ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

つかの間のココロの休息

世間ではシルバーウィークの始まりということで、秋の行楽シーズンのピークと言うところでしょうか。そんな国民の休日とは縁遠い私なんですが。世間のお休みには出荷場がお休みになるということで葡萄を収穫しても出荷することができません。おかげさまで二週間半振りに2日間、農作業はお休みになりつかの間の休息。色々とイベントのお誘いもあるのですけど。お彼岸ということもあって、おばばちゃんのところへ詣でるために山を降りて静岡に帰ることにしました。

 

今日は朝の起きたらさっそうとお墓に向かいました。涼しい時間帯に農協の販売所にいって、お墓にお供えする切り花を見に。ちょうど店先に並んでいたのが彼岸花。別に彼岸花を供えるつもりはなかったのですけど、なんか手が伸びてしまって供えるお花に含めました。店を出る前に剪定バサミで長さを揃えて、新聞に包み。お墓に向かいます。

 

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お墓についたらいつものようにお手入れを。ぶつぶつとおばばちゃんに語りかけながら、タオルでお墓を拭き清めて、お花の水を変えて、花さしを綺麗に磨き、お花を供える。湯のみに新しい水を入れてあげて、お線香を焚く。そうすると時折吹く秋風にのって、お線香のかおりがお墓のあたり一面に広がります。

 

手入れが済んだら、そっと目を閉じてお墓に向かって手を合わせます。今日はちょっと長めで5分くらいでしょうか。ココロの中で語りかけながら、自分と向き合いながら、おばばちゃんとの思い出を浮かべながら。普段生活している時には色々な事が頭を駆け巡っていて、休まることがないのですが、この時ばかりは、今やっている現在、葡萄の事も将来の事も関係なく、余分な事を考える隙間がなくなります。この時間がなんともいいがたい、安らぎの時間に。

 

こうしたお墓参りの流れって、おばばちゃんが生前に自分の親と兄弟のお墓参りに同行していた時と同じ流れであって、自然と私も身につけさせてもらった事なんですよね。毎月のように、月命日に合わせてお墓参りをしていたのですけど。私はただ車を出していただけで「こんなに頻繁にお墓参りをする必要があるのか」って思った時もありましたけど。時は過ぎて、おばばちゃんが亡くなってから9ヶ月。その意味が少しずつ理解することができているように思えます。

 

その理解が進むに連れて、なんだか心境の変化が生まれてきています。過去にも書いたかもしれませんけど。お墓参りがなぜ必要かといえば、ご先祖様に応援してもらうためなんですよね。本当に応援してくれているかどうかは重要ではなくて。お墓参りをすることで、応援されているかもしれないという心持ちを持てるかどうかが大切なのではないかと。それが、自然と現実世界においての自分の自信や、応援されているという確信に繋がるんだって。

 

今年もいろいろな人に合う機会が恵まれていて。多くの人が色々な意志や、使命を掲げて活動をしているのを目の当たりにして、すごいなぁ。どうしてそんな使命感を持って動けるのだろうって不思議に思っていて、どうしたら私もそうなれるかって思っていたのですけど。なんかそれって私の目指すところではないのかなと、なんか気づいてしまったのですよね。

 

現在、私はやりたいと思ったことを、自分の意志で、好き勝手にやっているわけです。そこには誰にも邪魔されない自由があって。周囲の目とか関係ない場所にいるんです。更に言うのであれば無限の可能性が広がっているようにも。でもそれってwin-winじゃないんです。誰かが助けれてくれているから私は好きなことをすることができている。それは静岡にいる家族であって、兄弟でもあったりします。

 

最近感じていた「自由にさせてもらってはいるけれど、ちっとも自由にならない」この感覚。それは何かの「代償」(と考えているもの)を自分ではなくて、自分以外の人に追わせているような気がして、抜け出せないんです。抜け出すためにはどうするか。考えつくのは一定の「代償」を私が追うこと。そこで初めて自由になれる気がするのです。

 

いつもながら私の頭の中をそのまま書いているのですが。私の頭は整理されていくようです。

 

 

お墓参り

 

 

 

毎回多くの気づきを得ることができます。私もいつか、生を終えてお墓の中に入る時が来るわけで。どんなにすごいことをやっていようが、有名であろうが、その時が訪れる時にはまったく意味をなさないといいます。

 

 

ん〜。

 

 

じゃあ、これからどう生きていこうか。

 

 

 

その問が自分をもう一段引き上げてくれる気がします。

 

みなさま良い連休をお過ごしくださいませ。