ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

ほう、そうか。

なんか外が暗くて怪しくて、霧雨がぱらついていた朝。午後には晴れるだろうとタカをくくってそのまま畑のある山へと車を走らせます。車が坂を緩やかに登るにつれて雨脚がはっきりとしていきました。あともう少しで畑だと思った矢先にコールが「今日はお休みにしよっか」そのままUターンしてお家へと車を走らせました。お昼に食べるはずだったおむすびの味はお家だとあまり美味しく感じませんね。やっぱり青空の下で食べると何倍も美味しいと感じるのは本当のようです。

 

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剪定した枝が燃えるのは切ない。

 

悪天候での急なお休みは何度も経験していますけど。結局お家にこもって何かをして1日を終えてしまいます。最近ではNetflixにハマって、食やシェフについてのドキュメンタリーが面白くて見ておりましたけど、やっぱりそれも長くは続かず。最終的には読書に辿り着いてしまうのはどうしようもないようです。

 

 

私は心の狭い人間なので、自然に振り回されたとも思ってしまいます。時々考えることがあるのですが「今日はやるぞ〜!」って気が満ち溢れている時に限って、急な雨だったり。ちょっと気分が落ちている時や、体調がすぐれない時「明日は休みだと助かるなぁ」なんてって思った時は、最高の青空が広がったりするんですよね。考えれば考えるほどそう感じるけれど、結局自然ってこんなもんよねってなった時にはさほど気にならなくなるのです。

 

 

気にしだすととまらない。深みにはまっていく。そんな経験はないでしょうか。最近はあまり周囲の出来事に反応的になったりすることは少なくなりましたが、それはここ最近の話で少し前まではしょっちゅうありました。特に、心身に疲労が溜まっていたり、いわゆる「忙しい」状態の時にはそのように感じてしまうことも多いような。そんなときは頭が上手く働いていないので、うまく意識が働いていません、目の前で起こったことに対して、悪く悪く考えてしまいます。

 

 

反応的な状態から離れるきっかけになったのは「ありのままを受け入れる」ということを知ってから。読んだ本の中であったり、お世話になっている方のワークに参加したりしたときに何度も何度も見聞きしていたことだったのですが、ようやく落とし込めてきているのです。とはいえ、未だ100%そうはなれないのですが。

 

 

ありのまま受け入れることができていない状態。それは

 

「過度に起きた出来事に反応する」

「起きていることに対して、意味づけをしているのは自分自身」

 

と私は思っています。良くも悪くも捉え方次第。前述の私のパターンですと、起きたことに対して悪く悪く考えてしまっているので、悪い意味でうけとりつつ、さらに深刻に考える状態でしょうか。

 

 

逆に良く捉えすぎていたなぁといえば、よく書いていますが、なんでもできる病にかかって会社を辞めて、ちょっと放浪して、今の状態にあることでしょうか。なんでもできる病って怖いもので全部うまくいく気がするんですよね。こうやって私は動いているんだから大丈夫だって。新しい道を歩み始めたから未来は明るい。みんな応援してくれているから大丈夫大丈夫って。ある意味正しくてなんでもできるのは間違いないけれど、そこには時間の意識が飛んでいたので、あのときの自分は興奮しすぎて落ち着きがなさすぎたなぁとも思うわけです。要は私は反応的だったのでしょう。

 

 

そんな経験ばかりだったからか、今度は毎日のように「このままで自分はいいのか」ってループに入っています。これはこれで反応的だったりしてw まあ私の頭の中いつでもせわしないのです。

 

 

 

 

参考になるかわかりませんが、ある本の中である禅寺の白隠さんのお話があります。いろいろなところで語られているようなので知っている方もおられるかと思いますが。

 

https://www.nenpoushinkyou.jp/jougo/46.html

 

ちょうどお話が載せているサイトがありました

 

 

 ちなみに私が初めて聞いたのはこちらの本から

 

ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-

ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-

 

 

彼は良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。起こる出来事を個人的なものとして捉えない。彼は誰の被害者でもない。彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完壁に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。

 

ニュー・アースより

 

 

だからなんですかと言われてしまうとぐうの音もでませんが。

 

 

どんなに素晴らしい人や、尊敬している人がいても、過度に反応的にならないこと。無理に同調する必要はないのです。新しく何か始めようと思ってやってみるのも面白いです。これだ!と思ったら周囲がなんと言おうとやればいい。やってみて納得しなければ、違えば戻ったっていい。今はSNSなどで頻繁に周囲の人の動きがわかります。それを見ているとあの人が何かやっているから自分も何かやらなくてはいけないように焦りを感じてしまうことも多いです(もちろん私が)

 

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。

 

かのジョブズさんもこう言っていますし。

 

私はちょっと内面を探ろうとしすぎていますが、もしよければ周囲を気にする前に、もっと自分の内面に語りかけて。言葉でよく聞く「やりたいこと」をやっている人はすごくみえるけれど、その前に「求めていること」直感の部分に耳を当てみて、それを信じて動いてみる。そうすることで影響を受けているばかりだったところから、今度は周囲に影響を与えていた・・・ってこともあるかもしれません。

 

 

 

 

ちょっと真面目というか、スピリチュアルよりでしたかね。

 

禅のお話が出てきましたが、人によっては受け付けないひともおるかもしれません。さて、このお話でてくる白隠さんの話。舞台は静岡の沼津、原にある寺院のお話なんですよね。調べていて知りましたが、面白いものですね。どうやって海外の著者さんが知ったのかも気になりますが。原には何どか訪れていますし、もしかしたら近くを通ったことがあるかもしれません。今度山を降りたときに寄ってみようかしら。