ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

隠士たるや

これがゲリラ豪雨ってやつですか。なんだか梅雨は明けたら今度はカミナリゴロゴロ、雨ザーザー。なんだか休みない感じで。すももを収穫していると面白いくらいにアニメやドラマのようにちょっと空が暗くなったと思い、空を見上げると黒い雲。「ぽつ、ぽつ、ぽつ。ざぁ〜」って。ここ一週間でも2回ほど襲われました。当然服が濡れてしまって気持ちも萎えるのですが。それよりも先にベランダに干した洗濯物が気になってしまう自分がなんとも主夫のよそおいを呈しているようで、なんだか・・・ね。

 

f:id:riki-yan:20160803230003j:plain

 

収穫どきは個々に離れて作業をいるので、体はテキパキと動かしつつ、オーディオブックを聞きながら気持ちはのんびりしながら仕事をしています。最近はまた新しい本を流しながらの作業で、聞いているうちにあっという間にその日の収穫が終わっているから便利なものですね。ちなみに今日はこちらを。

 

 

論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)

 

 

物語とついていることもあって、親しみやすく。内容を知ることができます。

 

 

論語は聞けば聞くほど面白い。聞けば聞くほどわかった気になって、全然わからなくて、間違った解釈をしたりもする。しかしまったく離れた場所やその時々、そのふとした瞬間に本当の意味に近づいたりする。わたしはずっと未熟なようで、いつもいつも早合点してしまうことが多くて、なんだかこれって子供の時からそうかもしれないなぁと。もしやすると私の酸っぱいモノ好きってその未熟さが反映されているのかなぁとも。これも「私の場合」という一つの受け取り方ではあるのですが。

 

 

 

沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、並びて耕す。孔子これをよぎり。子路(しろ)をして津(しん)を問わしむ。長沮が曰わく、夫(か)の輿(よ)を執 (と)る者は誰と為す。子路曰わく、孔丘(こうきゅう)と為す。曰わく、是(これ)魯の孔丘か。曰わく、是なり。曰わく、是ならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺曰わく、子は誰と為す。曰わく、仲由と為す。曰わく、是魯の孔丘の徒(と)か。対えて曰わく、然(しか)り。曰わく、滔滔(とうとう)たる者、天下皆な是なり。而(しか)るを誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且(か)つ而(なんじ)其の人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈(あ)に世を辟くるの士に従うに若(し)かんや。憂(ゆう)して輟(や)まず。子路以て告(もう)す。夫子(ふうし)憮然(ぶぜん)として曰わく、鳥獣(ちょうじゅう)は与(とも)に群を同じくすべからず。吾(われ)斯の人の徒と与にするに非(あら)ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易(か)えざるなり。

 

論語 微子篇  

 

どんな内容なのか、興味がある方は現代訳を調べていただければ。

 

 

ちょうど農作業のときに流していて、この中で登場する沮、桀溺という二人の「隠士」というのがなんだか、今のわたしの生き方に似ているような感じがしてしまって。なんだかすももを収穫しながら、苦笑いせざるをえませんでした。

 

kotobank.jp

 

 

聞いていた論語は物語のように訳されており。

 

子路という弟子に隠者について最後にこう話をしています。

 

卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならない。わしはただ当たり前の人間の道を当たり前にあるいてみたい。つまり人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい。というのがわたしの心からの願いじゃ、そこに喜びもあれば、安心もある。

 

隠士たちはこう濁った世の中には未練がないといっているそうじゃが、濁った世の中だからこそ、その中で苦しんでみたい。正しい道が行われている世の中なら今頃わしもあくせくと旅を続けてはいまい。

 

 

苦笑いしたのも、隠士の心境に近いものを私が持っていたからなのでしょう。しかしその反面、今の自分はこのままでいいのかという問いは、毎日どこかで顔を出してきます。小さなイライラや、うまくいかないことはあるけれど、そんな大きな問題にはならない。今の状況には苦しさがないのです。そうやっては人にこの心境を話しているけれど未だ見えてきません。もしやすると、この悶々としている状況が苦しんでいるということにも見えないでもありませんが。

 

論語の中では他の編でも、悩み苦しんでいる弟子に対して「安易に自分を卑下して、苦しみから逃げるのではなくて、もっと苦しんでみなさい」と諭す場面があります。自分には才能がないから、生まれがわるいから、お金がないから。〜だからと自分に言い聞かせることは苦しみから離れるおまじないのように見えて、苦しみという貴重な機会を奪っているかのようです。私はその編を聞いて、もうちょっと「このままでいいのか」という問いかけをして、このまま苦しんでみようと思います。あしからず。

 

 

 

そういえば昨日?でしたか。アプリのゆれくるがブルブルっと震えて伝えてきた地震速報。通知で来たのが震度7東京湾おき。私のいる地域では震度6が20秒後。通知をみた瞬間に数秒固まって、逃げなくてはとは玄関に向かうも、3階から駆け下りるにも間に合わない・・・。これはもうダメかなと。結局テーブルと壁に手をつけたまま覚悟を決めたのでした。

 

その後予測の時間が過ぎてもピクリとも揺れないのをみて、急いでネットをみて情報を集めると、何やら誤報らしいことがわかりました。それでも早くなった心臓の鼓動は眠りにつくまで止むことはありませんでした。日頃の防災意識の見直しやら、食料の備蓄などを見直さなけばと思ったのはみんなと同じでしょうか。

 

しかし、それよりももっと大きな発見がありました。

 

自分のことを臆病だと思っている私は、もっともっと「生きたい」気持ちや「神様助けて」という心持ちが先行するのだとばかり思っていたのですが、結局最後は起こることを受け入れる。現状を受け入れることを選んでいた自分にびっくりしました。諦めたともいうのかもしれないけど。強くなっていた自分を少しだけ垣間見ることができました。