ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

真実はどこ。

一足先に昨日忘年会がありまして。午後の早い時間帯から飲み始め。あまり普段は頂かない日本酒を飲みながらまったりしておりました。正直にいうと日本酒はあまり好んで頂かないのですが、ありがたくおちょこがなくなると、自動的に注がれるのでその流れに沿いながらいただいていたんです。過去に日本酒をいただいた後での失敗談が何度かあって、次の日は厳しいかなぁと思って身構えていたのですが。そこまで残ることもなく。いい感じ。

 

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七賢の直営店でどっぷり。

 

野菜、お肉、お魚。生物、焼き物と口に運んでは、ちょこっと日本酒をいただくことを繰り返していると。なんとなく素人なりにも良さが分かってくるものですね。この組み合わせはとても合うなぁと思ったり、これはちょっと違うかなぁと。自分なりの飲み方ができてきます。それだけいいものをいただいたのかもしれませんが、食わず嫌いっていうものはやっぱりあって。たまには選択肢として日本酒もいいのかもしれないなぁと感じました。

 

 

さて、今年は特に?メディアが騒がしい昨今でありまして。友人と話をしたりするときに耳に入ってくるのですが。まあなんでしょうか、何かと気になってしまって、人それぞれに湧いてくる感情もあるとは思いますけど。なんといいますか、知りたい知りたいという「知的好奇心」の方向性がなんかそちらに向いていってしまって、何も考えないでいるとどんどん関心の輪が大きくなってしまっているなぁと感じています。

 

 

今や気軽にグーグル先生で検索さえすれば、どんなことでも情報が手に入るなんてことも聞いたことがありますが、それがかえって「検索してもわからないもの」が出てきてしまうと、なんとかしてそれを知ろうと欲求と、わからないものへの恐怖に似た感情がでてきて。「真実が知りたい」ってことにつながっていのだろうなぁって。そこで自分の想像していた「真実」と同じであれば安心するし。異なる「真実」だった場合に至っては、信じていたのに。ってなる。そうして「真実」には良いも悪いもないはずなのに、怒りや、傷つくということを自分で選択して一喜一憂すると。

 

 

私自身の経験からも、大人になってから知る「真実」ってあって。家族の知らなかった事を不意に知る事になったり。友人とあの時、あの頃の話をしたりした時に初めて知る事もちょくちょくあるけれど。それは自ら知りたいという欲求からではない分、そこに意味付けをせず「そうだったんだな」と素直に受け入れる事ができているようにも(これも内容や人によると思いますが)

 

 

他にも似たような?ことがあって、前職で食品関係のお仕事でしたので関心があってそこそこ勉強をしていたのですが。数年前からあるよくわからないけれども安心安全という神話。どこかの誰かが作った「安心・安全」を探してきて◯◯だから「安心・安全」だよって、自分で試したこともないのに妄信してきて、その「安心・安全」が崩れたときに「どうしてくれるんだ」ってなることとか。ここにもその選択をとった自分の責任を曖昧にしている部分がありそう。

 

 

知りたい知りたい!という欲には、内と外があって。外に関心が向けば向くほどに、内へと向かう意識から遠ざかっていく。言い方を変えれば内にある部分が見えなくなってきてしまう。それは普段から感じている将来への不安、日常でのストレスのようなものから遠ざけてくれるので、いい隠れ蓑になっているようにも思えて

 

 

でも、実は自分の内面へと意識を向けていくと、不安というものはかわらないけれども、よくわからない「見えない不安」から、認識できる「見える不安」にはなるので、その不安とうまく付き合えることができると。共存することもできるし、何かしらの手は打つことも選べる。その違いはとっても大きいなぁって。(私は内面へ進み過ぎちゃってる感がありますが)やっぱり私も何かしら調べたりチェックはしているわけでして。FBとInstagramは常日頃触っているので、なんとも私の関心の輪も大きめ大きめで引っ張られていること(ごめんなさい)

 

 

こんなことを書いているのも。最近は仕事をしながら阿闍梨さんの話を聞きながら仕事をしていて。その中でその阿闍梨さんの師匠が言っていた言葉がありまして。

 

 

ムダなことなどひとつもない

ムダなことなどひとつもない

 

 

 

 

「賢(かしこ)バカ」になってはいけないよ

 

みんな、知識を持っていて、頭で計算をして、わかっているつもりでいるけれど、いざ行動!となるとできないんだな。そういうのを、うちのお師匠さんから教わったけど、『賢バカ』って言うんだと思うよ

 

 

 

なんとも私は「賢バカ」だよなぁと思って、粛々とぶどうの枝を切っているのですが。何かしらの外からきた情報に対して、ああでもない、こうでもない。こうするべきだ。私ならそうするのになんでそうしないんだ。何て反応ばかりしたらまさに言葉通りの「賢バカ」になってしまうようなぁとも。

 

 

悪い事象に、良き事象と思うことに出会った時には、それを先生として。自らを省み、行動できる人へと向かいたいものです。