ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

必要になると目の前に

山梨から静岡に戻ってきております。ずっとお邪魔することができなかった友人のお宅に伺うことができたり、行きつけのお店に顔を出したりと。久々にのんびり色々な方とお話をすることができました。それ以外はうちのクマ君の散歩とか家族のご飯作ったり。それ以外は実家に積ん読したまま残していった本をのんびり読んで過ごしております。

 

いつの間にか祖母が亡くなってから一ヶ月立つのですよね。うちのお祖母ちゃんの墓所もあらかた決まったようで、なんとなく気持ちとしてもひと段落というところでしょうか。とはいっても、まだまだおじじちゃんも寂しい部分があるようですし、私が実家に帰るだけでうちのおじじちゃんも嬉しいとのこと。そういったこともあってのんびり。動きたい気持ちもやっぱりあるけれど、ゆっくりする時間なのだと思って。なにも考えずといったところです。

 

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さてさて、冒頭で述べた通り、実家で過去に買った本をあらかた眺めてみたら。たくさんでるわでるわ。もちろんだれも触ってないので埃もでるのですけど。いやぁ、こんなに積ん読したり、途中で読み進める本がたくさんあったのかというほどに。未読本と呼べるものがすごかったのですよ。思い出してみれば、静岡にいた時のピーク時は、月に2万以上本にお金と時間を費やしていたし、新聞とか定期購読とかしまくっていたのですよね。

 

当時の私の中は多読にはまっていた?というか、自分のスタイルの読み方だったので多くの本を買っては、合わない本、なんとなくもう読まなくてもいいやって本は本棚からは手に取られることはなかったのです。山梨に移住するときには、全部の本を持っていくことができなかったので、その時に持っていきたい本を中心にセレクトしていったのですけど、当然未読本となった本は実家に置いていったわけです。

 

面白いものですね。再度その棚を眺めるみると当時は全然読む気が起きなかった本に自然と手が伸びるんです。それも一冊とかではなくて十冊以上も。それで読んでみるとまた面白いというか、今の自分に対して気づきを与えてくれる内容ばかり。なんでこの本は未読本になってしまったのか。その理由さえもわからないほどの良本も。未読なってしまった本は、確かに自分に合わない本もあったのかもしれませんが、当時の自分が未熟だったために魅力に気付けなかった本もあるのかなぁと感じるわけです。

 

よく、良い本の条件といわれるものの一つに

 

読んだその時々で気づきを与えてくれる本

 

ということがあります。何度読んでも読み飽きないというのは、面白さの部分を含め、読むたびに違う本になるという部分もあるからだと思っています。逆を言えばどんなに良い本でも同じ印象にしかならない場合は、自身の成長が足りないのかもしれません。

 

最近は年齢的も30歳に近づいてきて、若輩者ではありつつ色々な経験を積ませていただいてきたはずです(きっと)その経験の中で自分の成長を図る上でも、昔読んだ本を読み返したりすることは有用だなと改めて気づくことができました。私はドッグイヤーとか線を引いたりと書き込みをするのですが、前に書き込みをした部分を見返すと・・・「全然大した事のない部分にたくさん線を引いているなぁ」なんて読んでいた当時の私を思い出し、懐かしさと気恥ずかしさもわいたりして、なんとも楽しい時間になっています。

 

今回は本の話をしましたが、本に限らず、困った時には必要なものが目の前にあわられるといいます。それが人なのか、本なのか、機会なのか。それは私にはわかりません。でもそう思うと不思議とチカラが湧いてくるのは私だけでしょうか。