たどうたどたどしい
今日は最近気になってる発達障害のお話。
発達障害って遠い話のように感じていたのだけれど、ここ数年で発達障害とはなんなのかってことに興味が湧いてきています。数年前にあるきっかけで気になり始めているのだけれど。
「ちょっと多動があると思うよ」
そう「多動」というワードです。
そう言われた時には、なんだか妙に納得した気がします。だってね、ご飯食べる時も本を読んでいる時も、横になっている時も、何もしていない時もずっと揺れているのですよ。貧乏ゆすりがすごいのです。気になる人には気になるらしくて、揺れている足を足をですねガッと掴まれて、指摘されることもしばしば・・・。やっぱり多動か・・・。
って。それは認識違いで、多動ってそういうことではないみたいなんですがw
話が逸れました・・・
正直、「障害」ってワードが後に続くイメージがあったので心配になりましたが、誰しもその傾向があるという話を本で読んだり、周りから聞いたりして不安はなくなっていって、まあそれも個性だよねって、いつのまにか消化されていったようです。
そこからしばらくはあまり耳にする機会がなかったのだけれど、ふとした時に「発達障害」ってワードが、会社の方との会話の中でふと出てきたので、いい機会かなって思って、理解を深めるために今のところ3、4冊くらい読んだり、読み途中な感じで横に広げています。
ですので、ちょっとかじっているだけなので理解の途中です。
そうしていると不思議ですね。本屋に言っても意識的にそういった本が目に入るのです。それも「今話題の本」のコーナーで。ちょうど待ち合わせの時間合わせで気になっていた一冊を手に取るところから始まり、ああ、Kindleで朝がしてみようってなって、やっぱりあったので購入してみました。
いろいろな学びがあったのですが、特に気になったのは
「察することができない」
「空気を読めない」
って言葉で片付けられてしまう場合の例でした。オフレコの話や、無礼講の場で話をした内容を真に受けてしまう、周囲に話をしてしまう。自分が正しいことをやっているはずなのに、うまくいかない。といった人物の例があげられていたことでしょうか。
あとは、指示されたことが
「なんとなく」
「その時の場に応じて」
「感覚に合わせて」
といった事柄にたいして、自分でさじ加減を決めることができない。理解し辛いといった部分だとか。そもそもが私のように適当で、曖昧な教え方にも原因がありそうにも感じてしまいましたがw
別に障害とは言っていないけれど、身近なところであれも、これもって例がたくさん載っていて、普通の人、正常な人がいなくなっちゃうじゃん。なんて。
しかし「普通」「正常」って、結局のところ誰が決めたのよってなって、勝手に作り上げられている幻想なような気もしてきて、ああ、これも個性よねってところに落ち着いて行くから不思議です。まあみんな凸凹していて、それがいろんな形があるんだよってところで、その凸凹がピタッとはまる場所もあるし、なかなかしっくりこない場面もあるのだから、うまくはまる場所を見つければ、なんの問題もないのでしょう。
本の中でも、発達障害が隠れてしまう例があって。なんども周囲から指摘されたり、注意されたり、失敗をして学んでいった結果、順応していき目立たなくなる例や。たまたま学校や就職した場所が自分の気性・特性にあっていて難を感じない例とかがあって、環境の変化が起こらない限り、そのまま生活できてしまう例もあるようです。
「うまくいかない」
「生きづらさを感じる」
そんな場面に出会った時は、自分を見つめ直す。自分をもっと深く知る時期を与えてくれているのかもしれません。
そう思える自分に感謝をしなければ。
とりあえず、今読み終わりそうなのと、途中の本たち。
気になる物があれば。ぜひぜひ。