人にもワークを通じてやってもらったり。そんなことをしていたのですが。それでもまだまだ表面的な部分しかしらなかったようで。もう少しだけ深い部分がわかりかけています。

 

そうするとどうでしょうか。少し前まではマイナスに思えていた部分も、よく思えてくるというか。しっくりはまってくるというのでしょうか。

 

「これが自分なんだな」

 

ということに確信持てるようになってきました。だからといって必ず「これが自分です」という、こうであるべきとか、こうでなければならない。ということでもなく「これが自分なんだな」と思い描いた時に、否定の感情はなくなり、すこ〜しだけ肯定の感情が湧くといいますか、湧かないといいますか。結局なんなんだよってことなんですが、そんな感じなんです。はい。

 

 

さて、今日は久々に朝から畑に降り立つと、畑一面真っ白なのはもちろんなのですが。葡萄棚の上にも雪がたっぷりと。私の住んでいる地域より、ぶどう畑のある地域はより標高の高いこともあり、足が埋まるくらいに積もっていたそうで。休み前に仕事をしていたすもも畑は15cm〜20cmにも。さすがにやめようという話となりまして。仕方なく標高の低い別の畑の簡易剪定をすることなりました。朝は雪に埋もれ、とっても足が冷たいし、風も冷たいし厳しい感じでしたが(お肉がないので)太陽が高くなるにつれて、とてもポカポカ陽気で楽しく仕事をすることができました。

 

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 ポカポカ陽気も、お正月くらいの陽気だって。

 

今日は久々に仕事だったということで、スローペースで仕事をしながら話をしていたのですが。雪が積もったこともあって「あっという間に秋が過ぎてしまったね」なんて話をしては「寒いねぇ、寒いよねぇ」と返していたのですが。なんだかちょっとひっかかるのですよね。確かに言った通り秋は短いようにも思えるけれど。本当に秋って短いのでしょうか。短くなってしまったのでしょうか。

 


気象学だと ・・・・  9月〜11月

二十四節気だと ・・・ 8月6日〜11月6日 (立秋立冬

天文学だと ・・・・・ 秋分冬至

 

 

なんてことがちゃちゃっと調べるとあるわけです。私が思っている感覚とはちょっと違っていて、毎回調べるたびに、ん〜なんか違うなぁと思います。しかしなんでしょうか、それ以上によくわからないイベントの前倒しによってどんどん季節を味わうことができなくなっているのではないでしょうか。

 

今に始まったことではないのですが、直近の話で行きますと。

 

9月から始まるハロウィンから、終わった次の日からのクリスマスからの、お正月のコンボでしょうか。もしかするとイベントに興味がないことや、あまり好きではないって個人的なバイアスがあるのかもしれませんけど。なんか店頭でそういった飾りでも雰囲気を出されてしまうと、気持ちはそちらに向かっている。いや向かわされてしまって。イベントを通じてでしか季節を感じていない方もいるのかなぁと。季節って急にそこから変わるわけではないのに、イベントが終わるとスパって気持ちが切り替わってしまうようにも。

 

 

 

ありがたいことに、私は自然の中、畑で働いているおかげで仕事であるぶどうからはもちろん、野菜畑から、身近な植物から、周囲の山々から目、鼻、耳などから季節を感じることができますし。また、毎日料理をするので、自分で栽培したものから、スーパーの野菜や魚などを買って、おうちで調理をして食べるという流れからも季節感を味わうことができます。野菜を作っていると初収穫したものは「走り」だし、たくさん取れるようになると「旬」ですし、収量が落ちてくると「名残」を感じます(正式にはちがうのでしょうけど)

 

 

私は「自然の中に自分が存在していること」をここ数年で思い出したようなので、気取って言ってみれば「季節の中に自分が存在している」とも言えるかもしれません。なんと幸せなことでしょう。って思ってしまいます。

 

 

と、いろいろと書き連ねていますけど。結局のところ、一番の指標って暑い、寒いという「肌感覚」のようにも感じてしまって。寒いなぁって思ったらもう私は冬気分です。あしからず。

 

 

 

季節という枠の話をしているけれど、結局は目の前ではいろいろなことが起きているわけで。それって見て感じとろうとすれば、拾い上げられないほど受け取ることができるのに、多くの人が「一年はあっという間だよ」ということをそろそろ言い始めるわけですが(私はすでに言ってしまったかも)あっという間だからこそ、もう少し毎日を大切にしてほしい。大切にという言葉がいやらしく聞こえるなら、朝起きて窓を開けたときに、家を出るときでも、通勤中にでも。すこし深めに空気を吸い込んで、周囲の見渡してみてください。それだけでも忘れていた感覚を思い出させてくれるはずです。

まずは目の前の人から

今月前半には目まぐるしく動いてたイベントも無事終わり。山に戻ってきてからは、のんびりと畑の冬支度をしています。今年は何やら三年前?四年前?の大雪を想起させるような気候の流れがあるらしく。「ちゃんと準備はしておけよ〜」っていわれ。早めにスタッドレスに履き替えようかなぁととか思ったり。とりあえず寒くなってくると省エネ系のカラダには厳しく。万度のことながら戦々恐々としております。

 

さて今日は珍しく我が家にお客さんがいらっしゃいまして。というかお仕事というか、頼まれごとといいますか。やっぱり実際にお話をして、イメージを固めたり、方向性を共有してから筆を走らせたほうがいいなぁという話をしていたら「じゃあ行くよ」ってことになって。朝からおうちに寄って頂きまして、ああやら、こうやらと。イメージのすり合わせをしておりました。

 

そして、数時間打ち合わせをしたあとには。せっかくなのでワイナリーを回りましょうよ。なんて話になって。甲州市のぶどうの丘にいったり。そこからワイナリーを回りましょうかって話が進みまして。そうしたら1件目のワイナリーさんで、お飲み友達がちょうどカウンターに立っていたので、お願いしてたくさん試飲させていただいて(私はハンドルキーパー、ありゃりゃ〜と満足感が出てきてしまいまして。もう2軒くらい回るつもりだったのですが。

 

 

それなら、帰りに食材を買いに行ってもう家飲みにしちゃいますか!ってなって。バゲットと甘めの米粉パンをチョイスして、お昼から日が暮れるまで、何かを作っては飲んで、作って、飲んでのスタイルで。ベランダの窓を開け開いて午後のポカポカの日差しを背中に受けながらゆったりと過ごしておりました。やっぱり私はしつこいので、いろいろな診断めいたことをしたり、最近の地域の話とか好き放題だべりながら。

 

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 ダイヤモンド酒造さんのベイリーA

 

そういえば、なにやら地域活性化ってワードがなにやら力を失ってきているような話題が出まして、空き家だとか、ゲストハウスとか本を絡めたイベントとか。そんな話題がのぼったり。一部ではブームが終わったとかいってる人もいるみたいけど。多分そう言っている人の大変はブームだからという理由でなにかしら関わったり、みている人であって。どこかで「ブームは終わった」みたいなものをネットというかSNSとかで見つけてきて、「俺もそう思ったんだよ」なんて話をして。それをみただけでいっている人がほとんどだと思うんだよなぁとか私は思ったり。(というか私も趣味の領域でよくあるので)逆に、ある程度皆に許容され始めている証拠で、ゲストハウスは十分と言えるかわかりませんが、市民権を得ているのかもしれないね〜なんて。

 

 

 

 

まあ、こんな話をしているのもお酒が回るまでのお話で。あとはたわいのないことをだべっていたのですが。なんとも心地よい時間でして。お客さんを持てなすってやはり楽しいなぁと。エネルギーがわくなぁと感じたわけです。

 

「このワインはねぇ」から始まり。

「サラダは◯◯ワインに合うとおもうよ」

「苦味と苦味とか、柑橘系の香りが〜」

 

なんて知ったかしている話を聞いてもらって、作ったものを美味しい美味しいと食べてもらってって。とっても嬉しい嬉しい。9割以上は自己満足の領域なのですけど。それがまたいいんですよね。これもやはり聞き手のおかげなんですよね(うるさくてごめんなさい。)

 

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 偉そうに畑の仕立て方まで(ルミエールさんの垣根)

 

こうして、個人個人の人が自分のできることでも、得意なことでも、得意だと自分で思っていることでも。なんでもいいので、目の前の人に対して喜んでもらうことをするだけでも、良い循環が生まれると思うのですよね。そこに生じる良い循環ってとっても小さいのかもしれないし。別になにか大きなことをしなくてはいけないとか、皆を巻き込まなければいけないとか考えてしまいがちだけれど。身近な人を楽しませる、幸せにする人でありたいなぁと。

 

 

それが今度は大きな循環にもなるし。よく「◯◯の問題を解決するにはどうしたらいいか」とか「◯◯のいいとこ探しをしよう」とか見かけますけど。結局それって「今が悪い」ところから、マイナスからスタートしているように見えてしまってなりません。そうではなくて「今も満ち足りている」「もっと楽しくするには」って。それだけで向かう場所は変わるはずですし、始まりの場所がマイナス以外のところからスタートできそうな。

 

みんなが身近な人に対してちょっと何かをしてあげるだけで(させていただく)とっても良い芽が生まれるとおもうのですが。

 

 

ますます自分の内面へと、意識が向かってしまっている私はそう思いました。

(お酒がまた残っているからからかも)

 

 

しばらく、畑の往復、実家の往復をしていた私にはとっても充実したお休みでした。やはり人にあってお話をしているのが一番楽しいし、エネルギーをいただけますね。内面に向き合っているだけでは、広がりもなさそうですから(これは得意なんです私)そろそろ体を動かして、人に会いなさいよ〜ということのなのかもしれませんね。

 

 

 

さて、本日の明け方。日差しが出た頃に畑にいくと。良い感じで芽が出揃っていました。昨年は蒔く時期が遅く。今年も前に蒔いたものが長雨でやられてしまい3度目の正直。いい感じで年明けには収穫できそうです。

 

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食べ物の恨み

山から降りてきています。今週の中頃に身内のお祝い事があるということで、ありがたいことに今週はお休みをいただくことができました。早めに地元へと向かうことができたので、最終の打ち合わせやら、動画の仕上げやらでてんやわんやと動いていた私も。今日でようやく目処がついて。あとは当日を待つばかりとなりました。

 

 

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君は当日はお留守番なのよ。ごめんなさいね。

 

 

そうそう。地元へ向かう時にいつも通っている山梨と静岡を結ぶ、国道52号線をのんびり、のんびり下っていた時に久々に出くわしたんです。お猿さん。身延を通過するかしないかの山あいの道のガードレールに数匹。年に1、2度目撃することがありますが、こんな場所にもお猿さんが降りてきているのだなぁと思いつつ。今年の山には食べ物が少ないのだろうか・・・と、思いを巡らしなながらその後は運転しておりました。

 

 

それというのも。農作物を生産している人には身近な問題の「獣害」というワード。最近ではTVの特集が組まれることも増えてきているそうですが。私も実際にぶどう栽培に関わっている中で、山に面している畑では、シカ?ハクビシン?による食害が毎年のようにあります。ぶどうは収穫前に袋がけをするのですが。その袋を破って綺麗にぶどうの粒だけが食べられていて。軸だけが残っているようなこともしばしば。ぶどうは熟してくると、甘い芳香を放つので、動物さんたちにはわかるのでしょうね。私も腹ペコさんだったら多分同じことをしているかもですし。

 

 

 

サルカニ合戦。覚えていますか。一度は聞いたり見たりしたことがある童話昔話。かにさんのおにぎりをずる賢いお猿さんにお口に騙されておにぎりを柿の種と交換することからはじまり。そこから種を植えて水をやっては

 

「早く芽を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょんぎるぞ。」

 

って。半分脅しのような言葉を浴びせ続けると芽が出てきて。さらに歌うとどんどん成長して、木になり実をつけると。

 

そうしたらかにさんは木に登れなくて、困っていたところに、ちょうど見計らったようにお猿さんがでてきて「とってあげるよ」って。そうしたら自分は熟した実を食べて、かにさんたちには青い実を投げつける暴挙に出て、その後、かにの子供達と栗、蜂、牛の糞、臼に懲らしめられるという。「因果応報」のお話。

 

なんとも食べ物の恨みは恐ろしいとはまさにこのことですよね。

 

 

 

nihon.syoukoukai.com

 

 

 

当事者だとよくわかります。芽が出る前から肥料をやって、剪定からはじまり。一房一房手をかけて。いざ収穫となったところで美味しいところだけ動物に食べられてしまうわけですから。俗に言う「手間暇かけたものを・・・」と落胆とともに怒りすら湧いてきます。生活もかかっているわけですから。

 

 

近くに人の気がない場所だと。当たり前のように動物が現れます。そして畑には、電柵、ネット、ワイヤーなどで農作物を守っている光景が当たり前になってきています。その光景をみれば、ああ◯◯から農作物を守っているのだなぁと、だいたいわかります。私の地域では実際に食害などにあってしまった例を聞いてみますと。クマ、シカ、サル、イノシシ、ハクビシン・・・。私の知らないだけで他にも多く被害があるのかもしれませんが。

 

 

実際に農林水産省が出している統計もあったりして。

 

農林水産省/全国の野生鳥獣による農作物被害状況について(平成25年度)

 

http://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/h_zyokyo2/h25/pdf/150123_c.pdf

おっ。

アライグマ?マングース?も統計に入っているんだと初めて知りましたが。

 

 

野菜類に並んで、果樹。相当な被害がでています。

 

ぶどうは果樹なので、果樹の部分をみてみると(被害額)

 

上から・・・

 

イノシシ   114,079 

カラス    94,655

サル     44,846

シカ     39,897

ムクドリ   23,066

ハクビシン  22,378

      (万円)

 

イノシシさんすごいですね。時々畑から家に帰る時に親子ずれが県道を普通にダッシュして横断している姿を何度か見かけたことがあります。葡萄では日本では棚栽培がほとんどなので、イノシシの害は少ないとは思いますが・・・。

 

http://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/h_zyokyo2/h25/pdf/150123_e.pdf

 

被害の推移をみると、年々減少傾向ではあるようです。もしかすると、何かしらの対策を人間がとったかもしれないし、動物達の生息域での変動がよい傾向なのかもと想像いたしますが。

 

こうした現状を目の当たりにした時に。あなたはどう思いますか?

 

動物を駆除しなければならないと思う人もいるかもしれないし。

いやいやそんなのは人間のエゴだよ。人間の都合で動物を駆除するなんてけしからんという人もいるか。

 

いい悪いということはないのですが。

 

 

 

私は駆除しないと・・・ってならなければいけない?側なのかもしれませんが。普段お家では自然のドキュメンタリーを好んで流していて。なかなかそうは思えないのです。

 

bbcearthjapan.jp

 

 

最近見た中では、地球温暖化によって北極の氷が溶けてしまい。シロクマが災難になっているとの話をみました。シロクマは雪の上にのって、アザラシなどを狩るそうです。しかし近年では夏に近づくとシロクマを支えるほどの氷はないので、自由に動けないと。なので、この時期に狩るはずのアザラシを追うことができないって。そうして最近のシロクマは氷の上を歩けないので、泳ぐしかなく。泳ぐことが上手くなったと。しかし食べ物はなかなかみつからない。仕方なく陸に集団でいる危険なセイウチの群れに目をつけて、セイウチの子供を狙うのですが、返り討ちにあってしまい。歩くこともままならず・・・。そのシロクマは年を越すことができないだろうと。

 

 

果たしてこれは誰のせいなのでしょうか。

 

 

このシロクマさんには氷が溶けてしまって大変だ、困ったと感じているかもしれませんが。温暖化のこと理解できません。もし原因が人間のせいだったと(仮定)しても。それをしるすべはありません。訴えることができません。知らないということは人のせいにはできないし、そんなことを言っている時間はありません。その時その時の環境に順応するしかないのです。

 

 

結局、権利を主張しているのは人間だけ。主張をできるのは人間だけ。だから◯◯のせいにできるのは人間だけで。それはそれで、なんとも恵まれてるとも思ってしまったのです。なんだかんだ、厳しい、大変とか多く場所で耳にしますけど。少なくとも日本に住んでいるのであれば、大半の人は選択したことは実行できるし、選択をしないという選択を今できている現状をみているだけでも恵まれているなぁと。

 

 

いつもどおり、いったりきたりのよくわからないことを書いておりますが。動物たちと共生していくという言葉がとっても人間視点だなぁと感じてしまういます。当の私も動物たちからみたら「お前も人間だろ」っていわるのでしょうけど。

 

 

秋に植えた蕪は、若芽を虫に食べられてしまい難しそう。でももうそこには食べていった虫の姿はありません。まだ間に合うと聞いて、もう一度植え直しました。悲しんでいても、怒っても蕪は生えてきませんから。