おりれない。もどれない。
「その本の内容を簡単に説明してみて」
「今の自分の仕事にどう活かせるの?」
私はどうやら「What」人間。積み上げ型。自らの頭で考えることをしない人。クイズの答えをみると満足してしまう。一度でも見聞きしたことは理解したと思い込んでいる。完璧を目指しすぎてできなければ機嫌を守れないか、放棄してしまう。適当にすることができない。とりあえず調べ始めてしまう。ネットを調べてしまう。
自分が頭が悪いって認識がようやく出てきたけれども。それはなんとなくそう思うだけでしっかりとつかめていないのが実際のところでして。
「頭が悪いってなんだろう」
ここ最近は毎日数度は頭に浮かんで消えていきます。もしかしたらここが頭が悪いところかもしれない!って思う部分は幾つかあるのですが。
- 一度笑ってくれたこと。それを面白がって同じことを何度も話する。
- 一度話したことある話を何度もする。
- ずっと足が動いている。とにかくうごいている。今ブログを書いている時も座りながら膝と膝が左右を行き来しています。貧乏ゆすりをしている。
- 話をしている時に、急にある話題に意識が持って行かれてしまって、話を聞いていないことがある。
とにかく昔から何度も何度も同じ話をするんですわたしは。わたしという人は。これってなんだろうと。自分の引き出しにないことはすることができない。ストック人間であって、そこにないものはわからない。頭が真っ白。
猛烈に色々な本を読んでいた時がありました。20代半ばのことです。当時は自己啓発本ブームというか。とにかく本を読まなくてはダメだ。自分はとにかく知識が足りない。もっと色々なことを知らなくてはいけないと。そうやって身につけてきたその知識を、あるたびあるたびに色々な人に話すんです。
- 「あの本にはこう書いてあった」
- 「あなたはこういう人なんだよ」
- 「◯◯をもっとした方がいいよ」
そう。人に話しているんです。周りの人に。大概もれなくパートナーにも話をしまして。冒頭の話なわけなのでありまして。やっぱり頭が真っ白に。説明することがなかなかできない。覚えていない部分が多いし。自分はこの本を読んでなにを学んだのだろう。なにを活かせているのだろうって。
今年のテーマの一つでもある
「地頭力」
昨日の夜と今日の昼。合計して5時間くらいドライブする時間があったので。早速一冊の本を聞いていたんです。それで思ったことが冒頭の話なわけなのです。
気になる人はどうぞというところなのですが、なんだか聞いているうちに、ずっと今までの自分に苦笑してしまって。コンビニもよらず。道中のお供のポテトチップスと、レモン炭酸水も買わず。いつもトイレ休憩で止まる道の駅も通過。口元はゆる〜く波打つ一文字を結んでただただハンドルを握っておりまして。片道2時間半のドライブもあっという間。
ニョッキをみると安心します。道の駅とみざわ
- なんであんなに自分は社長に怒鳴られたり、怒られたりしていたんだろう。
- ああ、上司はこれを求めていたのだなぁと。
- だからあの時こういう失敗をしてしまったのだろう。
- あのときの友人・知人とのいさかいも。
そうとうできない人間だったなぁと。調子に乗っているなぁ(今もだけど)と気がついてしまうんですよね。最近わたしのダメダメな会社勤めの時の話ばっかりで。また同じことを言っていそうで怖いですが・・・w まぁ〜。すご〜くすご〜く申し訳なかったなぁって。
いつもですとこう書いただけで、満足して終わりだったけれど。じゃあ自分はどうしたらいいか。そんなヒントもいっぱい詰まっていたので。実践しながら「What」から「Why」の思考へと転換していければ。
・・・うん。
します。
マナーモード
いつのまにか新年明けて、早くも一週間が過ぎ去ろうとしております。年末年始は実家に早めに帰ってのんびりとした時間を過ごさせていただきました。とは言っても、お正月に食べるものの買い出しやら、甥っ子、姪っ子の相手やら。親戚まわりやら。ゆっくりするつもりが以外とゆっくり出来なかったような感じでしてなんとも忙しい暮れだったようです。
砂場で一生懸命遊びました。アイスクリーム屋さん。
年明けにはゆっくりと山梨に戻り。なんだか日が暮れるのが早いように感じて。周りを見ると山々に囲まれているんだね。やっぱり静岡って暖かいのねって、気候風土の違いを改めて再認識しました。そうしてパートナーの共にのんびりとご飯をつくりながらお酒を嗜みながら。また一緒に新しい年を過ごせることに感謝しながら、おうちで過ごしておりました。
本年の初詣は三嶋大社へといってきました。山梨の神社さんも探してみたのですけど、決め手がなくって。それで周囲の方々に「山梨だと、どこで初詣に行くのですか」と、色々聞いて回ってみたものの。ここがいいよ〜という神社のお話を伺うことができなくって。山梨から静岡へともう一度戻る形で、富士山を一周回って帰って来ました。静岡出身ながら一度も訪れたこともなく初参拝でもあったりしたので。わくわくさんが止まりませんでした。
うんうん。なるほど。頼朝さんに愛されていたようです。
みしまコロッケ。甘くてなめらかでうまいうまい。
もう一つ。三嶋大社は商売繁盛を祈願できるとのお話でして。それも気になって参ったのです。これまでお賽銭と共にその時々のお願い事をしていたわけですけれど。商売繁盛だよなぁとおもって。お願いする。というよりかは。頑張りますので応援してください。というように他力本願から少しずつ離れて、もっと自助努力をしますと。心の中でぶつぶつ唱えておりました。頑張ります。ですので応援よろしくお願いします。はい。
そうそう。参拝した時には必ずチェックしたい。持って帰りたい名物。というか縁起餅。今までは某厄除け団子愛好家だったのですけれど。お初の三嶋神社の福太郎さん。なんとも大ぶり。反り返ったあんこが特徴的。そしてよもぎの良い香り。甘さも控えめなので食べ飽きません。とっても気に入ってしまいました。大事です。
年の暮れから、明けにかけて。毎年やりたいことリストを私は書いています。毎年100個書くといいながら、年々項目は減る一方でなんだか情けない限りなのですけれど。今年の目標の中で特に頑張りたいのは、礼儀作法を学ぶということです。恥ずかしながら私はとってもマナーが欠けています。とっても礼儀知らずです。見ていて気持ち良い行動が取れていないようです。なんとも恥ずかしい大人をまっすぐ進んでいると。ようやく気付いたので。気になって仕方ありません。パートナーに助言をいただいていながら全然改善できていません。これではいつまでたっても子供のままなので。なおしたい。大人になりたいんです。私は。
ということで。お箸の持ち方を正しくするところから始めます。
なにを隠そう。私はスーパー変形、握り箸。食べるごとにお箸が「X(クロス)」します。何を思っていたのか「私は持ち方が全然違うんです」と。
無作法なことを周囲に話しては笑っていたり、自分で宣言しているので許されるとばかりおもっていたのですが。やっぱりこれって見ていて気持ちの良いことではないですよね。今まで親の躾が悪いから仕方がないとかなんとか。そんなことを言って言い訳をしてきましたけれど。さすがにそんなことは言って入られませんよね。他にも寄せ箸、ねぶり箸、かき箸・・・。やっている認識がなくても、実際に身近にいる人はしっかり見ています。よく見ています。もうなんとも恥ずかしい限り。しかし恥ずかしいと認識した私はようやく学べるようになったのです。
指摘をいただいた時の
「そんなのわかっているよ」
という言葉、態度は慎みたいものです。指摘してもらうのも、怒るのもエネルギーがいるわけです。そのエネルギーを跳ね返すのではなく。しっかりと受け取って、取り入れて、改善するところはすぐにできることから直していく。そういった素直さを大切にしたい。
それと反対に無駄な批判にエネルギーを使わないということ。実家に帰っている間に流しっぱなしのTVを見ているのですが。肯定的な意見や批判的なコメントが・・・、ネットが荒れる、「◯◯◯」のような批判が殺到しているようです。なんて言葉がちょくちょくでてくるんですよね。なんだか見ていて変な感じだなぁと思いつつも。自分もNPとかを眺めていたりするので、なんとも言えないところですが。プラスの面もありつつ。やっぱり発する以上に眺めることでエネルギーが吸い取られるような気がするのです。どれだけそこから離れて、目標や、目的のためにエネルギーを使えるのか。その部分も意識していきます。
と。年初めからお堅いお話ばかりでしたが。
みなさまどうぞ。本年もよろしくお願い致します。
はな、のど、おなか。
いや〜大変大変。朝起きるとお鼻がこれでもかと詰まっている。とりあえずお鼻にティッシュをあててかんでみる。そうしてお鼻が楽になったら、こんどはこちらが詰まりに詰まっている。喉はヒリヒリ。何か変、違和感がある。なんとかそのつっかえがとれないかって何度もなんども。
「コンコン!」
なかなかとれない。
「ゴホゴホ!」
ようやく楽になったと思うと、ツゥ〜っと鼻の下に光るものが。
山梨に来てからは、がっつり風邪をひいたことはないし、体調不良ではお仕事は休んだことはないだけれど。先週は本当に辛かった。それくらい数年ぶりに風邪をひいたようでした。久しぶりすぎて。こんなに風邪ってつらかったっけ。喉痛かったっけ。お鼻の下がかさかさになるっけって。余計に辛く感じておりました。
そうして一週間。そうして毎日のように養命酒を一杯ひっかけ早めに寝床にはいっていた甲斐もあってか、ようやく風邪が治ってきてよかった〜と。
そうして月曜日。元気よくお仕事に出るぞ〜と意気揚々と出向いて帰ってきて、もりもりご飯を食べた後。
「ギュルギュル〜」
となんだかおなかが変な感じです。
食べすぎかな?と思って別に気にもしていなかったのですが
火曜日。朝起きるとお腹がチクチク痛い。なんだか痛い。お昼を超えてくると一定の周期でキュ〜っとお腹が痛むんです。これは参ったと、仕事帰りに薬局で胃腸薬をやって服用してみるものの。お腹の痛みは増すばかり。お夕飯のうどんは全部もどしてしまって、もう最悪。早めに寝ておこうと21時前。痛くて目覚める25時。そこからはもう全然ねれなくて一人悶絶。
水曜日。朝はうどんを少し食べてお仕事へ。痛みが始まるとしばらくじっとして痛みが落ち着くのをまつ。とっても風が強くて辛いすももの剪定。お昼はウイダーインゼリーを。仕事が終わる頃にはもう疲労困憊。これはもう無理だと仕事終わりに内科へ直行。流行りの「ウイルス性胃腸炎」とか。そうして点滴を打ってもらってようやく落ち着きました。痛みは残るものの火曜日ほどではなく。なんとか。
学生の時、よく胃痛で何度かかかったことのある病気だけれども。ひさびさにかかると。もう痛くて痛くて。たまらず。こんなに痛いっけ?ってくらいに。
こうしてなんとか一週間を乗り切り。復調してまいりました。とはいえ。一生懸命作ったお野菜を全然口にすることができなくて。なんとも口さみしいかぎり。もうしばし我慢。こうしてみると健康のありがたさがわかりますっていうのがお決まりなのだけれど。年に数回ほど。それくらいでしか体調を崩すことがないのでなんだかかんだで、私は健康なのかもしれません。きっと。
お仕事は冬へと移り変わり。ぶどうとすももの剪定が始まりました。朝畑に行くと日当たりが遅い場所はほんのり白く霜がおりていて。キリッとした外気に自分の吐く息が白くて、消える先に地面がキラキラっと光る様子がなんとも冬だなぁと。周りの山々の色合いをみても冬だなぁと。どこを見ても冬を感じるようになりました。体調を戻しつつ。年内を無事に終えたいところですね。
さて、少し前ですが11月末。人生で初めてある場所に行ってきたんですよね。というかパートナーに連れ出してもらったんです。
そう。シーなんですよ。シー。つい最近できたとばかり思っていたら。もう15、6年以上も前にできていたんですね。これがもう本当にびっくり!周囲にはディズニーに頻繁に遊びに行く方がいるとおもうのですけど。嬉しいことに私はその人たちにはないものを持っているんですよね。
「初体験」ってこと。
人生で一度も行ったことない。だからこそ味わえる楽しさってあると思うのですよね。個人的に何が楽しいってどれも全部楽しくていいようがないけれど。なによりも誰といくかってとっても大事。
中でもあれもこれも楽しいアトラクションやショーを体験してきたのですが。中でもビッグバンドビートが印象に残っています。圧倒的なパフォーマンス。徐々に盛り上がっていく空気。いつのまにか取り込まれていましたようです。って。純粋に夢中になっていたのはトイストーリーマニアだったりして。やっぱりあの手のアトラクション。本気になってますよね。大人も。子供も。
一度体験してみないとわからないっていうのは。本当ですね。それは何事にも。今はわからないことがあっても、ネットやらスマホやら。体験しなくても、体験した人の情報がのっていて。あたかも自分の体験したかのようになっているけれど。結局それってわかっているようで知らないんですよね。人に聞かれて「うんうん、知ってるあれだよね」ってなりがちだけれど。知らないことは知らない。わからないことはわからない。判断する前に体験すること。忘れていませんか?
スモークターキーレッグを噛みちぎる。
さて。こんなに歩いたのいつぶりだろうかってほど、1日中歩き通して朝から夜まで満喫できました。もう一度ゆっくりと訪れてみたいと思わせるのも魔法の力でしょうか。次はいつになるのか。もう一度パートナーと一緒に再訪できればともう次にいく時を想像しています。
わからないゆえの楽しみ
だいぶ冷え込んできましたね。明け方と、日が陰りはじめる16時以降は手袋をしてお仕事をしておるのですが、おててと足先が冷たくなってしまってどうしようもないです。ここしばらくは、葡萄ばたけに堆肥をまくやら、雨よけのビニールの取り外しに勤しんでおります。
秋の色はだんだんと朽ち色に
おうちでは扇風機さんさようなら。ストーブさんいらっしゃい。お湯を沸かすにも、お鍋をあつあつのままに楽しめるのもストーブさまさま。今年はたくさん根菜類を育てているので。ことこと、じっくり。ほろほろ、あつあつな感じで・・・って。想像しただけで舌べらを火傷しそうです。もちろん美味しいのだろうけれど。
そうそう。農閑期に入ってきたこともあり、春から受講している講習会の数も増えてきています。これがまた農務事務所、農学校、農業センターで受けるのですが。なんとも面白いのですよね。わたしの生い立ちには、農業と関わる機会はなかなかないので。土地もないし、土を触る機会が全然なくって。きっと農家さんや、兼業農家さんの生まれや、近くにそういった環境で育った方なら当たり前のことでもわたしにはとっても新鮮に見えるんですよね。
葡萄やら野菜の栽培に関わっているわけだけれども。葉っぱをたくさん虫に食われたり、獣に踏まれて若葉が折れてしまったりしてちょっと悲しい気持ちになったり。時々葉っぱが黄色くなったり、赤くなったり。斑点がでたり。なんでこうなるのかがわからないんです。農家さんに尋ねてみたり、同じ作物を栽培されている人に聞いてみたりして相談したりする。それでもなんかイマイチピンと来ない。
そんなところに、前述の研修で、土作りの話があって。作物が育つために必要な栄養素の話ですごく納得したりする。
窒素
リン
カルシウム
これらは作物のカラダを作るための多少要素であり。特に重要なもののようです。これらの成分は特に欠乏(足りなくなる)と成長に支障が出やすいようです。良くわからないながらも。わたしの周囲の人たちは。「鶏ふんと苦土石灰をまけばいいよ」って教えてもらっていたのだけれど。
これらを補給するための肥料だったりしたんですね。
ほかに作物によっては、鉄、ホウ素、ケイ素。その他の微量要素が不足しやすいなど。その土地どちの地質によって変わってくるとか。
そうして今度は、病気になりやすい環境を知ったりする。なるほどそうなのねって思って。必須成分が欠乏したときにでる症状は、作物のカラダの中を移動しやすい栄養素は下の葉に。移動しにくい栄養素は新芽に影響がでやすいと。とっても分かりやすかった。その後に元素記号やらを示しながら、化学式を出してきっと分かりやすく説明をしてくれているのだけれど。全くもってわからなくてこんがらがってしまう。ここでなんだから化学をまなべる「普通高校」に進学していたら、勉強していたのかもって思ったりする(工業高校なんですわたし。電気やら機械やら)
あの時学べていたら・・・そんなことを思いながら。わかった、わからないを繰り返している。
だからと言って、後悔があったとか。なかったとかそういう話ではなくて。自分に今必要だから学ぶ機会を与えてもらっているんだと思うんですよね。きっと今のわからないというのと、学生のときのわからないということとはあきらかに違うことがあって。きっと学生の頃に化学を学んでいても「将来何の役に立つのだろう」って。おもっていたかもしれません。だから今なんですよね。
唯一ありがたいなぁと思うのは。学生の時つらかった勉強というのは。今のわたしにとって苦痛でなくったということです(特に英語)わからなくても苦しくないし、辛くない。わからないことってありがたいことなのかなって思うのです。
「ああ、またわからないや」
「これはどういうことなのかな」
新しい課題を与えてくれているんです。どうにもならないことも。どうにもならないことを経験させてくれている。うまくいかないのはもうちょっと試行錯誤して見なさいって。そう思えるとわからないことに直面したときに素直に「わからないです」「おしえていただけませんか」って。そのように言えなくなると、その時点で成長が止まってしまうっていう意味もなんとなく。きっとわたしの得意に「知ったかぶり」はここからきているよなぁと。
稲盛和夫さんの著書にもこのようなことが書いてあります。
もうダメだと思ったときが実は始まりで、そういうときはいったん冷静な気持ちに戻って、もう一度今いる場所から周囲を観察し直してみることです。
できないことがあったとしても、それは今の自分にできないだけであって将来の自分になら可能であると未来進行形で考えることが大切です。まだ発揮されていない力が眠っていると信じるべきなのです。
わたしの場合は。もうダメだと思ったときの逃げ腰から解消していければ。
土の話って。果てしない。自然のサイクルを学べているからなのでしょうか。とっても学んだことが「自然」に染み込むようです。なんだか不自然な言い回しだけれど。
紅葉と収穫祭とで
ぶどうは収穫が終わり。のんびりした時間が過ぎています。ぼちぼち始まったお仕事は来年に向けての肥料まきの準備をしております。一週間ごとにやってきた台風の影響もあっておうちに籠もる日々が続いておりましたが。ようやくすっきりした秋晴れが広がるようなり。お日様ポカポカ。気持ちの良い秋を感じながら過ごしております。秋の紅葉を楽しむべく、温泉につかってのんびりしたり、お野菜のお世話をしたり。しばらくできなかったことをちゃくちゃくと。ココロとカラダの静養ができています。
週のはじめは紅葉に染まった長野のとある温泉街へと足を伸ばしました。台風が本州近くにきていることもあって、雨模様でしたが。清流が流れる脇を黄緑、黄、朱色に染まった木々。その中から湯けむりに混じって硫黄の香りがのぼってきて。それだけでなんだかとってものんびり穏やかな心持ちに。正直にいうと、紅葉が綺麗だなぁ、いいなぁと思うようになったのはここ最近のことで。年を重ねれば重ねるほどに情緒を感じるようです。
台風の影響で雨がザーザーだったので最後まで見る事が出来なかったのですが。戸隠神社。その奥社への参道はなんだかとっても神秘的。雨の中霧が立ち込めていて周囲から何かが見ているような気がしてなりません。参道にそって私たち人間の往来をずっと見守ってきたであろう木々がまっすぐ立ち並んでいるのですが、ここまで大きく太くなるのにはどれぐらいの年月を経てきたのだろうかと。それを想像するだけでもなんだか胸が熱くなるようです。
もう一度。季節が変わった頃に最後まで歩いてみたいなぁと。また来年もこうしてのんびり過ごしてみたいなって。パートナーと2人で再訪できることを楽しみに祈っています。
さて、いつのまにか11月に入っているようで。年の初めの1月が過ぎても早いですね。4月になってもう四半期が、 6月が過ぎると半期が、夏が終わると一気に年の瀬まで。いつになっても早い早い。これからもっと早い早い。延々と早い早いとついつい口に出してしまいそうな自分が想像できてこわいこわい。
そうそう昨日は畑でたくさん野菜をとってきて、小さな収穫祭をしたんです。夏の終わりに種まきをした野菜たちがぷくぷく、土の中からこんにちは。大蔵大根、北京紅芯大根、ほうれん草、かぶ、さつまいも、さつまいもの蔓、ごぼう、春菊、パセリともりだくさん。収穫して持ち帰っては、豊作だ〜嬉しいね〜って。幸せな気分になりながらも。やっぱり一度に調理しきれず、食べきれず。テーブルには溢れんばかりのお野菜たちに囲まれ。まさに実りの秋を実感できています。
実りの秋。
実りの秋って言葉はきっと小学校の時に。お米やら、さつまいもやら。学校の行事に収穫祭と称して、全校生徒で自分たちで作ったものを、計画して、調理して、楽しんで作った記憶から定着したように思えて、なんとなく秋に収穫できるものが多いからかなぁと思っておりましたが。ささっと調べてみると。日本人の主食である「お米」の収穫時期が秋であるということからというものだったり、そもそも稲作が始まるより前の人は自然の恵みとしてどんぐりなどの「木の実」が秋に食べることができるからと。様々な説があるようです。
ぶどうを生業にしている私としては、大いに実感する部分でもあります。ぶどうはまさに秋の果物ですから。20日で収穫できるという二十日大根から、植えてからその年には収穫できないすることができない野菜もあり。それぞれに種を蒔いてからすぐに収穫できるものとそうでないものとあるのです。桃栗三年柿八年と。果樹に至っては待つ時間の方が長いものまで。収穫に至るプロセスが長ければ長いほど、手をかけなければいけないし。収穫できた時の感謝の気持ちもひとしおかなって。
果樹は新しい苗木を植えてと、一からスタートすると収穫に至るまではとても年月がかかります。だからこそ大変だとか、無理だとかいわれる場面も多いのですけれど。待つことって一種の楽しみととらえたらまた変わってくるんですよね。私の好きな時代小説には長い年月修行に明け暮れてとか、下働きを数年してのちに〜。大店の主人になったとか、剣術の道場の主になるとか。周囲はそれを時に「我慢」と見える事があるけれど。じっと時を待てる事というのは、将来を信じることでもあると思うし。希望の表れでもあると思うのです。
三年。八年。何かを成し遂げようとチャレンジすることには腰が引けているのに、ずるずるといつの間にか時を消費している自分がいるようで。なんとも恥ずかしいのですけど。自分はいまどこの時点にいるのか。
まだ種をまくところを探しているのか
もう種を蒔いたのかな
お水をしっかりあげているのかな
ちゃんと成長はしているかな
つぼみはついたかな。
・・・・
植物の経過をみていくだけでも。自らを省みる材料になっています。少なくとも私は。
今は様々な分野で技術革新が毎日のように起きていて、それについて追っていくことはわくわくが溢れているようです。じっくり毎日を大切に過ごして、収穫の時を腰を据えて待つのも。それはそれでまた楽しいことなのかもしれません。
さて。収穫祭で食べたサツマイモやらカボチャやら、ゴボウやら。ぎゅるぎゅる、ごろごろ。どうやらお腹にガスが溜まるようです。風船が膨らむようにぽっこりとお腹が膨らんでは抜けて。膨らんでは抜けてと世話しないので(下世話な話ですみません)恥ずかしくてお外にでれないのですが。これも含めて秋の醍醐味なのかもしれませんよ。
ほんのりふりかえり。
今シーズンのぶどうの収穫が先日無事に終えることができました。前回書いたのが一ヶ月とちょっと前。ぶどうの収穫が始まる頃。そして今日が収穫が終わった数日後。ということで。一ヶ月とちょっとですか。春のから駆け足で、ぶどうと追いかけっこをしていたら、あっという間に収穫を終えてしまったような。そんなシーズンでした。自分の野菜畑も広げてしまったので、野菜畑 → 葡萄畑 → 野菜畑 というような形となり、暗いうちにお家をでて、暗くなったら帰ってくる。となんとも健康的な生活ができて。新しい野菜も盛りだくさん。これまでで一番畑と接する時間がながかったかもしれません。
今期一番のピオーネ。
また、新規就農者の研修も紹介してもらって、月に1、2回程度参加させてもらえることになったので、こっそり参加していてですね。そちらのほうも前期が終了ということになりました。これまでは果樹の基礎知識やら、野菜の土作りについてだとか。それにコミュニケーションについての実習やら。CTIの認定の講師がいらしていて。なんだかワークをいくつか行ったのですが、なんだか若かりし二十代半ばに色々参加していたことを思い出しました。
近況はこんな感じ。とりあえず、しばしの休息となります。
少しだけ。今年は農作業を通じて色々と思うところがあったので。少しだけまとめてみたいと思います。
「気をつけてね」「注意してね」
一度は誰かにかけたことのある言葉ではないでしょうか。しかしこの言葉をかけたのちにその「気をつけてほしいこと」「注意して欲しいこと」が実際に起きてしまった場合どうでしょうか。
「あれほどさっき気をつけろっていったのに」
この流れありませんか。もちろんですが、私は何度もあります。
何事もそうなのですが。ある作業を始めてする方に対して教えるというのは大変むつかしいんだろうなぁと。何度か教えた作業に対して、及第点まで持っていけない場合を何度か見かけることがあったのですが、その場面でなんどか「ん〜。それはちょっと・・・」ということがあったんですよね。
「何度もいってるよね」
「さっき言ったよね」
「ちゃんと聞いていないとダメだよ」
この言葉を聞くとなんだかなぁ〜って思うわけですよね。
ただただ教えを受ける側の問題になってしまっているのです。
もちろんその場合もあるともは思いますが。
「教え方に問題があるかもしれない」
「説明の仕方がわかりにくい」
「もしかしたら、受け取られ方が異なっているのかもしれない」
教える側をみてみるとこういうこともあるかもしれません。結局教えが完璧すぎて、付け入る隙がない。そうすると教えたことほころびがでないように、それに固執してしまう。そうすると「私は間違っていない」という風に。教えているはずなのに、自分を守るための方便になってしまう。実は教える人はよく見られています。行動をすべてよく見ています。「あの時こう言った」って。悪い部分を見つけることがうまくなってしまう。相手に問題があるようなそぶりが見えてしまうと、それは跳ね返ってくるんです。「あなたにも問題があるじゃないか」それほど、見られるようになってしまいます。行動に一貫性がないとなおさらに。。
これにプラスして「語気を強める・荒げる」「ぐちぐちいう」なんてことが重なってくると、どんどんやる気を失います。とまあ、これは私自身の経験なのですが。なかなか前職ではなんとも力不足でよく大きな声で社長からご指導をいただいていて、周囲の方に大変気を使っていただいてとても助けていただいた経験があるのですが。私の場合は最終的には萎縮しちゃったのですよね。そうして、これが積み重なっていくと「こうなると怒られる」「何も話さないほうがいい」と結局、何事にも言われたことだけをやる。そんな具合の悪循環。一番成長したのは社長の気配を感じること。足音でわかりましたから。今思えばなんとも冷や汗ものなのですが。
人生で私たちが大切にしているものを達成できなければ、時間管理をどんなにうまくやっていたとしても意味がない。
最近あるオーディオブックを聞いているんです。
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うん。なんだか。ね。
年内にあと何をしよう
ぶどう関連では、雨よけのビニールの撤去、草刈り・肥料まき、粗切り剪定と言ったところ。
野菜畑にもせいを出そう。
野菜畑では、年内に残りのサツマイモの収穫。菜花系の種まき、白ネギ、玉ねぎ、にんにくの定植。葉物野菜が一巡したので。もう一度ほうれん草、小松菜などを植えようかなとこっそり。あとは生姜の収穫のタイミングが全くわからないので。どうしようかしらってそんなところ。
あとは、空いた時間で少しはお出かけをほんのり計画を。忙しい合間を縫って、支えてくれたパートナーにも少しでもお返しができれば。それにしても本当にお出かけをしなくなってしまいました。ちょっとは出向かなければと。ここしばらく内向きの志向は働きすぎて、なんとも自分探しの天才にはなったと自負しているのですが、探し回るだけで結局見つからず、もう飽きてきたので。そろそろ違うことを見つけられれば。
扱いづらいやつ
急に夜が肌寒くなってきましたね。毎日扇風機をまわしっぱなし、換気扇をまわしっぱなし。窓は年中開きっぱなし。どうしたら部屋にこもった湿気を追い出せるかと。冷房設備のない私は格闘しているわけですが、どうしたことか。昨夜は寒い寒い。なんだか急に秋めいてしまった感じでした。毎年自分の周囲を見渡してみると夏の終わりの寂しさを感じることが多いのだけれど、めっきり寒さよりも暑さの方がカラダには厳しいようで。ようやく過ごしやすい季節がやってきたなぁとワクワクしております。秋生まれというのもあるのかもしれませんが。
そうそう私の地域でもようやくぶどうの出荷が始まります。今年はぶどうのお芽めが出るのも遅くて、例年より遅れていた物がそのまま尾を引いてここまで来てしまった感じでスローな感じ。梅雨後はめっきり太陽を拝める日が少なくてやきもきしておりましたが、天気もようやく回復して良い感じにぶどうも熟していくことでしょう。またそう推移していることを祈っております。
野菜畑には、ようやく秋蒔きを開始。葉物から根菜類を中心にセレクトしているけれど。今回初挑戦なのは大根さん。ロメインレタスさん。特に大根さん。ホームセンターで種のコーナーを眺めていて。うん。これがいいなって手に取ったのが大蔵大根。根の先までどっぷり太っているので煮物にぴったりだなぁと。もちろんうまく育てることができればというところですね。なにやら枝豆の後に植えると肥料いらずで、肌の綺麗な大根が取れるということでそちらへ。枝豆は莢がついたところで実が入らずなくなく抜いてしまったのですが。その分大根さんが育つといいなぁと。
加えて、野菜畑用にHPを立ち上げているのですけど。なんともHTMLなんて専門学校で少しだけかじったくらいで、なんともコードを書くのって大変よね〜なんて感じで、サイトを作っています。畑のレイアウトとかをイラストに起こしたりしているのですけど。こう実際に図にしてまとめてみると、改めていろいろな野菜を作っているなぁと。どこかで読んだ本にも図にまとめなさいとか言ってたっけ。そうやって時間を気にせず、楽しんで作れている自分がいるので。楽しいことなのでしょう。
さてさて、ぶどうの収穫が始まる前にパートナーと一緒に静岡に出かけて行って。私の妹の相手をしてきました。里帰り出産ということで。実家に妹が帰ってきているのです。姪っ子も一緒に実家にいるとのことだったので。姪っ子共々連れ出して、某市内の大学の公園へと行ってきました。私を仲間はずれにするなと呼んでいない末っ子の妹まで出張ってくる始末で、意図せずして兄姉妹甥姪が集合しているのがなんとも仲の良さを物語っているようです。
木陰は涼しい。
ちょうど芝の整備中でメインの広場では遊ぶことができなかったのですが。整備されている公園の木々の日陰のしたで、ご飯を食べたり。やっぱり蝉の抜け殻を探したり、ボール遊びをしたりとのんびりした時間を過ごすことができました。こう昔からある場所で何回も出かけている場所なのですが、子供から、大人になっても訪れることができるというのはやっぱり市民の憩いの場なのですよね。こうした場所があり続けることというのはとっても大事で。昔はあそこの場所で遊んでいたなぁとか、蜂に刺されてぎゃん泣きしていたなぁって。なんだな懐かしい気持ちになるものです。
いろいろな話をパートナーとしているのだけれど、よく私を見てくれています。特に内面の部分をみて、いつもいろいろなことを指摘してくれます。私が場を繕っていたり、適当なことをしたりしているとすかさず。時には苦いこともあるけれど、こうやって自然体で過ごしているせいか、ようやく自分に気づき始めているんですよね。数年前まではいろいろな本を読んだり、自分はこうなんだ。こうしなくてはならない。そんなことをブログでも書き連ねながら、わかったようなようなそぶりをしていたんですけど。
「見つめ直すことができました」
とか、もうやたらめったら書いていた気がします。
ここでまた「本当の自分」と書いてしまうと、またあっちの方に飛んで行ってしまいそうなので控えますが。昔の自分も、今の自分も、未来の自分も。すべて自分ってことなんですよね。本当の自分なんて探してみて、まったく変なことを行っていたなぁと。その気づき始めているってなんですかって。昔から変わっていないところ。
変わっていないところというと、怠惰な自分、決めることができない自分、片付けできない自分、肝が小さいところも、格好つけの部分もってなんだかネガティブな感じが出てくるけれど。それが自分なんですよね。とてつもなく弱い感じ。一人では何もできないことも全部わかっているけれど。できる風にしてるのも知っている。
そんな風だから、周囲のみんなは暖かく見守っていてくれていたんですよね。私に合わせてくれていた。うまくいって自分のおかげでって思ってきたことも。すべてフォローしてくれていたんです。両親も。兄弟も。おじじ、おばばちゃん。そして友人から、関わってくれるすべての人たちが優しかった。
だから私は色々やってる風できっと何もやっていなくて。動いていなくて。だからきっと私は昔から扱いづらい人間だったんだって。妹も「兄ちゃんは癖があるからなぁ」とか言っていましたしw そんな私の話を聞いてくれる。気を使ってくれる人がいたし、今もいる。本当に幸せなことです。
どうしたら周囲の人を幸せにできるだろうかと、よく考えます。少しは世の中の人のために恩を返し始めたいですよね。プラプラしている私ももう少ししっかりできるでしょうか。とりあえず明日は、小松菜とチンゲン菜を蒔こう。