ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

癒されにやってくる

いつの間にか厳しい冬はあっという間に過ぎていきました。日もどんどん長くなり、なんだか心なしか春がすぐそこまできているような。そんなことも畑で作業をしていると体感覚で感じることができます。前年の末から始まった剪定作業も一息つきまして。毎日畑を耕運機やトラクターで土をかき回しています。いつも以上にのんびりした作業なのですが、作業後に耕起された畑が耕される様子を見ているだけで、なんだか嬉しい気持ちになってもきます。

 

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かき回すのは楽しいよ。

 

最近はありがたいことに良きことがたくさん続いています。よきパートナーに巡りあえたり、デザインのお話をいただいたり、妹が無事に出産できたこと、久々に東京にでむいて静岡時代の友人。同郷の尊敬する友人ともお酒を酌み交わせましたし、新しい縁にも恵まれているようです。まるで去年までの閉塞感は何処へやらといった感じです。こうした気持ちになるのも、おぼろげながらその閉塞感のなかで自分を見つめ直している機会があったから一入に感じます。そうそうワインセラーも新しくなってしまったし。

 

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おむすびも、ただただおいしい。

 

自分を見つめ直す。結局、この問いはどこに向かっていくのかというと、自分は何のために生まれてきたのだろうか。何をしにやってきたのだろうか。そんな考えても考えても深みにはまっていきそうな事柄に最終的にたどり着くんです。やりたいことがないのも、なんか毎日がつまらないのも、仕事がうまくいかないのも。そこから徐々に派生していくのは結局そこ。そこから深く入っていくとここにたどり着きました。

 

 

人生は魂の修行の場所

 

 

ここについては私が語るまでもないので、興味ある方は紐解いて行っていただければと思うのですが。私自身として、そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。でもよくよく考えるとそうかもしれないなぁという感じで受け取っています。少しでもそうかもしれないって思えた瞬間から、あの時の大変だったこと、苦労したこと、悔しくて、悲しくて泣いたこと。それら全てに意味があったように思えます。

 

 

そうすると、今起きている目の前のことに意味を見いだすことができます。受け入れることができます。ただ目の前に巡ってきた事柄に対して、快不快、良い悪い。そんな気持ちの壁を介さずに、まず素直に受け入れることができます。そうすると目の前に起こっていることには意味があるのですから、自らの成長の糧にすることができます。と、私はちょっとスピリチュアルな感じが部分があるので普通に感じているのかもしれませんが。

 

 

そうそう。神秘十字?

 

友人の彼女さんに手相を見てもらった時に、なんかあるみたいなんですよね。ご先祖様に守られているとかいないとか。精神世界と相性がいいとかなんとか。おばばちゃんだといいなぁ。

 

 

・・・と話がそれました。

 

 

ここまでは、ありきたりに本を読んでいることを、消化不良のまま自分のことのように話しているだけのようにも思えるのですが。なんとなく自分のなかで見えてきたものがあります。なんで生まれてきたのか。

 

癒し、癒されにやってきたかな。

 

なんかそう感じることが多くなっています。

 

ある人は、生まれてきた時。親を選べないといいます。

またある人は、私たちは親を選んで生まれてきたともいいます。

 

 

生まれてきた時から親の元を離れるまで。それまでは癒す側にいると思うのです。

だから親元を離れるのが遅いのも、早いのがあるのもなんだかわかる気がします。

離れられないのではなくて、他に理由があるのかもしれません。

 

 

離れた後は、今度は自分が癒される側へ。

 

でもそちら側へ行くのはなかなか難しい。だから迷ってしまう。手を差し伸べられても素直に癒されことができない。認めなくないから。

 

それは自分も知らないような、知らぬ間に受け取っていた負債というか、業というかわかりませんが。気付かないんですよね。時折不安になったり、突然恐怖に襲われて逃げてしまったり。どうもうまくいかない。でもそれは自分が弱いからとか、意気地が無いからとかいったように解釈され、周りから頑張れとか、克服しろという圧をかけられたりして、結局は我慢の方向に進むこともしばしば。

 

 

でも、実はそういった負の気持ちになる機会というのは気づきのチャンスだったりもする。だからよくよく考えてみると負の感情が何度も湧いてくるというのは、それを癒すタイミングでもありそうです。だって何度も繰り返していれば、これはなにか他に理由があるのかもしれない。って、思う機会が増えますから。

 

 

子どもの頃学校の階段というなんとも恐ろしい映画を観に行ったのですが、もう怖すぎて顔を覆い隠すのですが気になって指の隙間から見ているんです。だって気になるから。クマヒゲさんとか、むらさきババアとか。その話はいいとして、顔を覆い隠した手の指の隙間からでもいいから、少しだけ覗いてみればいいんです自分の内側を。覗いてしまえばこちらもの。気になってしまえばいい。(ちょっと強引かもw)

 

 

ありがたいことに、私にはそれを気付かせてくれる人が身近にも、少し離れたところにも、遠くにも。嬉しくなっちゃいますね。時には普通に話をしながら、時にはふんわりと。時には厳しく。たびたび苦しくなったり、悲しくなったりすることも多くあるけれど。それは初めだけで、隠れていた自分を思い出すようになってきます。そんなことを繰り返していくうちに、顔にも笑顔と明るさが戻って行っているようです。なにせ行きつけのお店とかで「いつもはこんな感じではないんですよ」雰囲気が違うと多くの場所で言われるので、きっとそうなのでしょう。

 

 

人生は癒しの旅なのかもしれません。

また変わるかもしれないけれど。

少なくとも今の私はそう思います。

 

 

そんな明日は大切な人の誕生日です。

小さくお祝いしながら眠りにつきます。