ほんとうのありがとう
山梨もようやく?悪あがき?なのか、ほんの少しだけ梅雨っぽい気候が続いた週でした。この時期は一生懸命に摘粒を引き続き行っています。摘粒作業は粒抜きとも言われていて。これまでの作業でなんとなくぶどうのイメージである逆三角形に近づいてきているのですが、最後に適度に粒を抜いて仕上げていくことになります。この作業が適正に行われないと、スカスカの房、おしくらまんじゅうしてトウモロコシのようになってしまったり。胴長でなんとももっさりした房になってしまったり。とっても商品性を高めるために必要な作業なのです。なかなか集中力のいる大変な作業ではありますが。この時点で形が見えてくるので、期待を込めながら一粒一粒ハサミで抜く作業は幸せな時間なのかもしれません。
つぶぬきつぶぬき。
皆さんは「ありがとう」って言っていますか。
小さなことですが、買い物でレジを通って会計を済ませて、店員さんに「ありがとうございました」と言われたあとに「ありがとう」と言って、レシートやお釣りをうけとるようにしています。それは別に自分の人格が優れているとかではなく。好きな著者さんが書いているある本の中で
むすっとして会計をする時、お金を払う時もニコニコしてありがとうと言って会計をする時には、明らかに後者の方が気持ちがよいし、お金がきれいに循環していくんだよ
その内容を目にしてから、自分は日常の中なかでありがとうって普段言わないよな。これまでも言ってこなかった。それでも会計をする時くらいなら自分もありがとうって言えるなって。そんなことを思って、そのまま受け売りで挨拶が少しずつできるようになっていきました。
だいぶ前からなのかもしれませんが、個人商店さん、各専門店さんが減り、スーパーやショッピングセンターで日常を済ませることが当たりまえの世の中になっていることもコミュニケーションが深まらない理由にあるのかもしれませんが。
そうやって、少しずつ自分が日常の中でありがとうと言えるようになってくると、気恥ずかしさはなくなり。抵抗なく言えるようになっていくものです。普通に対面のやり取りでも、ラインなどの文章のやり取りでもできていく。昔に比べれば格段の進歩といえるくらいに。
「ありがとう」
「生きているありがとう」と「魂のないありがとう」があって。
自分は知らぬ間に魂の入っていない「ありがとう」が多くなっていたようなのです。
何々をしてくれてありがとう。助けてくれてありがとう。何かをしてもらってありがとうという時。私は相手に対してよりも、その「行為」に対してありがとうと思えていなかったのかもしれないなぁと。普段から多くのことに対して、「本当にありがたいなぁ」そう思えているのであれば、自然と行動にもつながっていく「ありがとう」の一言が生きてくるのかもしれません。
そうやってありがたいなぁと思う気持ちが気づけると。パートナー、ぶどうの師匠、野菜の師匠、畑の仲間、家族、友人、隣人、関わってくれる全ての人たちに感謝の念が湧いてきます。普段身近なひとに対してありがたいなぁという気持ちがいつの間にか消えていた私は、それが表に出てきてしまっていたようです。
たまたま今は少しばかし病にかかっているのですが。それを知った家族からはすぐに連絡がきます。
本当に心配してくれてる人がいるんです。何回も「大丈夫か〜」「大丈夫か〜」と毎日のように連絡がくると「大丈夫だってば」となってしまうけれど。気にもならなければそうやってマメに連絡がくるわけでないんです。本当にありがとう。
このことに気付く機会を与えてくれたパートナーにありがとう。
いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。
買い物をしてきてくれてありがとう。
いつも片付かない、散らかっているお部屋を掃除してくれてありがとう。
洗濯をこまめにしてくれてありがとう。
お弁当を作ってくれてありがとう。
愛してくれてありがとう。
このほかの多くのことにありがとう。
どれだけ自分が助けられているか、愛情に包まれているか。与えられてばかりではなく、多くのものを与えるひとになります。
さてさて。畑の方はぐんぐん成長して、楽しみが増える一方。ぐんぐん雑草も伸びていたようで、午前中はパートナーに手伝ってもらい一生懸命に雑草を抜いてきました。今日のメインはじゃがいも畑の雑草を抜いてきたのですが、大物がたくさんたくさん。帰りに雑草を一箇所に集めてくると山になるくらいに。ちょうど先週末から雨が降り出していたので、作物にはもちろん、その他に生きている草花にも恵みの雨だったのでしょう。それだけたくさん雑草が伸びるということは、地面に栄養がたくさんあるようにも素人から見えるので。生きている証拠ですよね。みんな一生懸命生きているのですよね。
昨日は一回のおばあちゃんに桃を頂きました。
ありがとう。