ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

はじめに見つけた人

すももの収穫の中休みで、家で作業をしていました。なかなかこうした時間を持つことができないので、家の片付けやら、依頼物の考案などを集中してやっていました。普段外で暑い暑いと言いながら仕事をしているわけですが、それは屋内でも変わりませんね。というか、屋内のほうがなんかジメジメしているからか、暑さもそうですが、余計に疲れたようにも思います。昔は1日からだを動かして仕事をするって考えられなかったのですが、今はもう逆ですね。1日屋内で仕事をすることがなんと大変と感じることか。環境の変化、順応性。人間ってよくできているんだなぁと感心してしまいます。

 

 

 

そうして昼間からデスクに向かって作業をしつつ、ちらちらSNSを眺めていたのですが、私のフィードに知り合いの方がいいねをおしたものが流れてきました。

 

なんとなく眺めていたのですけど、地域活性化の分野で活躍されている方々に触れていました。

 

 

スーパー◯◯っていわれた人たちはとても充実そうに見えるけれど疲弊しているんですよね。

 

私生活の部分が崩壊している

 

自分の身近なところが充実させていなければ・・・

 

 

なんてうるおぼえですけど、なんか眺めていてこの人何言ってるだろうって。直接的に言っているわけではないのだけれど。文末の端々に「笑」って多用しているのもあって、これは意図してやっているのだろうけどよい印象ばかりではないなぁなんて、なんだかなぁと。

 

普段なら「確かにそうだなぁ」となるところですが。なんかひっかかってしまって。それはもしかするとちょうどある本を読んで感化されていたからかもしれません。

  

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

ピエドラ川のほとりで私は泣いた (角川文庫)

 

 愛の癒しについてのお話。

 

この本の中でこんな一節があります。

 

私は広場にあるあの井戸をいつも見ています。そしてずっと昔そこに水があることをしらなかったんだなって、

 

・・・

 

あの井戸のおかげで、たくさんの人々が、希望と愛と問題を抱えてここにやってくるようになったのです。ある人が勇敢にも水を探し求め、水を発見した。そして人々がその流れのまわりに集まってきました。私たちが、勇気を持って愛を探し求めれば愛は自ら姿を出現し、私たちはもっとたくさんの愛を自分に引き寄せることになるんだと思います。

 

もし誰か一人に真剣に愛されるなら、誰からも愛されるのです。

 

前後の文脈があるので、意味合いは異なると思いますが。

 

この文面では

 

「ある人が勇敢にも」

 

とあって

 

「ある勇敢な人」

 

とは書いていません。

 

 

井戸を発見したのは勇気はあったにせよ。普通の人だったのでしょう。「スーパー◯◯」と呼ばれる方々もはじめに何を見つけた普通の人。そのほとんどがなりたくてなったわけではなく周囲の人がそうさせた。はじめに井戸を見つけた人はきっと愛に苦しんだのでしょう。そして勇気を出して探しに出た人。苦しんだことのない人には見つけられない井戸。

 

ずっと愛を探し求めている人。

 

・・・私にはまだ愛を語る資格はなさそうなので。ここまでにしておきますが(あしからず)

 

 

私もいつもよくしていただいている方に「また顔に疲労が出ていますよ」ってよくお伝えするのですけど。そういった方々に頼ることもできるけれど、私たちが救うことができるんです。受け取ってばかりでは、いずれ相手は枯渇してしまいます。

 

 

お笑いの世界では「今年流行ったお笑い芸人」と言われることがありますが、実際は「今年消費された人たち」のように見えることがあります(もちろん本人たちの力もあるけれど)

 

話がそれました・・・・。

 

 

 

そうならないためには、関わる人が何かを置いてこなければなりません。与えなければなりません。◯◯さんに何をしてあげられるだろう。という問いは良い循環のスタートなのだと。与える人のほうが多くなったときの想像をすると、とても満ち足りた気持ちになります。

 

 

 

 

お金持ち。才能のある人。人々はそれらを敬いもし、妬んだりもします。生まれた時は不平等かもしれない。どう生きるかは選べる。こういう話を聞いても一向にもやもやは解決しないかもしれません。しかし、他の人が持っていないものの表現として「恩寵」と呼ぶ方がいます。それを持つ人にはそれを使う義務を課されているといいます。そしてその義務を果たせなくなると「才能の呪い」にかかるとも。

 

 

もしやすると。お金、才能がないと自分で思うことというのは「義務」がない分、案外気持ちが楽なのかもしれません。

 

 

 

 

さて、お仕事はなくても野菜畑へは毎日通います。いつもどおりの水やり。いつのまにか一ヶ月前に植えたオクラが大きく成長していて、大きな葉っぱが目につきました。

 

 

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まだ背は小さいのに、葉っぱは大きい大きい。

 

 

 

東南アジア原産?熱帯地方原産?詳しくはしらないけれど。暖かい地域の作物の力強さは目を見張るものがあります。しかしそんな力強さも年中暖かい地域だけ。日本の冬を越すことができないそうです。日本の四季というのは美しい、風情があるとプラス面を聞くことが多いけれど、ある植物たちにとってはただただ厳しさだけを突きつけられているかのようで。ここでなければずっと生きられたのにと思うと。なんだか悲しい気持ちになりました。