ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

いちじくがひとつ。

今日はやっと一部の畑で袋がけが始まりました。春の終わりからずっと駆け足で葡萄の成長がすすみ。なんとか人間の手がついていっている状況がずっと続いておりますが。袋がけが始まるとちょっとばかし先がみえてきたようにも感じ。少しばかり心に余裕が生まれてきます。それでもやることはまだまだいっぱいあるのでもう一踏ん張りというところなのですが。

 

なんとも日中の最高気温が30度を越えてくるとさすがに疲労感が違ってきます。例年通り順調に頬がこけ、体重も減っているのは変わらないことですが。今年は自分で育てた野菜を毎日食べているので、時々くる腹痛だけ除けば健康そのもので。こうして健康に毎日すごせることに感謝しっぱなしです。

 

 

野菜畑についても、ようやくトマトが赤くなり始め。もう少しすれば夏野菜の収穫のピークを迎えそうです。野菜だけに限れば、私の食糧自給率は90%くらい行くんじゃなかとも。毎日ご飯は自分でつくっているけれど。私の献立で足りないのは、きのこともやしとキャベツくらいで。あとはほとんど揃っています。シソに至っては去年のこぼれだねから勝手に芽が出てきて。ちょっとだけ植え替えてあげただけで、今シーズンすでに200〜300枚くらい収穫できています。おかげさまで毎日なににでもしそを合わせてご飯を食べています。

 

 

 

 

さて。野菜の水やりを終えて、農道を歩いていると。何度か通りすがりに挨拶はしていたけど、ちゃんと話したことのない、おばあちゃんとなんだか目があったんです。

 

「今日は何を収穫したの?」

 

私よりも広い畑でいろいろな作物をいるのはそれとなく知っていたので、謙遜しながら、ちょっと恥ずかしなという気持ちで

 

「今日はししとうとピーマンを少しだけ摘んできました」

 

持っていた袋の中身を開けながら答えます。

 

 

「いいね。私のいろいろ作っているんだよ。」

 

 

そこから少しばかし話をしていました。

 

 

「今は何が採れる?」

「畑で作っているの?」

「今は里芋の水やりが一苦労なのよ」

 

 

 

いろいろな事をたくさん教えてくれて、そこから畑を見ていきなよって。そうしてちょっと散策させていただいて、私の小さな10坪ちょっとの畑よりも数倍広いし、うまく畑のレイアウトが出来てて、野菜の株間も絶妙で無駄がない感じ。

 

 

「きっと、ずっとやっているからだね」

 

 

おじいちゃんとおばあちゃんの二人でやっているそうな。今は面積の少なくなった果樹の仕事をお天道様が真上に上がるまでやって、15時くらいまではお家で休んで。そうしてそこから野菜畑にきて世話をしているそうな。大変なのといいつつも、それが毎日の習慣だから自然にみえました。

 

 

「ちょっとまってな」

 

 

ふと思い出したかなのように、畑の奥に入ってがさごそやっているなと思ったら、何かを手にして戻ってきました。

 

 

「これひとつだけど、食べて」

 

 

そこには、もいだばかりイチジクがありました。

 

 

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 なんともいいフォルム。

 

 

最近は雨が降っていなければ、毎日仕事終わりに野菜畑で水やりとかしていると、何度か書いていますが。ただ好きで、自分が食べるために、ちくちく作業をしているだけですけど。そうしているだけでこうしたご好意をいただく事が随分増えてきました。野菜をいただく事も多いです。それもたくさんの量を一度にいただくので、なんだか申し訳ない気持ち。何もお返しする事ができないので「いただくだけになってしまってすみません」とつたえると。

 

 

「話を聞いてくれただけでいいんだよ。もらっていきなって」

 

 

ここには一切の損得の意識もないんです。今日初めて話したばかりの見ず知らずの若造に良くしてくれるんです。私なんかまだまだ至らないことが多くて。人からよく思われたい欲求がどこかに潜んでいます。私の周囲でも、何かの集まりに参加した時でも。結局自ら何かを提供している人は何人くらいいるんでしょうか。それも見返りなしで。ほとんどの人が「くれくれ」って状態のようにも感じます。

 

与えることができる人がさらに与えられる。

 

よく言ったもので、

 

  • お金が儲かったら募金をするという人は、儲かってからする人はいないし。
  • 子供が遊んでくれっていって、仕事が終わったら遊んであげるからねといって、仕事が終わってから自分から「遊ぼうか」っていう人は少ない。
  • もう少し時間があれば・・・といって、時間ができても実は何もしない。

 

 

枚挙にいとまがありません。普段からしていないことはできないのです。

 

そんなことを考えてしまう私だからこそ、なんとも嬉しい気持ちと一緒にいちじくを握り締めながら(優しくね)帰路につきました。

 

 

 

 

今は世の中ではイギリスでの国民投票の話では「若者」「老人」の構図をいろいろと語っていたり、日本では名経営者といわれていた方の「老害」だとか「晩節を濁すな」とか、高齢者の方への風当たりが一部で強くなっているようです。ご年配の方の中にも様々な人がいますのでひとくくりにはできませんが、いずれ誰もが年齢を重ねていきます。その時どうなっているか。同じ立場になるかもしれませんし、ならないかもしれません。しかし少なくとも今の高齢者の方への対応は未来への自分へと返ってくるような気がしてなりません。

 

 

現代では核家族が普通ですし。身近なおばあちゃんおじいちゃんとと関わる機会も少ないようにも思えますし。普段から接していればそこまで怪訝な態度にも気持ちにもならないと思うのですが・・・。高齢者社会という言葉が使われて久しい世の中です。多くの問題頻繁に目にします。しかし、その問題の多くは単に孤独だとか。必要とされていないという気持ちだとか。コミュニケーションに端を発することがほとんどではないかなとも感じます。一週間にちょっとだけでも会話を交わすだけで。ほとんどの問題は解決してしまうのではないかってふと考えてしまいました。(浅はかな考えかもしれません

 

 

イチジク。一見馴染みがなさそうにみえて。じつはとっても身近なものでした。子供の頃、実家の前はイチジク畑が一面に広がっていました。時々農家さんがイチジクをくれて食べていたんです。今はもう賃貸住宅が建っているので、畑があった面影もありません。なんとも不思議なものでなんだかその頃の情景とともに、生前のおばあちゃんの記憶がふと思い出されました。懐かしいようなちょっと寂しいような。それもイチジクをくれた優しいおばあちゃんにその姿を重ねていたのかもしれませんね。

 

 

こうして思い浮かんだ時には呼ばれているような気もします。もう少しで今のバタバタした農作業の峠を越えそうな気がしています。(峠を越えても休めませんが)そろそろお墓参りにいって久々に顔を見せにいきたいものです。