ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

かぞくを顧みる

しばらく山を降りていました。それも数日間。野菜畑を充実させていくとともに、どうしても様子が気になってしまい、降りる回数と時間が減っています。なので、いつも一泊だけして山へとんぼ返りばかり。戻ってもなかなか休まらないし、友人にお誘いを受けてもなかなかお伺い出来ないというのがなんとも申し訳ないのですが、そのかわり?私がほどほどに手間を愛情をかけて作った野菜を朝摘みとかしちゃったりして、それを家族やら友人やらに食べてもらったりして。今の所それが好評をいただいている(ように私からは見える)ので、まあ差し引きすればちょうど中間で推移していて。うまく回っているのかなと。

 

f:id:riki-yan:20160816232500j:plain

 子供の成長は早いよ。

 

 

今回は、前から夏にやろうやろうと。お誘いをいただいていた、親友?悪友?腐れ縁?とか、いろいろ表現ができる、中学から十数年来の知己のお宅へとお邪魔してきました。前回お邪魔したのはちょうど2年前だったようで。今や娘さんは小学校の高学年で、普通にお話もできちゃうし。なんだか友人の若い姿がお子さんの姿に重なって見えたりと。時の流れを感じずには入れませんでした。それでも、話し方、しぐさは昔のままだったりと。時の流れでは変わることのない部分もたくさん垣間見れました。こうして「楽しかったです」ってここで書いているわけですが、その分友人の奥方様にはいつもいつも、準備をしたり、片付けをしたりとお手間をかけっぱなしなわけで。ますます頭が下がる一方です。「もっとあなたは感謝をしなさいよ」と。密かにここでいっておきます。

 

 

 

さて、私とタイミングを同じくして県外におる妹が娘を連れて帰省しておりまして、ありがたいことに姪っ子の相手をさせていただけるという使命を賜りました。と、自宅にあるプール(膨らませるやつ)の監視員をしたり、地元の盆祭りにいって踊らせたり。もう一方で、一番の下の妹のお宅にお邪魔して、愛犬にかまってみたり、私は食べないけれどスーパーへ買い出しにいって、お夕飯だけ作ってみたりと(私がいくとなにもしないのですよ)なんでもないような普通の休みの過ごした方をしておりました。

 

 

こうしたことができるのでもあたりまえのようでいて、そんなこともないのが今の世の中のようで。兄弟姉妹間の仲がいいからなのですよね。色々な場所で出会う人で、興味を持ってしまうと時に私は色々なことを徐々に、大胆に、しつこくお話を聞いていくのは周知の通り。聞いていくうちに身の上になることもあり、そこから家族の話になって、「兄弟はいるんですか?」と自然と話が進むこともしばしば。こうして少ないながらも話を聞いていく中で気づくことがあって「もしかしたら自分たち兄弟、姉妹は仲がいいかもしれない」って。

 

 

兄弟姉妹間の仲がいいか悪いか。本当かどうかは話を聞いただけはわからないのですが「兄弟の仲はいいんですか?」って聞いた時に「仲が良いよ」という言葉はなかなか聞けません

 

「ん〜どうなんだろうねぇ」

「仲はあまり良くなくてさ」

「あんまし関心がないんだよね」

「ぜんぜん話、しないんだ」

 

っておっしゃる方が多いこと多いこと。そこには一種の恥ずかしさがあって、言葉とは裏腹に慕っていたり、見守っているようなこともあるのでしょうけど。あまり周りと比較することはないながら、話を聞く人が増えれば増えるほど。そう感じ、自分たちの仲が際立って良いように見えてきます。なんでもないようなことかもしれませんが、私がなにかのイベントやらの時に、気軽に若い人たちに話しかけることができるのも、下に妹が二人いるからでしょうし。話をすることに抵抗がありません。逆に年上の諸先輩の方々にはなかなか・・・ということもあったりしますが。そこからくる恩恵は計り知れないものがあります。というか今思えばたくさんあったなぁと。

 

 

こうして慕ってくれたり、見守っていてくれる存在が身近にあることほど、力強いものはないわけで。何かの苦労に出会った時には見えない力となって、助けてくれているようにも。はたから見れば兄弟愛の話をえんえんと書いているようですが、そこには私の長男気質?が反映されてるようにもみえ、もしかすると自然と関心をもつようにできているのかもしれませんね。

 

 

 

 

お盆だからということではないですが、いつもと同じくおばばちゃんのお墓にも。それにプラスして、生前おばばちゃんと一緒にいった、地元の行きつけの定食屋さんやら、街中のお蕎麦やさんを母上を連れて回りまして。なんとも懐かしいやら、寂しいやら。そうやってそれとなく回想しながらお腹いっぱい地元でのご飯を堪能してきました。おかげで毎日お腹の中が悲鳴をあげています。

 

 

こうして苦しい苦しいとお腹をさすっているとふと思い出すことがあります。

 

今では麦とか雑穀とか見直されていますけど

 

「私はね。白いご飯じゃなくて麦とかばっかり、子供のころに食べさせられていたからあんまり好きじゃない」

 

おばばちゃんが時折話しをしてくれたこと。思えば小学校低学年で辞めさせられて働いていたとも言っていたので、戦争末期に子供だった時の経験が染み付いていたのでしょう。そうして家でも外食でもそこから大盛りにしろ、大盛りを頼めと言っては、料理がテーブルに並ぶと・・・

 

「私はちょっとで良いから半分取りなさい」

 

いつも2/3くらいを強引に私の器へと無理やり運んでいました。

 

「半分じゃね〜だろ」

 

と私は悪態をつきながら食べては

 

「食わねえなら頼むなよな!」

 

なんて食べ終えた後、偉そうに思いながら、なんともはち切れんばかりのお腹をさすっていたわけですが、「お腹いっぱい食べさせたい」とも言っていたおばばちゃんの愛がそこにはあって。今となってはなんとも感謝しかなく。より深い愛を感じます。

 

 

f:id:riki-yan:20160816232822j:plain

しらす定食。生もゆでも一緒に。抜群の安定感。 

 

 

と終わりたいところですが。贅沢なものではないにせよ、普段食べないお肉やらお魚やらをお腹いっぱい食べさせてもらってありがたい気持ち、幸福感でいっぱいなのはもちろんなのですが・・・・

 

 

毎日、取れた野菜と相談しながら献立を考えて、一汁一菜の暮らしに慣れた私には一気においしいものをばくばく食べて「苦しい苦しい」と言っている自分の姿がなんか浅ましく。そこから今度は飽食の意味を考えたりします。Instagramとかで美味しい料理のpicをみると。「いいなぁ」「うらやましい」「また良いものを食べているなぁ」と食テロの被害にあっていた私も、最近は外へ出て美味しいものを食べるという行為自体があまり魅力を感じなくなってきているようで。おうちでほどほどに「今日のご飯はおいしくできたぞ〜」って料理して食べているのが案外しっくりきているようです。

 

 

好きなものを存分に食べれる幸せは私の中では続かず短くて。お腹がパンパンになってしまうと逆に下がってしまうようにも。今の自分にはお腹いっぱい度100%近くご飯を食べてしまうと心もお腹も苦しさを感じてしまうようです。毎日質素ながらも適度に旬なものを食べているのがちょうど良いのかもしれません。お腹いっぱいになると私のココロは弱いもので何もしたくなくなっちゃうのも、ただただ胃袋が縮んだだけのもあるのでしょうけど。

 

 

 

さて。しばらく自分の野菜畑には顔を出せていません。畑にいくとどうなっているか気になるし。多分お化けだらけになっていると容易に想像できますが、明日は汗を流しながら畑仕事をして、お家のキッチンでお化け退治に勤しみたいと思います。