ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

ただただ歩いて、観て、聴いて

日曜日は住んでいる集合住宅の掃除がありました。敷地内に生えた草を皆で刈っていきます。「次はあなたが組長です」と急に役をふられ、まだ一年も住んでいないのにこんなことになるのかと思っていたのがちょうど去年の今頃。春はいろいろなことを思い出させます。掃除の後、ちょうど勝沼朝市」が今日やっているから、行きませんかとのお誘いを受けたので皆で出かけて行きました。朝市も歩いてみましたかが都心からのお客さんの多いこと多いこと。人混みに耐性をなくしている私は結局近くのワイナリーに目と足が向いてしまい、午前中にもかかわらずたくさんワインをひっかけてしまいました。日曜の朝からこの流れ。まあ気持ちの良いことったらありませんでした。

 

 

さて。天候などの都合で、仕事の隙間ができていて。ちょうどお誘いのイベントが目に止まっていたので参加してきました。それは「行く行く詐欺」をしていたある場所でのイベント。良い機会だな思い、そのまま思いつきでワインを飲んだその足で東京行きへの電車に乗り込みました。

 

「なぜ都市郊外を歩くのか?」by. 路上観察学会分科会×泥沼コミュニティ(「ホーム/アンド/アウェイ」関連企画)

 

 

路上観察学会分科会

路上観察学会分科会 - 空耳図書館 路上観察学会分科会 芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト ワークショップ

 

泥沼コミュニティ

http://doronumacommunity.wix.com/doronuma

 

 

どんな活動をされているか興味がある方はご覧あそばせ。

 

 

まあしかし、ど、泥沼?路上観察?果たしてこれはなんのつながりですか・・・って思われる方がいるかもしれませんが、実は昨年の塩尻での縁なのです。

 

sasariki.hatenablog.com

 

 どんな内容だったかは、参加した皆さんの胸に秘めておくとして、気づきだけ残しておきます。

 

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観察対象だった、神明大神宮

 

 

まち歩きではない路上観察

 

過去にいくつかのまち歩きのイベントに参加させていただいたことがあります。実際にフィールドにでてみると特に意識していないけれど、まち歩きと路上観察って似ているようで全然違うものだと。まち歩きのテーマで「新たな魅力を発見」「隠れた魅力を発見」みたいなテーマがあったりするけれど、実はこのテーマでは魅力は発見しきれないかもしれないって。「これが魅力だと感じました」として共有されるものは、魅力に感じたものを皆で良かったですね〜っていうだけになってしまう。それは他人の感じた魅力としか映らない。まずは先入観をできるだけ配して、ただただ見て歩いて嗅いでみて、単に見えるものをまず共有する。その中でふと生まれる「なんでだろう」を拾いあげること。一見すると地味なようにみえるけれど、とても大事な作業のようにみえました。

 

路上観察は一種のマインドフルネス

 

路上観察は、街を映し出すのではなく、むしろその個人を映し出します

〜〜〜

個人の「気になる」を他者に開く行為こそアートそのものではないでしょうか。

 

路上観察学会分科会 通信 より ヤマケン こと 山内さん

 

発表のなかで、主催の方が路上観察を行っている際に撮った写真のなかで「これはなんでとったんだろう?」というものを一枚一枚壁に映しながら、撮影者に尋ねていく場面が。説明の通り、何の変哲もない写真で、パソコンのなかに取り込んでもいずれ撮ったことを忘れ去り、見ることもなくなるであろう。そんな写真でした。

 

しかしどうでしょう。説明を聞いていくと「なるほど」「あぁ〜そうなんだ」と私を含め、みなさんがそれぞれに口々に納得したり、うなったりしていました。

 

「世界は心の投影」

 

よく読み返す本に書かれている言葉です。今までの経験によって培われたもの、その時々の心の状態などによって、見ている景色は変わらないのに、まるで違うように見える。マインドフルネスの中で「感情を味わう」という表現があります。頭の中を空っぽにしてただただ歩いては、見る。路上観察においては「見える景色を感情で味わうもの」そんな表現が浮かびました。

 

 

情報を知らぬ間に上乗せする

 

年齢を重ねていくにつれて、五感から取り入れた情報に、知らぬ間にバイアスのかかった情報を載せてしまっている。だからどんどん複雑になるし、処理が重たくなってくる。実は見えているものはそんなに複雑ではないのです。見たままをそのまま伝える難しさを勝手に感じていました。

 

まちが成長していた

 

浦島太郎状態とはよく言ったものので、上京して故郷を離れ数年ぶりに帰郷すると・・・海外でしばらく済んだ後に日本に戻ってくると・・・など、枚挙にいとまがありません。お話を聞いているなかで、昔新しく建てられたり、作られたりしたものがいつの間にか伝統や歴史として語られている場面を目にしたとき(ニュアンスがちがっていたらごめんなさい)そう感じたそうです。東京も開発、再開発の繰り返しです。むかし、山を削っている光景を見ている方には、たくさん大きな建物が立ち並ぶ今の街並みは想像できなかったかもしれません。しかし、昔見た場所には光景と同様に、ところどころに昔の町のにおいが残っている様子もお話を聞きながら感じ取ることができました。

 

 

 

関心のあることばかりを集めて周囲に散りばめていると、視野が狭くなっていることに急に気づきハッとすることがあります。自分のアンテナの外の情報に触れることはその視野の狭さを気づかせてくれるきっかけにもなりえます。時間は有限で、生きていられる時間は限られているので、取捨選択することも良いでしょう。しかし自分とは関係ない分野に触れてみると、実は共通点があったり、他の角度から見れる、新たな気づき、発想が広がることにつながりそうだなと思いました。

 

その後の懇親会では、もう本当に申し訳ないですというくらいの私の独壇場になってしまいまして。しかも皆さんがとても聞くのがうまいのでついつい。やはり普段あまり人に接していないと、話し過ぎてしまう傾向がありますね。こちらは課題になってしまいました。

 

 

さて、今回は調子に乗って終電以降も飲んでしまい。羽目を外して帰ったのは次の日の朝。「そうかそうか今回のイベントは泥沼だったか」と思い出し「こんな日も悪くない」なと、雨の降る中、近くの駅へむかう途中一人笑っていました。そうして酔いをさましながら電車に乗り込み、深く座り込むと、わたしの前に高校の制服をきたお子さんとペアの親子が数組腰掛けています。どうやらこれから入学式のようです。

 

親と子、仲良く笑いながら会話をしている。

父と母が会話している隣で、子供だけ緊張しているのか、終始硬い顔をしている。

親と子が反対の方向を向いて、一点を見つめている。

 

 

それぞれの家族の形の一端を勝手に観察している自分に気がつきました。

 

知らぬ間に私の頭の中には、「観察」というワードが入り込んだようです。