ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

山をおりる日

お世話になった山梨から離れました。

 

怪我の影響もあります。怪我をしたから仕方なくと言ったら聞こえはいいけれど。なにより気持ちを取り戻すことができませんでした。

 

昨日最後の片付けを終えて四年と少しお世話になった、雇用促進住宅を明け渡しました。

 

古くて、お湯が出なくて、シャワーがなくて電気を消すスイッチもないようなお部屋。はじめて見たときには住むことに躊躇していたのですが、一人で住むにはとっても広くて、収納もたくさんあるお部屋。ぽつんの六畳のお部屋に置かれた四人掛けのテーブルでおいしいお酒と料理を並べながら、いろいろ食べて、話してと楽しい時間をいっぱい過ごしました。引越しの片付けをしているだけでも寂しかったのですが、テーブルを解体して運び出した後が一番寂しかったかな。

 

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いろいろありました。

 

山梨にいた時間は本当に幸せな毎日だったと思います。毎日朝早くに野菜畑に向かって、水やりと手入れをして。そこからぶどう畑に行って農作業をして、仕事終わりにまた別の野菜畑のお世話をして帰路につくという毎日。繁忙期にはとても作業量が多くて、大変な時期もあるのだけれど。全然嫌になることはありませんでした。パートナーに作ってもらった、特製のおむすびをもたせてくれた時は本当に嬉しくて、お仕事のことよりも早くお昼にならないかなぁと、待ちわびながらお仕事をしました。お家でご飯を作って待っていてくれる時は、なんとも幸せな時間でした。

 

いろいろな出会いもありました。初めは山梨に友人がいなくて。いろいろなところに出向いて行って、動いた結果なのか北から南まで北海道の方から九州の方までたくさんの方と知り合う機会に恵まれました。それで不思議なことに最後に山梨県内の知人が増えていくことに。住んでいた集合住宅でも多くの気の合う仲間に恵まれたことはとてもありがたかったなぁと。いつもお酒の席では、調子に乗って喋ってばかりおりましたがお許しいただければ幸いです。 

 

山梨に行ってからの農業の歩みと心の変化をに少し振り返ってみます。 

 

山梨にいく前は自分で選択をしたことのない、他責の人でした

考えてみると、本当に情けないかぎりでして。自分で選んでこなかったから責任は自分にないし、自分で何かをしようという気持ちにもなりませんでした。当時はやる気がわかなくてとか、熱意がなくてなんてことを散々言っていたけれど、自分の人生に責任を持っていないからそうなるのは当然だったように思います。

山梨に行ってすぐの時には、自立するためにもがいていました。

山梨に行ってからはぶどう栽培に関わって、一年ということもあって。なかなか思うように仕事をこなすこともできないし、毎日が一生懸命。だけど結構自立しているような気になって、なんだか偉そうだったなぁなんて。なんだか自由を手にした気になって、自分のことをばかり考えている人の気持ちがわからないただの放漫な偉そうな人間でした。

しばらくすると、自分の居場所ができました。

しばらくはひたすら自分と向き合う時間でした。自分はぶどう農家としてどうしていこうか、どうやって生きていこうかをひたすら考えていました。なんだかんだでノープランな私だったので、まずはぶどうの栽培を継続することから。そこから地域の農家やワイナリーの方と知り合う機会に恵まれて少しずつですが、こうやっていけたらいいな。こうしていこう!という目標が形成されていきました。 

自分で独立してやっていけそうだ

2年ほどシーズンを通してぶどう栽培に関わることで、こうしていけば農家としてやっていけるであろうという自信が生まれてきて、独立へ向けてさまざまな研修を受けました。県が行っている各種研修を通じて、栽培だけでなく経営についても学ぶことができたりと夢が膨らみます。

 

パートナー出会ったのもこの時期。なんとも頭でっかちで、どうしようもない私に自分が世間知らずであることや、至らないことがたくさんあることを教えてくれました。そうして自分の弱さをようやく認識することができました。時には厳しいこともあったけれど。どんなときでも支えてくれて徐々に変わっていくことができたように思えます。

独立に向けて歩き出す

農業委員会さんに申請をしてからしばらく間が空いておりましたが、ようやく畑を借りる目処がつきました。自分の畑をもってスタートできるところまできました。念願だったワイン用のぶどうの苗も手に入れることができて、一帯を任せていただけることになったので、実際に耕作放棄地を耕して、支柱を植える場所を計測し、ユンボを使って穴を掘って。数十本の苗を定植して。わくわくドキドキでした。

 

と。私のぶどうの歩みはここでストップ。数日後に怪我をしてしまいました。

 

sasariki.hatenablog.com

 

静岡から山梨へ行くときに、地元の友達には私はこう言っていました。

 

「うまくいかなかったら、泣きながら逃げ帰ってくるから」

 

実際に山梨に行ったときにはどう思ったかといえば、今までデスクワークをしてきたので、肉体労働が耐えられなくて嫌になって帰ってきてしまうかもしれない・・・。そんなところから初めて、一年、二年、三年、四年と継続することができました。

 

ここまで好きなことができたのは、好きにさせていただいたのは、多くの方に応援していただいたからこそ、ここまで続けることができました。本当にありがとうございました。

 

また怪我をしてから、多くの方に力をもらいました。パートナーには本当に心配をかけてしまいました。自分がもうこれ以上よくならないかもしれないと思うたびに、もっと曲がる!元に戻る!と弱音を吐きそうな私に喝を入れて、リハビリにのぞませてくれました。農業へ戻れるようにと治療に、リハビリと尽力していただいた先生達。また多く方に励ましをいただきました。本当に心強かったです。

 

来春には体の中に入っているプレートやボルトを抜ける見通しが立ってきました。肘については可動域が良くなるように、靭帯の手術にのぞみます。もう一度リハビリになりますが、もうリハビリへ耐性は結構付いているので大丈夫なはず。少しでも良くなるようにもう一踏ん張りがんばります。

 

静岡に逃げ帰ってしまった私ですが、山梨に顔を出しにいきます。

またお手柔らかにお相手いただければ幸いです。

 

ありがとうございました。