ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

となりのおじいさん

「毎日することがないでしょう」

「入院していると暇だよね」

「周りの人がおじいさんおばあさんだから大変だね」

 

病院のスタッフ、患者さんにこんなことをいわれておりましたけれど。

 

意外とそんなことはなくって、ありがたいことに同じ病室の方が良い方ばかり。たくさんお話をする機会がありました。意気投合までいけたかはわかりませんが。毎日コーヒーをご馳走して頂いたり。毎朝一緒に6:30からのラジオ体操を一緒にやったり。リハビリの送り迎えをしたり。山梨から静岡へパソコン持ってきてもらってからは、指先は普通に動くので同室のおじいちゃんのイラストを描いてみたり、担当してくれたリハビリの先生などのイラストを描いておりました。

 

静岡の病院で仲良くさせていただいたおじいさんはとっても面白い人。大正12年生まれの94歳。昔の話をたくさん聞かせていただきました。始め同じ病室になったときに世間話をしていて。年齢や出た学校の話をしていたら。

 

「おらの孫と同い年で、同じ学校じゃないか」

 

となんだか不思議な縁があって。そこから一気に打ち解けていきました。

 

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今の静岡市になるまでのお話。今はだれも泳ごうとは思わない地元の巴川ちびまる子ちゃんにでてくる川)にはフナやうなぎやらエビやらなんでも採ることができるきれいな川だったそうで、当然ながら子供の頃にみんなで泳いだりしたそうです。昔は水泳の授業なんてものはなかったから、地元の池で、年上のお兄ちゃんに泳ぎを教わっていたそうです。小学校の時には、電話やベルなんかものはないから通学の際に、友達の家の外から大きな声を出すとか。自分たちの家で作った野菜を手押し車に乗せて、舗装されていない道をがたごとしながら集荷場にもっていたとか。

 

戦争のお話。ご自身は船に乗って樺太のあたりまで護衛船に乗っていったことがあると。その時にはとっても水が貴重だったので。小さいタライ一杯の水で歯を磨いたり。顔や体を拭いて洗っていたと。長いと2ヶ月くらいお風呂に入ることができなかったそうで。港に船をつけた時には。皆で背中をこすり合って垢を取っていたよと。

 

あとは海軍にいたときの体操。「海軍体操」なるものがあって、そのなかの天突き体操というものを教えてもらったり。簡単に言うと。スクワットと腕上げを足したようなもの。

 

指導官 「天突き体操始め!!」

隊 員 「よいしょ〜。よいしょ〜」

 

と皆で大きな声で掛け合いながら。教えていただいたときにおじいさんが声を出すのですが。その声がなんとも大きいこと。声が小さかったり、ちんたらやっていると指導がはいるとか、入らないとか。

 

23歳のときに終戦を迎えたそうですが。そのとき周りの友達と抱き合って泣いたことを覚えているそうです。そのときにおじいさんはこう思ったそうです。

 

「自分は今日生まれ変わったんだ。だから今日から新しい人生の始まりだ」

「だから自分は今94歳だけれど。生まれ変わったから71歳なんだ」

 

 「自分は生き残ることができて。長生きすることができている。だからみんなの分も生きていかなけばならないんだ」

 

このお話を聞いたとき。心打たれるものがありました。

 

 

今回病院に入院してみてまず第一に思ったのは。患者さんのほとんどがご高齢の方だったということ。限られた病棟内のお話ですが、私より年齢が若い方は山梨の病院で二人いたかいないかというところ。静岡のリハビリ病院の回復期の病棟では、入院した当時私の次に若い方が60歳前半の方でした。入院されている方の8、9割が女性の方。またその女性の中の8、9割の方が膝から大腿骨、腰周りの怪我をされてリハビリをしているということでした。なんだか社会の縮図を見ているよう。医療費を含めていろいろな税金が高くなるとかならないとかそんな話を見聞きするけれど。実際に中長期入院してみて実感としてなんだか理由がわかった気がしました。

 

時折、福祉、年金や医療費など。ご高齢の方に対して風当たりが強いニュースや話題が上がることがあるけれど。今の自分たちが平和な日本で生活できていることを思うと、先人の方々にもっともっと感謝をしなければと。

 

 

さてさて。今日はそのおじいさんとランチのお約束があります。数ヶ月同じ病室で過ごしただけだけれど。こうして退院後にも交流をすることができるのはとっても幸せなことです。

 

ちなみに食べにいくのはとんかつさん。おじいさんはお魚が苦手で。入院しているとき。こっそりおじいさんのお魚を私が食べてあげたのは内緒です。