ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

受け入れる。尊重する。

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秋の色合い。

 

早くも来シーズンに向けての作業が始まりました。葡萄畑一面は葉が黄色に変わり寒い季節の訪れを予感させます。早い畑では風が吹くたび、ひらりひらりと葉っぱが地面へと散っていきます。収穫を終えてからもうすぐ1ヶ月。つい最近まで見上げれば空がみえないくらい緑で覆われていた棚は、いつの間にかすかすかになり枝と棚の隙間から青々とした秋空がのぞいています。

 

葉が落ちてくると葡萄は来年の栄養の蓄えを終え、休眠の状態になります。葉がきれいに落ちると、堆肥を撒いていきます。肥料については生産者によって何を与えるか異なりますが。私のところではある牧場から堆肥を取り寄せているようです。まだまだ私には堆肥をあげれば土が良くなる。健康的な土になる。といったような素人な知識しか持ち合わせていないのですが、肥料もやはりやりすぎは悪いようで、畑によって与える量を調整しています。

 

収穫の時とは違って、肥料を運ぶので作業は大変だけれども、時間的余裕があるので。頭がゆったり動いています。余裕があると色々なことを考えては消えていきます。去年はこうして肥料を与えて終わり、畑のメンテナンスをしていたらあという間に年の瀬になっていたよなぁ。「あっという間の一年でした」って言葉を今から準備している自分がいます。

 

 

さてさて、今日はお仕事がお休みだったので。自分の野菜畑のメンテナンスしたり、部屋の掃除をして。残りの時間はゆったりと読書をしておりました。読んでいた本は過去に一度読んだ本でいわゆる「再読」ってやつです。

 

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おしみながら、ほうれん草を間引きしてます。 

 

 

一度読んだ本とはいえ、前に読んだ時には気にもとめなった部分が妙にしっくりきたり、じんわり響くフレーズってあるものです。こういうことがある本がクラシック版といいますか、読み継がれている本なのだなぁと感心してしまいます。

 

何冊か見返してみたのですが。こちらから。

 

 

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

 

 

何回読み返したことか。

 

違いを尊重する というテーマの中から特に響いたのはこちらなんです。

 

違いを尊重できるようになるためには、誰もが世の中をあるがままに見ているのではなく、「自分のあるがまま」をみているのだということに気がつかなくてはならない。

 

二人の意見がまったく同じなら、一人は不要である。私とまったく同じ意見を持つ人とは、話す興味は湧いてこない。あなたは私と違う意見だから、あなたと話してみたいのだ。その違いこそが大切なのである。

 

違いを尊重することによって、私自身の視野が広くなるだけなく、あなたという人間を認めることになる。

 

なんで響いたのだろうか。

 

過去のブログでも書いていることなんですけど。色々なイベントに参加したり、勉強会にでたりするのって。自分の知識欲を満足させるためだよなぁって。自分の中では認識していたのですけど。なんとなく気づいてきたのは結局「人」に興味があるのだよなぁって。はじめはやっぱり目立つ人に引き寄せられるのが正直なところで。いわゆるミーハーってところからきているのですけどね(修行が足りません)でも、一度話をしたあとに、もう一度話をしてみたいかどうか。は別の話なんです。

 

 

興味のある「人」あくまで少ない私の経験からくるものですけど。そこには社会的地位とか、やっている事とかはあまり関係がなかったりするんですよね。会社の社長さんだから、地域で活躍されているから、面白いことをやっているからではなくて。そこには人柄というか惹かれる要素を持っている人。すごく静かで主張をしていないのに妙に気になってしまう人っていうのでしょうか。・・・そんな人って時々いませんか。 

 

こうして書いてみると、上から目線になっているようでますます恐縮な気持ちなります。私が興味が持ったところで実際に話ができるかどうかはわかりません。私が話をしたいと思われる人間であるのか、魅力的な人間で向こうからもそう思われるか。そうして魅力的に見えるってどういう事だろうかって考えると。一つの答えととしては相手を受け入れる素養のある人なんです。

 

ああ、そのためにはまず相手を理解しなければならないんだ。

 

と。こうきたわけです。

 

「一見すると聞き上手ってことでしょう」と思われがちだけれど。それだけでは足りなくって。自分の考えも伝えなければならないと。それも無理強いする事なく「私はこうのように考えています」って伝える人。

 

 

まったく同じ意見を持つ人とは、話す興味興味が湧いてこない

 

 

一見偉そうにも見えるこの文面にはもう一つ受け取り方があると思うのです。

 

まったく同じ意見の人などいないと。

 

似ている点はあるかもしれない。でも違うんです。似ている部分を指摘して「私と同じ意見じゃないか」って言われるというパターンを過去に経験したことがあるのですが、確かにまったく同意見です。とだけ言われればそうなのかもしれませんけど「◯◯さんがお話していたのですが・・・」って、引用して話をすることは同意見ではないと思います。同じ意見だろ!っていうのは「その人の見え方である」ってことなのかなと。それは相手を尊重できているようで、できてない。自分を尊重してほしい!って宣言しているのかなって。

 

なんともまわりくどいことを書いていますよね。私。

でも仕方がないんです。「私はそう思った」のですから。

 

尊重された人の心には、相手を尊重しようって気持ちが芽生えます。そうした心の広さを秘かに持った人。そんな人に私は惹かれているのかもしれません。