ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

週末ぽてわいん

葡萄畑は芽傷処理が一通りすみました。私の地域は山梨の中では生育が平地に比べて2、3週間遅いのですが、じわりじわりと葡萄の水揚げが始まってきています。暖かい陽気とともに、葡萄だけでなく、草や木、山全体が目覚め始めているようです。畑で仕事をしていると、目、耳、鼻だけでなく、五感すべてで季節の訪れを感じることができます。そうして私の身体も目覚めていく。

 

 

先週末は三連休だったようで。皆さんはお休みをいかがお過ごしだったのでしょうか。全国的にも天気は良く行楽日和と、お出かけされた方も多かったのでは。私は日曜からお休みでしたが、大きく分けてじゃがいもの植え付け。ワイナリーへのアテンドと駆け回っておりました。

 

 

 

ささぽてのはなし

  

時々話題にあげていたジャガイモを日曜日に植えきることができました。アンデスメークイン、男爵、キタアカリ、インカのひとみ。総勢6kgのジャガイモを植えました。2週間くらいかけて土作り、耕起、畝づくりとやってきて、最後は種芋を配置して土を被せていく。畝を1本立てるだけでも1時間くらいかかるし。種芋を配置して両側に肥料を配置して・・・とそうしていたらあっという間に作業時間は24時間は上回ってしまう感じ。雨の日は除いて、週に5日くらいで、平日は仕事終わりに2時間くらい。週末に4〜6時間くらいと考えたら・・・、おお。良く自分でもやったなぁと。

 

 

とにかく毎日鍬を振るっていたので、毎日が腕がパンパンでした。鍬を振るっている時にはうわぁ、腕がきついなぁ・・・となると、休憩して周囲の山々を眺める。少し腕が休まったらまた鍬を振るうと。今日は結構はかどったなぁと、帰り際に畑を見渡すと、以外と進んでいないのですよね。う〜ん。今日はがんばったのだけどなって。そんな時とこう思ったりもします。

 

「なんで仕事終わりに、こんなたいへんな作業をしてるのかなぁ」

「ここまで広い畑じゃなくてよかったかなぁ」

 

なんてことがふと頭をよぎることがあるのですが、始めた時はアンデスメークインを2kgだけ買ったのですけど。もともとかりている畑に植えると夏野菜が植えれないので、どうしようかなぁと思っていたら、あてがあったので話を聞いてみたらスムーズに話が進んで畑を借りることとなり。意外と広かったので、じゃあ他のじゃがいも植えようかなってなったのです。

 

 

だってね。ホームセンターにたくさんの種類の種芋が売っているのですから。たくさん並んでいると全部植えたくなってくる。欲がどんどん湧いてくる。こうして私の心は種芋売り場に囚われていたようで。追加で残りの4kgを買ってしまったわけです。なんとも単純なお話です。週末はパートナーにも手伝ってもらったので、なんともスムーズ。単純に作業が分担でできるのもそうだけれど。「疲れたね〜」って言えるだけでどれだけ楽で、どれだけ捗るか。

 

 

遠くへと観光しに行ったりするのももちろん楽しいし充実するけれども。畑仕事していても楽しさは変わらないし、充実できている。普段忙しいから、頑張っているからとかいうご褒美とか、息抜きとか。そういった理由では日常と非日常の境目がはっきり分けてしまっているかのよう。毎日楽しいが苦しいより勝っているのもいいと思うんです。日常をどれだけ楽しめるかで全然生き方が変わってくるよなぁと。こんなことをいうとポジティブに考えれないとかいわれそうだけれどw

 

 

ワイナリーをぷらぷらぷらり

 

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シャトーメルシャンにて。

 

私は行く先々に山梨のワインを持っていくことが定例なのですけど。飲んでもらった後に興味を持ってもらったり、ワインが好きな人には。こんど山梨来る機会に声をかけてくれればアテンドしますよ〜と。お酒を飲んでもらって、自分の一緒に飲んでいて、嬉しくなっていつも言っているのですが。今回は例に漏れず。塩尻で何度かご一緒されていただいた写真家さんをつれ回させてもらいました。

  

 

www.lumiere.jp

 

www.rubaiyat.jp

 

www.chateaumercian.com

 

GRACE WINE

 

www.kurambon.com

 

案内する時は当然私がすーぱーはんどるきーぱー。山梨のワイナリー間は歩いて回るとなると、なかなか距離があるのでやっぱり移動手段は考え所。景観を楽しみながら歩いて回るのも楽しいですが、試飲を重ねていくとどんどん歩くのが億劫になっていく方が多いと思うので。ムムムッって感じ。ツーリズムの時にはバスが出るのでいいのですけど。やっぱり人がたくさんいるので、のんびりとは見て回れないと。そうすると専用の観光タクシーかしら。

 

 

 

ずっと見守っていたのですが、試飲の量で25杯くらい飲んでいたので。途中で心配になってしまいましたが。その甲斐もあって?何本か気に入ったワインもお持ち帰りいただいたので、なんともこれもまた嬉しい。こうやって案内をして少しでも楽しんでもらえただけで、幸せな気持ちになりますから。

 

 

味の傾向から。品種やら、醸造方法だったりと好みの傾向が人それぞれ違って面白い。自分が注目していなかったものを発見できたりと視点が広がりますから。またそこから、今度来てくれた人にはどうしたら楽しんでもらえるだろうか・・・とか。また知見を深めたり、研究しようという気持ちになるからいい循環に入っているかのよう。

 

 

こうしてみると、自分は「人のために〜」「自分のためである」という面が強いのだなぁとつくづく。自分が一番気持ち良いし、幸せな気分になるのですから。だから過去を振り返ると、あの時周囲の人のためになったなぁと思ったことであっても。実は自分の私心の方が強かったなぁと省みることもあるわけで。

 

人のため ≧ 自分のため

 

みたいに。自分の私心が抜けきる姿を想像できませんから修行がまだまだ足りないようです。

 

 

とまあ、なんとも久々に色々な話をお酒を飲みながら聞くことができたので。とても楽しい時間を過ごすことができました。なにより訪ねてもらったのが嬉しかった。ちょっと私も夜は連日お酒を飲んでいたので。また日常の摂生に戻って、いつかの週末に備えて体を養生したいと思います。

じゃがベター

先週までで、促進剤を撒き終える事ができました。しばらく天候は曇ったり晴れたりの繰り返しですが、確実に暖かさを感じます。お日様がてっぺんに来る頃には、上着はお役御免で、シャツだけで十分な気がします。それはそうと、久々に葡萄棚の上の方をみながら、常時首を横に倒しながら仕事をしていたので、肩と首がパンパンなんです。この時ばかりはもうちょっと自分の背が低かったら楽なのになぁと思うくらいに。とりあえずいつも思う事は、身長が高い人は棚仕立ての葡萄にはむきませんよって話で。うん。

 

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 種いもカット。

 

さて、最近は仕事終わりと週末は畑仕事に精を出しています。普段は葡萄を見上げていて、アフターと週末は畑で土を触っていると。なんとも理想的な半農半農で結局、農をやっているという事で理想的な積極的休養です。今ハマっているのはジャガイモ。新しい畑への定植作業を進めています。植える数は多分100個前後くらいになりそうです。

 

 

水が近くにないので、手間のないジャガイモのが正解。使っているのは100均のシャベルと、鍬で。一時間弱で畝溝が一本できるくらい。鍬で2往復くらいしながら掘り起こして、その後にシャベルで土をすくい上げる作業の繰り返しです。数10分くらい鍬を振り下ろしたり、あげたりしているだけで、もう腕がパンパン。その度に休憩して、再開してってそんな感じで。

 

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畝が大変。

 

いやぁ、はじめはちょっと広い畑を借りすぎたのかなぁと、パンパンに張った腕をさすりながら思ったものですけど。自分で借りるって言い出したのだし。せっかくのいい機会だからと自分に言い聞かせては、鍬をもう一度拾い上げて振り上げていきます。一日目は100均のシャベルを使っていたのですけど。全然土をすくうことができなかったのです。もう腕が疲れてくるとなかなか効率もあがらなくて最後の方は閉口してしてしまいました。

 

 

今日は畑にいく途中にコメリさんによって、たくさん土をすくうことができる片手のスコップを買ってきました。これがまあ前のシャベルに比べて4倍くらい土を書き出せると。なんではじめからこれを使わなかったんだろうかっていうくらい。でもこれもやっぱり、はじめに非効率な事をやっていた経験が前日にあるから余計にありがたく感じる。小さな違いだけれど、こんな発明した人はすごいなぁとも思うわけで。とっても感激。

 

 

それでも鍬を振る作業だけは変えようがなく。私の細い腕を酷使しながらやっていくわけですが、これまた不思議で、何度も繰り替えてしていくと、無駄な力が抜けていって(というか力が入らない)、効率も上がっていく。コツがわかってくる、負担が減ってくる。みたいに経験値が溜まっていくんですよねぇ。面白い。そんな事にもなんだかありがたみを感じながらやっていったら、結構作業は進んで。今日までで畝は6本まで。そのうち3本にアンデスメークインを植えて作業を終える事にしました。

 

 

新しいスコップを購入してすごい〜って私が言っているわけですから、現代はいろいろな便利な農機械やら、よく分からないですけどITだかIoTとかあるから効率的な生産が来ますとか、それによってみんなハッピーだし、労働力不足が解消されるとか。そんな風な話を目にしたり、聞いたりする事が多々あります。まあなんとも良い時代なんでしょうって。

 

実際に一人、人力に頼って畑仕事をしているから思う部分ですが、機械とかなかった昔の人たちはなんともすごい働き方をしていたんだなぁと思います。私が好きで見ていた絵時代劇とかみていても、農民の人はとりあえず質素で小汚く見える衣装を着ていますし。劇中の主人公が宿場町から宿場町への移動するときの背景にはだだっ広い畑があって、ぽつんぽつんとくわを振り下ろしている人がいたりしますから。今見たら、こんな広い畑なんてできないよなぁとw 天候に左右されるのもそうだし(今でもそうですが)種だって自分たちで収穫した中から来年の分を蓄えていたようですし。

 

「中国での一人っ子政策に隠れて、農村地帯では〜・・・」

 

なんて話もあるように、生きるためには労働力が欠かせなかったのだと思うと。今はいい時代なのだろうし、先人たちがそこから少しでも生活が楽になるようにと、たくさんたくさん工夫をして、働いて、努力をして。そして想像してきた世界が今なのでしょうね。

 

 

とっても便利で、幸せな世界。

 

 

でも、全然そうは見えないんですよね。世の中が。農業だけをとっても、昔に比べて本当に楽になったり、生産量が上がったりしてとってもいい部分が盛り沢山なんだろうけれど。農業についてはなんだかイメージが大変だとかっていうのがほどんどでしょうし、やたらと大規模で〜法人で〜、新規参入しないとダメだとか色々意見がたくさんあるのに進んでいくスピードって遅いんですよねぇ。またそういうと、昔ながらの慣習があるからとか、閉塞的だとかではじめるんですけど。結局知らない人がそんな事を言ってるだけなんですよね。単に面倒臭いことはやりたくないから。

 

 

世の中はいつのまにか面倒臭いし大変なことだらけになってしまったように映ります。何をやるにも面倒臭い。本当に面倒くさくて、誰もやらなくなっていくものって価格って上がっていくとかおもったり。どんどん規制が厳しくなって、消費者の都合に合わせていく。そうしてよく分からないままに、手間ばかりが増えていって、結果それが返ってきているように見えるんですよね。

 

 

格差がどうとか言っているけれど。知らぬ間に面倒臭いことから解放されている時点で下にはいないんですよ。だってすっごく守られている「消費者」なんですから。程度は様々でも。「消費者」側の都合なんじゃないかって思うんですよね。今のもっている便益を誰しもが手放したくないから。便益はそのままで負担はさけたい。だってとにかくみんなみんな大変だっていうんですよ。「大変だ」って。

 

 

と、鍬を振っているだけで。こんないろいろな事を知る事ができるので。いい運動になって、健康にもいいから、みんなで野菜を作りましょう!

 

 

というようにはならないのでしょうけどw

 

 

ジャガイモを植えているときに、小学校の時の全校生徒のグループ活動のときに、さつまいもを植えた事がふと浮かんできました。さつまいもの苗を植え付けるために、畝をたてたり、苗を等間隔で配置をしたりしていた楽しい思い出が。お膳立てをして、低学年の子に「苗はねこうやってうえるんだよ」って一丁前に、教えていたりとか。秋には収穫祭があって、一斗缶くらいの大きさの窯に、収穫したさつまいもを濡れた新聞紙で包んだ上に、アルミホイルを巻いて。みんなで焼き芋をするのが恒例行事だったのですよねぇ。

 

 

あの時はものすごく楽しかったし、全然大変なイメージはなかったのですけど。あの時の華美に装飾していたイメージが強いからか、おかしいなぁ。こんなに大変な作業だったんだっけ?と繰り返しなかなか進まない畝作りを目の前にして息を切らせていました。多分小学校の時。低学年の子をお膳立てしていたように、私たちは先生にお膳立てをしてもらってたんでしょうね。先生も大変だったろうなぁ畝作り。ただただ頭がさがります。

 

 

初夏にはこっそり小さな収穫祭で、小さく騒げればいいなぁ。

吹いてきた風

春めいてきましたね。氷点下になる日があるかないかくらいまできているので。今はぶどうの芽に促進剤をまいて、冬の眠りから覚めてくださいよ〜と綺麗に休眠打破するように作業をしています。しか〜し。今日はなんとも風が強かった。何度もなんども自分の顔に液がふりかかってくるので、メガネが霧吹きで吹かれたかのように、ずっと視界不良でした。

 

 

そんな中急に吹いた突風に、アニメのように帽子が風に飛ばされて、農業用水路にぽっちゃりして、数メートル流されたところで急いで足を突っ込んで、帽子を引っ掛けて拾うことができて一安心。長靴はこんなとき助かります。なんとか帽子が戻らない旅に出るのを止めることができました。ということで、もしかしたら、春一番なんじゃなないのかってくらい風が強かったです。はい。

 

 

今日は仕事から帰ると、新しく開いた口座のキャッシュカードが届いておりました。しばらく離れていたのですが、ほんの少し、余裕ができてきたので投資の方も再開しようかなぁとか思ったり。そんなこんなので投信のラインナップとかみているけれど。私が始めた頃に比べるとだいぶ投資もしやすくなっているし、昔では考えられなかった少額で積み立てができたりと。なんとも便利な世の中だなあと感じます。四月に入れば仕事も徐々に忙しくなってくるので、その前の空いている時間でなければできないことはいまのうちにですね。

 

 

荷物のつながりではないですが。ヤマト運輸さんの話題が所々があがっていますよね。送料無料が当然だった流れの中で、急に吹いた風のよう。私は好きで、小倉さんお本をいくつか読ませてもらっているので。なんとも前に本に書いてあった事象とちょっと似ているかもなぁと思ったり。過去にこういったことも克服してきているのだから、今回もきっと乗り越えていくんだろうなぁとも思っています。

 

 

私もネットで買い物をすることは日常でよくあるので、運送会社さんの不在票が挟まっていることが普通にあるのですが、仕事終わりとなると17〜18時くらいに連絡をして。

 

「この電話以降は家におりますので、そちらの配送の都合に合わせてで結構ですから」

 

荷物の受け取り時に

 

「お手数をおかけしました。ありがとうございます。」

 

 

そうして後ろ姿を見送るのが精一杯な感じです。今の人々の生活スタイルにあった形であれば、昼間は家に人がいないのが当たり前のようになっているので、やっぱり夜に配送をお願いしたいとも思うし。「昼間の配送をやめて、夜に配送すればいい」なんてことも言っている人がいるわけですけど。あなたの都合、あなたの生活に合わせてあげる利便性の対価も考えなくてはとも思います。ただ飯はないともいいますし。

 

www.nikkei.com

 

 

数年前の「フリー」から始まって、「シェア」などのワードは今や当たり前となって、私たちの生活に馴染んでいます。いつのまにか、便利で当たり前になって、何も考えることなくその恩恵を享受している。そんな生活を送っている側には見えない世界がどんどん増えているかのようです。どんなことだってそうで、何か問題が起こった時には関心がそちらへと向いていくけれど。結局一時的な物なんですよね。みんな楽な方に流れていく。実家や友人のおうちでシャワー浴びるだけで、ありがたみを感じる私の環境は、いいことなのかもしれません。

 

 

 

農産物に関わっているので、食に関してだけでも。農薬は体に悪い。化学肥料はよくないとか色々いうけれども。そんなことをいっていたらスーパーに売っている綺麗な野菜をあの価格で買うことなんてできないわけですし。今度は野菜が高いだなんだって言ったって、それなら自分で作ればいいわけです。野菜だって種から植えて、栽培の管理もしっかりして、手間と時間をかけているわけですから。そのリスクなどを全て折ってくれているのが農家さんだと考えたら。もっともっと対価を払ってあげてもいいんじゃないかなぁとも。端くれ当事者ですが、そう思う部分もあるわけです。

 

 

もうしばらくたちますけど、前職で食品会社に勤めていたとき。食品の表示で消費者が分かりつらい。栄養素を知りたい。原料がどこから来ているのかを知りたいという。食品会社であれば、法律にのっとって、それを守りながら製造、販売をしているわけですが、そんなことを言っても、原料の原産国が書いていない。なんでこの添加物を使っているんですか。なんで◯◯の栄養表示が書いていないんですか。ってことも。

 

 

こういったときに、どれだけ自分たちが便利な世の中にいるか考えてみるのも面白いかもしれません。別に大きなことをではなくて、日常生活から見渡してみる。

 

 

スーパーに行けばなんでも揃います。

 

 

スーパーにいくと、入ってすぐに綺麗な野菜がたくさん並んでいます。ほとんどの物は土がついていません。大きな野菜はカットされています。旬に関わらず食べれる野菜も多くあります。しばらく歩いていくとお魚が並んでいます。どこかの港で水揚げされた魚が数時間後にはもう並んでいます。私は綺麗に魚をおろすことができませんが、すでに三枚に下ろされたお魚があります。お刺身があります。精肉コーナーには様々な部位のお肉が綺麗にスライスされて並んでいます。自分が食べられる分だけ買うことができます。

 

 

これも多くの人の手を介して、自分の元にやってきているんですよね。自分じゃない人がやってくれるんです。やりたいこと以外ことは他の人がやってくれてると思うと。頭がただただ下がります。だからみんなとっても自由な生き方ができる。私が今こうしてブログを書いている時間もあるわけですし。食べ物を自分で作ったり狩りに行ったりしなくはならなかったら、もうこの時間は明日のために寝ているはずです。きっと。

 

 

 

最近は、なんでもかんでも責任がない分、なにかの出来事やら問題やら出てきた時に。ネット上では、建設的な意見が書かれているように見えているだけで、こうしろああしろって意見が幅を占めていて、結局何も変わらない。そんなことをする前に、できることは

 

「自らを省みる」こと

 

振り返るきっかけにして。自分のできることをする。少し気を使うだけでもなんでも。そうした小さな変化が増えていくことできっと未来が良くなっていくと。よくしていけるとそう思いたいものです。

 

 

先週末に野菜の種を植えました。

 

アンデス(じゃがいも)

小松菜

春菊

小蕪

 

こうして種を蒔くときには、気持ちがとってもワクワクします。種を蒔くと必ず収穫できるという想像をしていて、頭の中ではどうやって料理をしようか、食べようかとかもう頭の中は思考が行ったり来たり。こうしている時間がとっても幸せなのかもしれません。こうして種を植えても収穫できないこともありますが、それは寂しく、悲しいけれど、次は何を植えようかなと次へと想像が進んでいます。

 

 種を植えているとき軽トラのおじいちゃんが話しかけてきました。

 

「にいちゃん何作ってるの〜?」「野菜は作るより買う方が安いぞ〜」

 

って。そのあとに。東京からきたにいちゃんが農家をやり始めた。あそこは儲かっている。手広く桃をやっているぞ〜って色々とお話したあとに。

 

「みんな作るのが楽しいから、やめれんだろなぁ」

 

と言って、風のように去っていきました。

 

そう。作るのは楽しい。やめられんよおじいちゃん。

 

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お水はたっぷり。

 

スーパーマン的な。

ちょっとお休みができたので、ふらっとお出かけをしたり、もろもろの片付けをしたり、畑をかき回したりと。のんびりモードです。2月末で春めいてきたとはいっても、風が少しあるだけで寒いなぁ寒いなぁと、ついつい口に出してしまうので、ますます寒いってなっていくのですが。しかし、天気が良い時に表に出て歩いているだけで、背中はポカポカするし。空気は澄んでいて。この時期ではない爽快さを味わうことができます。

 

 

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 四柱神社。街中の神社さんとは。なんとも不思議な空間。

 

 

 

そんな中。ちょっとした空き時間でNetflixで見ていたんですよね。

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

 

ちょっと前の映画だったとは思いますが。いやぁ、なんとも壮大なスケールで、アクションもすごかった〜と。人並みのような、どこかの普通の感想に落ち着いてしまうのが常なのですが。強大な力を持つ物の苦悩って、一般目線からでは見えないのですよね。一方にとっては助けになっても、その反面では加害者になってしまうといったように。現代では、富の偏在にもなんか似ているなぁとも思えて。なんだかなぁって。

 

 

 

ヒーロー物って見るのは好きです。特定のキャラクターや映画が好きっていうのはないのですけど。ついつい見てしまうのですよね。とはいっても私の子供の頃のヒーローって、子供の頃についつい見ていたのは、平日の夕方にやっていた水戸黄門の再放送から始まり、大岡越前暴れん坊将軍御家人斬九郎剣客商売なり、鬼平犯科帳だったりして、時代劇小説への道へと進んでいったわけですが。

 

 

ん〜ちょっと違うか。

 

 

スーパーマンってとてつもなくチートな能力があって。一部の弱点を除けばほぼ無敵なわけなのですけど。その能力の中で数百万人の中から一人の声を聞き分けることができるというところに目がいきました。この能力。無条件に悪い声も良い声も聞こえてしまうとしたならば、どうでしょうか。(意図しなければ聞こえないのかもしれませんが・・・)しかも自分には力があるわけです。そうなると動けば救えるわけです。逆をいえば動かなければ救えないと。

 

 

人を救うか救わないか。選ぶ自由はあるけれど。人々を救わないという選択をした場合。動かないでいるだけで、救えない人たちの声ばかり聞こえるわけです。それもずっと(老化とかあるのかな?)別にそんなの気にならないぜ〜って思っても、毎日のように悪い声ばかり聞こえていたらどうでしょうか。とりあえず私は耐えることができません。じゃあその立場にいたらどうするかって考えたら、動いて。助ける。ここにたどり着きそうです。

 

 

なんとなく私がスーパーマンだったら〜の話をしてしまったけれど。スーパーマンにはなりたくなぁと(なれないけどね)スーパーマンとは違えど、「スーパー」◯◯な人はたくさんいるんですよね。誰かが取り上げた瞬間に、いつの間にか広まっていって。スーパーになってしまっている。皆に能力と、その存在を知られているんですよね。そしてそのスーパーな人に祭り上げられてしまうし、その人の様になりたい人もたくさん出てくる(さすがにもう窓から飛べるはずだって飛んじゃう人はいないと思うけど。)

 

 

その期待もエネルギーに変えられるひともいるけれど。全てのひとはそうではないんですよね。スーパーになってしまうと。スーパーな期待があるから。勝手に期待されるて、どんどん周囲が期待へと傾倒してしまう。そうして勝手に祭り上げた人たちは、勝手に評価する側に周って支持となって、そのスーパーな期待が外れてくると、途端に不支持となることも。(私の主観です)

 

 

書いているだけで、スーパーマンは大変そうだなぁとなってしまいました。

 

 

しかしラッキーですよね。そこまでスーパーマンのように聞き分ける耳がないから。知らないで済む世界があるし、それで悩むことはない。だから結局何者にもならないし、なれないことがわかると、どれだけ軽くなるか。楽に行動できるか。スーパーマンになろうとしないで、人間でいるということが一番能力を発揮することができるし、スーパーな◯◯のようにならないで、自分という存在があるだけで幸せなんです。こっそり良いことも悪いこともできちゃうのですから。するかどうかは別としてw

 

 

自分ができることを、皆がやっていけば。スーパーマンは役割を終えることができる。スーパーな人がずっと存在しているということは、もしかしたら一人一人がやれることをやっていないから。依存しているから。からかもしれません。変な表現かもですが、スーパーな人の居場所を作らないことが、実はスーパーな人のためになるのかもしれません。目立ちたい人は別だけどw

 

 

 

私はなんで時代劇に走って行ったのだろうっていうと、そこには人間味というか、人情というか、その時代に生きていた人たちのリアルが伝わってくるような気がするからなんですよね。 決まって、いつも誰かが犠牲になってしまうし、救えない人たちもいる。はかなさとかともあるけれど。それでも未来に向かって良くも悪くも進んで行く感じがなんとも。

 

 

と、ごめんなさい。スーパーマンについてはにわかで、知ったか。ちょっと見ただだけで書いてしまいました。あしからず。

トマトケチャップ

一週間とちょっとくらい。トラクターに乗ったり、ブルブル腕を震わせながら畑の耕起をしておりましたが、一通り終えることができました。ぶどう畑は同じ地域とは言っても数キロ圏内で分散しているので、様々な畑を耕起するのですが。どの畑も全然感触というか手ごたえが違うんですよね。単純にいえば、耕しやすいか、耕しやすくない(土が硬いとか)なわけでなのですが、土だけとっても個性があってまた面白いなぁなんて。

 

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とは言ってもお硬い畑が多くてですね。なかなか機械の刃が入らないので難航しました。前日冷え込んだ畑。長年耕起していない畑。あまり草を刈らない畑。こんな畑はなんとも力を入れても、なかなか耕起できなくて。表面上の浅い部分だけがほんのちょっと耕された程度。人それぞれ耕起、不耕起って好みはあるのだろうけれど。地面ってこんなに固くなるんだなぁと、実感しながら黙々と作業の毎日でした。

 

 

 

耕起するというのは、固まった土、表面に生えている草なども丸ごとかき回すわけで。酸素とかが供給されていいみたい。ある意味単純作業なわけですが、ぼーっと作業をしていると、なんだか自分の凝り固まった頭と、そこに生えていた雑草たちが見事にかき回され、耕されたような気がしてしまい。いろいろな知識を頭に入れるのは、なんだか肥料ばかりあげているようで。なんだか栄養過多。その栄養をたくさん吸い取ってくれる種をもっと蒔かねば。それとも苗を植えるのか。いろいろ考えさせられるような気がしました。とりあえず今できるのは深呼吸で脳に酸素を送ることくらい。

 

 

考えていても腕と、機械は黙々と地面を耕起していって。耕起した畑の上を歩くとふわふわというか、足がすこし沈むくらいにほぐされて、柔らかくなっていて。なんだか嬉しくなりました。それに反して、年に一度の作業で慣れないからか、肩と首周りが徐々に徐々に凝り固まっていったようで。ずっと重い感じです。葡萄の棚の下で中腰で屈みながら、耕運機を抑える分、土は柔らかくなっているはずなので。これも心地よい疲労感なんでしょうか。

 

 

 

そうそう、ここまでのお話は葡萄ばたけのお話で。野菜畑の方も稼働し始めました。前年に植えているものは、にんにく、たまねぎ、ほうれんそうの三種類なのですが。まあなんともほうれんそうは、大きくなる前に雪に当てられてしまったせいか。成長が芳しくなく。ちょっと厳しそう。にんにくとたまねぎも前年に比べるとちょっと勢いがないかなぁのそんな感じ。

 

 

今年はジャガイモから植えようと思っております。すでに種芋は用意済み。ということで、こちらも一生懸命耕起してきました。始めにスコップで全体を掘り起こして。そのあとにレーキできれいに整えてきました。堆肥はまいてあるので、あとは石灰を撒くだけです。なんやかんやで野菜畑は三年目なんですよね。素人野菜ですけれど。

 

 

去年はちょっと多くできた野菜は、ご近所さんにあげたり。親しい友人に押し付けがましく送ってみたり、兄弟に送って。その反応をみて。なんとも自己満足に浸っていたわけなのですが。もうちょっとレベルアップしたいなぁとも。私の悪い癖は、とりあえず面白そうな苗があったら買ってしまう。必要以上に植えてしまって、消費できなかったとうことでした。特に空芯菜ゴーヤちゃんは結構たくさんできてしまって。食べきれない感じになってしまったので。反省反省。

 

 

今のところ、大玉のトマトさんは一度も収穫したことがないので。今年は収穫までいきたい。収穫前に落果するか、青虫さんたちのご飯になってしまって。なんとも苦い思いしかしていないので。とにかく収穫をしたい。そうして今年は自分でとったトマトでケチャップをつくる野望を抱いております。ケチャップ。ケチャップ。ケチャップ。というか。それが至上命題でして。

 

 

とは言っても一様意識はしていないけれど。無化学肥料、無農薬でやっているので。ある程度は許容しておりますが。あまり欲を持たない私も。もう2年連続で失敗していると。欲も出てくるから不思議ですね。みなさん自分で野菜畑を始めるとのめり込む理由がわかります。私はちょっと早いかもだけど。

 

もうちょっとだけ。野菜畑が稼働するまで猶予があるので。のんびり楽しみながら年間の栽培計画を立てたいと思います。続きは夢の中で。明日はナポリタンかな。

癒されにやってくる

いつの間にか厳しい冬はあっという間に過ぎていきました。日もどんどん長くなり、なんだか心なしか春がすぐそこまできているような。そんなことも畑で作業をしていると体感覚で感じることができます。前年の末から始まった剪定作業も一息つきまして。毎日畑を耕運機やトラクターで土をかき回しています。いつも以上にのんびりした作業なのですが、作業後に耕起された畑が耕される様子を見ているだけで、なんだか嬉しい気持ちになってもきます。

 

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かき回すのは楽しいよ。

 

最近はありがたいことに良きことがたくさん続いています。よきパートナーに巡りあえたり、デザインのお話をいただいたり、妹が無事に出産できたこと、久々に東京にでむいて静岡時代の友人。同郷の尊敬する友人ともお酒を酌み交わせましたし、新しい縁にも恵まれているようです。まるで去年までの閉塞感は何処へやらといった感じです。こうした気持ちになるのも、おぼろげながらその閉塞感のなかで自分を見つめ直している機会があったから一入に感じます。そうそうワインセラーも新しくなってしまったし。

 

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おむすびも、ただただおいしい。

 

自分を見つめ直す。結局、この問いはどこに向かっていくのかというと、自分は何のために生まれてきたのだろうか。何をしにやってきたのだろうか。そんな考えても考えても深みにはまっていきそうな事柄に最終的にたどり着くんです。やりたいことがないのも、なんか毎日がつまらないのも、仕事がうまくいかないのも。そこから徐々に派生していくのは結局そこ。そこから深く入っていくとここにたどり着きました。

 

 

人生は魂の修行の場所

 

 

ここについては私が語るまでもないので、興味ある方は紐解いて行っていただければと思うのですが。私自身として、そうかもしれないし、そうでもないかもしれない。でもよくよく考えるとそうかもしれないなぁという感じで受け取っています。少しでもそうかもしれないって思えた瞬間から、あの時の大変だったこと、苦労したこと、悔しくて、悲しくて泣いたこと。それら全てに意味があったように思えます。

 

 

そうすると、今起きている目の前のことに意味を見いだすことができます。受け入れることができます。ただ目の前に巡ってきた事柄に対して、快不快、良い悪い。そんな気持ちの壁を介さずに、まず素直に受け入れることができます。そうすると目の前に起こっていることには意味があるのですから、自らの成長の糧にすることができます。と、私はちょっとスピリチュアルな感じが部分があるので普通に感じているのかもしれませんが。

 

 

そうそう。神秘十字?

 

友人の彼女さんに手相を見てもらった時に、なんかあるみたいなんですよね。ご先祖様に守られているとかいないとか。精神世界と相性がいいとかなんとか。おばばちゃんだといいなぁ。

 

 

・・・と話がそれました。

 

 

ここまでは、ありきたりに本を読んでいることを、消化不良のまま自分のことのように話しているだけのようにも思えるのですが。なんとなく自分のなかで見えてきたものがあります。なんで生まれてきたのか。

 

癒し、癒されにやってきたかな。

 

なんかそう感じることが多くなっています。

 

ある人は、生まれてきた時。親を選べないといいます。

またある人は、私たちは親を選んで生まれてきたともいいます。

 

 

生まれてきた時から親の元を離れるまで。それまでは癒す側にいると思うのです。

だから親元を離れるのが遅いのも、早いのがあるのもなんだかわかる気がします。

離れられないのではなくて、他に理由があるのかもしれません。

 

 

離れた後は、今度は自分が癒される側へ。

 

でもそちら側へ行くのはなかなか難しい。だから迷ってしまう。手を差し伸べられても素直に癒されことができない。認めなくないから。

 

それは自分も知らないような、知らぬ間に受け取っていた負債というか、業というかわかりませんが。気付かないんですよね。時折不安になったり、突然恐怖に襲われて逃げてしまったり。どうもうまくいかない。でもそれは自分が弱いからとか、意気地が無いからとかいったように解釈され、周りから頑張れとか、克服しろという圧をかけられたりして、結局は我慢の方向に進むこともしばしば。

 

 

でも、実はそういった負の気持ちになる機会というのは気づきのチャンスだったりもする。だからよくよく考えてみると負の感情が何度も湧いてくるというのは、それを癒すタイミングでもありそうです。だって何度も繰り返していれば、これはなにか他に理由があるのかもしれない。って、思う機会が増えますから。

 

 

子どもの頃学校の階段というなんとも恐ろしい映画を観に行ったのですが、もう怖すぎて顔を覆い隠すのですが気になって指の隙間から見ているんです。だって気になるから。クマヒゲさんとか、むらさきババアとか。その話はいいとして、顔を覆い隠した手の指の隙間からでもいいから、少しだけ覗いてみればいいんです自分の内側を。覗いてしまえばこちらもの。気になってしまえばいい。(ちょっと強引かもw)

 

 

ありがたいことに、私にはそれを気付かせてくれる人が身近にも、少し離れたところにも、遠くにも。嬉しくなっちゃいますね。時には普通に話をしながら、時にはふんわりと。時には厳しく。たびたび苦しくなったり、悲しくなったりすることも多くあるけれど。それは初めだけで、隠れていた自分を思い出すようになってきます。そんなことを繰り返していくうちに、顔にも笑顔と明るさが戻って行っているようです。なにせ行きつけのお店とかで「いつもはこんな感じではないんですよ」雰囲気が違うと多くの場所で言われるので、きっとそうなのでしょう。

 

 

人生は癒しの旅なのかもしれません。

また変わるかもしれないけれど。

少なくとも今の私はそう思います。

 

 

そんな明日は大切な人の誕生日です。

小さくお祝いしながら眠りにつきます。

人生で一番嬉しかった日

ぶどうの剪定作業は終盤に入りつつあります。週の頭は雨が降った事もあり。今日は空気に程よく湿り気があり。ちょっと早いけれど。冬の厳しさではない。これも俗に言う三寒四温にあてはまるのかもしれないけれど。私にとってはなんだかいち早く春の訪れを感じたような気がしました。

 

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昨日の雨で日陰の積雪はすっかり溶けてしまいました。

 

 

どうにもならないこと、どんなに頑張っても覆すことができないような事に出会った時。みなさんだったらどうしますか。代わってあげたいけれど、代わってあげる事はできない。助けたくても励ますしかできない。ただただ時間だけが過ぎていく。気持ちばかりが焦って、どんどん追い詰められていく。そんな大切な人を失うかもしれないという恐怖ほどに強大なものには今まで出会った事がありませんでした。

 

将来への不安、お金への恐れ、ここままでいいのだろうかという焦り。何かをしなくてはいけないというような恐れ。そんなものは全然比じゃない。自分が動けばなんとでもなるようなことは恐怖でもなんでもない。

 

 

人生で初めてその場に対峙した私は、ただただ祈る事しかできませんでした。大丈夫。きっと大丈夫。よくなるから大丈夫。寝る前に、朝起きてから、仕事をしている時でも。ずっとずっと「大丈夫。大丈夫」「きっと大丈夫」そうやって悪い想像が頭をよぎるたびに必死に必死に口にだすんです。そうやって相手のために祈っているけれど。本当にただただ自分に言い聞かせているだけ。それ以上でもそれ以下でもなく。無力な自分をただただ感じるしかありませんでした。

 

 

そうして最終的にたどり着くのは「後悔だけはしないようにしよう」という気持ちだけ。あれをしてあげればよかった。こんな言葉をかけてあげたかった。「◯◯しておけばよかった」という事はなくそうと思って。少しでもいい思い出を作ってあげようって。あの人はこんな人だったよっていってもらえるように。その一心でやれる事をやるんです。

 

 

 

 

そんな時。心の支えになったのは太陽の力です。

 

明けない夜はない

 

どこかで聞いた事のあるような。何かの本に載っていたような。一見ありきたりのような言葉だけれど。日が昇ってくるたびに希望を感じるんです。夜には不安や、心配事が少しでもあるとどんどん増長されていく。考えないようにしよう。いい事を考えよう。そうやって湧いて出てきた小さな光も、たちまち闇に飲まれてしまう。そんな事を繰り返しているといつの間に眠りについている。けれどふと目がさめると明け方には遠い日をまたいだくらいの時間。そうしてまた眠りにつけずに悶々とする時間が延々と続いていくようです。

 

 

それでも外が明るくなってきて、部屋にも日が差し込んでくると希望が湧いてきます。大丈夫なんだという気持ちに確信が持ててくるから不思議です。

 

 

今日は審判の日でした。朝からずっとそわそわしながら待っていました。「大丈夫。大丈夫」と繰り返しながら。今日はとっても綺麗な快晴で。青々とした空が広がっているのに。気持ちがそれを素直に受け取りません。ただただ虚しさだけが私の心を覆っていくかのようでした。そうやって悶々としながら仕事をして昼下がりに差し掛かろうとしたときに。その審判が下されました。

 

 

「生きられる」

 

 

この言葉を見た瞬間に。今まででにないような感謝の気持ちと、普段は思っていないのに「神様ありがとう。仏様ありがとう。みんなありがとう」と、「ありがとう」という言葉をなんどもなんども繰り返し口にしていました。そうして次々と頬を熱く流れていくものがありました。普段は涙なんてぜんぜん流さないのに。流さないと決めているのに。ただた嬉しくて涙が止まりませんでした。

 

 

小学校のとき。とっても怖くて厳しい担任の先生に言われたことがあります。私は怒られると反射的によく泣いていました。そうやって怒られて泣いているたびにこんなことを先生が言っていました。

 

「男はな。悔しいとか悲しいとかで泣くんじゃない。男が泣いていいのはな、本当に嬉しいときだけだ。死ぬまでに何度もあるもんじゃないんだぞ」

 

そうやって最後は優しく諭してくれたのを覚えています(めっちゃ怖かったけど)

 

 

今日はその人生の中、数少ないうちの一つだったようです。一生忘れることのできない日です。

 

 

世界は心の投影

 

 

しかし恐れていたことは起こりませんでした。

 

運が良かったのか、はたまた自分が引き寄せたのか、もうそうなるように決まっていたのか。考えれば考えるほどわかりません。しかし起きたことは必然であるのであれば、私に何かを気づかせるためにこの機会が与えられたのでしょうか。ますますわかりませんが。今日ほど感謝に満ち溢れた日はありません。

 

 

今の自分なら、どんなことでも、苦労でも乗り越えられる。できるような気がします。

 

今日という日にありがとう。

全ての人にありがとう。

生きていることにありがとう。

 

 

本当にありがとう。