ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

ひとりという贅沢

だいぶ日が短くなってきました。山あいではお昼を過ぎたあたりから日陰に覆われる畑が出てくるようになりました。カラダを動かしていればこそ、心地良い陽気と感じるもので、休憩中は時折吹く風に手先が冷やされて、自然と手と手をこすりあわせています。農作業の肉体的な疲労は全然いいのですけど、寒さにだけはどうも弱音を吐いてしまいそうになります。先日まで行っていた、肥料まきをしたり、雨よけのビニールなどの撤去もあらかたすみまして、農閑期に入ります。ここからは地味な作業が続いていきます。

 

f:id:riki-yan:20151125141711j:plain

日が沈んだ後のからっ風がきびしいきびしい。

 

 

つい先日の悪天候の日に仕事が休みだったので、オーディオブックや、Podcastを聞きながら掃除をしていたんです。しばらく聞き流していると、松浦弥太郎さんのインタビューがはじまって、ちょっと気になったフレーズが残ったのです。

 

「ひとりという贅沢」

 いかにひとりで行動するか、いかにひとりで考えるか。

 

なんだかちょっとインタビューを聞いただけなのに、なんかしっくり来てしまって頭から離れません。

 

 

去年、今年と今までにないペースで新しい人達にあう機会に恵まれました(多分狭いけど)新しい人に会うということは、自分の幅を広げることだと思っています。私という世界にこもっていては大きな発見はできない。新しい人、世界にあわなければ狭い人間になってしまう。そんな気持ちをもっていたからこそ、フットワークだけは軽かったのです。

 

単にミーハーな人間なので好奇心から、新しい人に合うのは大好きだし、おもしろい人とは繋がりたいし、なんか一緒にやりたいなぁとか思っていたのですよね。でもなんかつっかかるのです。

 

「新しい人にあっているから大丈夫」「自分は行動力がある」って変な自信がでてきて、そう思い込んでしまう。さして何かを生み出しているわけではないのに。変な安定感が生まれていたんですよね。最近はふと頭のなかで考えると。「このままでいいのかなぁ」とその変な安定感からくる閉塞感にどっぷり浸かってます(だからといって病んでいるわけではないのですよ)

 

 

私と同年代の友人達と比べれば、生活のレベルは低いし、ましては経済に影響を与えていないような位置に私はいるのはわかっているけど。農家さんの下で働いていても生きていけることを知ってしまったのです。「足るを知る」とはよくいったもので、今の現状に一定の満足を得てしまうと、多くを求めなくなってしまうという(私の解釈です。あしからず)

 

 

でもそれも「ひとりで考えていない」からこその閉塞感なのかなと。いろいろと顔を出していたけれど、それはひとりという環境に耐えることができなかった結果、そういう行動に。

 

自分が何をやりたいのか、これからどうしていくのか。ということにたいして

周囲に解を求めていた。

 

のかなって。

 

だってみんなでいたほうが楽ですからね。何かすれば反応も返ってくるし、自分の居場所を見つけたような感覚になる。でもそうするとその安定から抜けれなくなる、結局それは周囲の目を気にすることになり、それに対して行動をするようになってしまうんですよね。なんだかんだ気持ちの部分が弱いのですよね私自身が。

 

 

一緒に何かをしよう!というのだけれど、みんなで何かをしようというのでは失敗することができない。いつまでたっても自分を知ることができない。つまるところ人間力が大事だと思うけれど、ひとりにならなければ自分を知ることができないし、人間力を上げることができないんですよね。

 

 

とも話をしていました。

 

偉そうに人の話を聞いたりするくせに、自分の内面には全然問いかけをしてないのだろうなぁ。私は・・・って、ただインタビューを聞いていただけなのに、相当追い込まれたので、触れてみました。でもラッキーな事に、自分の内面を探るためのツールは実は自分の中にもっているんです。しかも興味の対象で勉強はしてきたこと。それを周囲に対して行うのではなく、自分に行えばなにか答えに近づくことができそうです。

 

 

早速、過去に読んだ本を読み返しては、ワークを試してみる。習慣に取り入れてみる。とちょっぴりだけ行動しているけれど。自分と向き合うことが辛いこと辛いこと(笑 まるで自分の中に違う自分がいるようです。

 

 

年の暮れが近づくと否応物なく、振り返るようになるのはどうにかならないものですかね。そして何よりも手足の先の冷え。どうにかならないものでしょうか。まず考える前に湯たんぽを足元に置こうと思います。