ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

両手を広げても独り占めできない

今日はぶどうの里からの更新になります。ちょっとばかし大事な用があったので。午前中から静岡を出て、こちらに滞在をしております。なんとも力強い地元の友人が一緒についてくるということになりまりまして。まあ最後の小旅行という触れ込みで明日も信州を回るつもりでおります。こうやって急な旅をするのもまた楽しいのですよね。

 

それはそうとね。旅路の途中で久々に本栖湖からの富士山の眺望を見たんです。

 

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なんともいいタイミング、雲がかかっていないきれいな富士山が見ることができました。

(なかなかないんですよこういうタイミング)

 

この富士山を通じてね。静岡県と山梨県は長年もめているとかいないとか。軋轢があるのだとか。なんかメディアでいわれたりするんですよね。どちらが表?裏?そう言うからなんか気にしちゃったりするんだよ!とか思ったりもするのですけど。

 

実際は別にそこまで気にしたことはないと思うのですが・・・でも、私の地元から見える富士山は、右側に宝永山の出っ張りがあるのが富士山。私の中の富士山はそうなんです。(イラストを書けばどこから見た富士山かわかっちゃいます)だから自然とそちらが表になってしまうのでしょうか。

 

山梨県から富士山だとその出っ張りが見えない?と思いますけど。ずっとそれを見てきた人富士山はその富士山なんですよね。同じ富士山なんですけど、そちらが富士山の表なんでしょうか。

 

今日見た富士山は本栖湖から見ていたんですけどね。

そんなちっぽけな考えで収まらないのが富士山なんだなぁって思ったわけですよ。

 

澄み切った湖のふち。雲ひとつない快晴。

両手を広げても覆えない程の広大さ。

 

本当に大きな存在に見えるんです(いつもみているのに)誰にもその存在を独り占めできない大きさが富士山なわけで。それをどうして表、裏とから小さいことを言っているのだろうとか思っちゃうわけですよね。

 

それでもそうした対立があるんだ、ないんだって話をしていることも。皆さん富士山が大好きなのだって事の裏返しなんだろうなぁ。なんて。

 

SNSとかで写真で富士山とかアップされてると、無性にいいね!って押したくなりますものね。

 

普段から富士山が見える場所に住んでいて、凄さをあんまし感じないのですけど。じっくり見てみると富士山の偉大さを感じられずにはいられない。そこまでの自分物になりたいとは思いませんが、ズシンと構え、肝の座った人間になりたいなぁと。しみじみ思いました。