ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

逃げ癖

のんびり剪定作業をしていたら、いつの間にか一週間過ぎていたというところでしょうか。昨日大寒だったこともあって、だいぶ冷え込みが厳しく感じますね。畑にいるときに吹き上げる風も乾いて、肌を刺すように感じます。この山梨くらいじゃぁ、まだいいのでしょうけど。おかげさまでおうちに帰ると寒いので、早々に寝床に潜ってしまいます。起きているとただただ灯油を消耗しているだけのようにもみえますから。

 

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頭は冷えひえ

 

最近は頭と手足先が冷えてなかなか眠りにつけないからか、よく夢をみるんですよね。あんまし自分は夢をみることは少ないのですけど。よく見るのよね。ここ数週間ずっと。夢の内容はまちまちで覚えていたり覚えていなかったり。でも意外と昔の情景の断片がちょいちょい顔を出しているようで。夢をみた次の日なんかは、畑で剪定をしながらそのことを考えながらってことも。

 

 

 

小学生の頃、地元のサッカー少年団に入っていたことがあります。入った理由は忘れてしまったのか、もう今はわからないけれど、小学校の1年生のとき入団したんですよね。自分からやりたいと言ったのか、親が何かしらの意図を持っていれてくれたのか。あんまし自分って習い事で続いたものって少なくて。自慢?できるのは習字が8年くらいで、ちょっとばかし字がうまいってことくらいで。それに次ぐのがサッカーって感じ。特段その話にならなければ、サッカーをやっていましたってことはいうことはないです。

 

 

でも小学校6年生の時に辞めてしまったのですよね。ちょうど父親が単身赴任で東京に行くことになってお家の負担が増えるから。ということになっておるのですけど。いやになっちゃったんですよね。自分が下手くそだったのか、楽しくなかったのか、周りとの競争が辛くなったのか。逃げるようにフェードアウト。まあなんとも意気地なしなことって。今も変わらず意気地がないというか、体の細さに比例して、肝が小さいままなようで。

 

 

行きたくなくてというのも、徐々にそうなっていったというところでして。過去には行きたくなくて、お家で寝たふりしたりとかしたりしてたんですけど。それが続くと、まあ親父にはすげー怒られて、脅されてみたいな感じでなんとか行かせようとしていたみたいなのですけど。まあ泣きながら次は行くからって言っては、また一度休むと、二度休むと。みたいになって。またひどく怒られて。それを見ていたおばばちゃんになんどかばってもらったことか。その光景は未だに鮮明に覚えていますから。

 

 

そんなことが続いていると、当然自分のやりたくない気持ちよりも、恐怖が勝ってくるんですよね。親父に怒られたくないから我慢してサッカーをやってたみたいでしたから。当然そんな理由でサッカーをやるようになると、まあうまくならないですし。練習にも身が入らないんですよ。もう最後の方とか練習早くおわんないかな〜ってずっと思ってたようにも感じますし。でもね、親父が怖いから辞めることができないんですよ。辞めるなんて言ったらどうなってしまうのかって。続けるのも辞めるのも選べないから少年の私は辛かったと思います。

 

 

だから、ちょうど父親が単身赴任でいなくなるっていうのは、ラッキーだったんですよね。辞めても怒られることはないし、外から見れば前述の通り親の負担だからっていえば辞めれそうな気概がありましたから。結局正式に辞めたのは、練習にずっと行かないって言い続けて、最後の最後に母親に「あなたどうするの?サッカーやめるの?」って聞かれて「やめる」って言って、母親に少年団の人に言ってもらって辞めた。と記憶してます(あってるかしら)

 

 

今思えば、そこから何かをやるというのも、辞めるというのにもはっきりしないような癖?が付いてしまったようにも思います。ずるずる引っ張る性格というんですか。おかげさまで?社会人になってからはだいぶ苦労をしまして。失敗したときには全然動けなくなってしまって、対応が遅れてしまったり。それが続いてしまうと他の仕事にも影響が出てしまう始末で。もうなにやってるんだねって感じで。しかし相当当時の社長さんにかなり厳しくしていただいたようで(周りは心配なくらいに怒られていたそうな)

 

 

かなりきつく当たられたとしても、大丈夫な耐性がついてしまいました。なおかつだいたい相手の顔色とか、雰囲気とかを見れば、今日の機嫌とか、調子の良し悪しがなんとなくわかりますから。(というか察しているので臆病なだけかw)なので、いいのか悪いのかわからないけれど。よく私は「上からひとを見ている」「行為を指摘せず、人格に当たる」「とにかく声を荒げる」という人にはどうも今でも抵抗が出てしまって。「苦手だやぁ」って、友人に漏らすことが時々あるかと思いますが。これもその原体験の一つなんでしょうね。

 

 

なんて、畑で一人考えているわけですから。そりゃああっという間に1日過ぎちゃうわけれど。結局最後には「まいっか」ってところなんですけど。きれいにまとめれば、「だから今の自分があるんだなぁ」って場所へたどり着くので、私は毎日幸せなようです。今日も平和でありがとうですね。

 

 

本当に困っている時に助けてくれた人のことは忘れないといいますが、こうやって小さいながらにも絶体絶命って、もうだめだって思った時に、助けてくれたおばばちゃんのことは一生忘れませんもんね。その後もいろいろな時に助けてくれた人がたくさんいるけれど。こうやって思い出したってことは、ちょうどその人たちにあって、感謝を伝えるタイミングなのかもしれませんね。

 

 

って勝手に解釈して。今日も夢の中に入っていきそうです。

あなた、わたしの「良し悪し」

や〜。とにかく日陰は寒い。風がビュンビュン通り過ぎていくので、手先は冷たいというか痛いです。自然と身を縮めてぶどうの剪定作業をしています。今は俗に言う強盗マスクもとい、防寒マスクをつけておりますが、とにかく鼻水が出てくる出てくるで。お鼻をチンしてはマスクつけ、またお鼻をチンしてってどんどんお鼻の下が赤くなってくるので、顔を洗った時とクリームを塗った時にピリピリするのです。寒い日の仕事はいやだよなぁとか、よく口に出してしまうのですが。これはこれで冬だなぁという実感があって。こんな寒い日がないと「全然冬っぽくないよ」っていうし。寒いければ「暖かければいいね」って話になるので。ああ生きている感じがするわ〜って、四季があって本当に良かったなぁと思うわけです。

 

 

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いつもお前は服にこだわってるよね〜。センスいいし。いやいや、ファストファッションもいいんだけどさ。服ができるまでには問題があるって知ってた?劣悪な労働や、低賃金。環境問題やら、いいことは一つもないってさ。洋服の原料だって大量生産したものだとか。そんなものを使った洋服をきたくないよ。あなたは身に着けたいと思う?

 

 

ここのレストランさ。自家栽培で有機栽培だって。体にいいから安心だよ。農薬や化学肥料は体に悪いし、環境に良くない。やっぱり体にも環境にも良い有機野菜を食べたほうがいいよ。この前TVで見たんだけどさ。とにかく添加物とか遺伝子組み換え食品は良くないんだって。でもさ、そもそも食品表示にそれが書いてないんだよ。おかしいよね。あとさ〜狭い小屋に閉じ込められて育った鳥や豚や牛さんはストレスがかかっているらしいくてさ、廃棄食品から作った飼料を与え得ているところもあるって。やっぱり放し飼いのものがいいよってやってたよ。

 

 

最近はみんな家を建ててるね〜。やっぱりそういう年齢になったってことか。でもさ、新築のお家ばかり立てたがるけれど。この前新聞にこれから人口が減ってくるからどんどん空き家が増えるってさ。今ある住居をもっと大事にすればいいと思うんだけど。昔から残っている建物を大事に使えばさ〜。いやいや、今はどこで地震が起こるかわからないから、古い建物は危険だからやめたほうがいいと思うなぁ。

 

 

なんともわざとらしく書いているけれど。衣食住のお話。学生の時に初めて聞いた「衣食住」。人間とは切っても離せないもの。だからこそ、これに則した仕事に就けば食いっぱぐれないよなんて。就職難だった高校生の時に言われたような、言われなかったような。確かにこの3つは人間にとってなくてはならないものかもしれないけれど。人によって関心の度合いが違います。

 

 

   > 

 

多分私の場合で考えてみると。こうなるだろうなぁって思うんです。食が一番上とはいってもあくまで関心って部分で。別にすごくお金をかけているわけではないけれど。毎日ご飯作っているし。自分で野菜を育ててることもあって独り身の同年代の方々と比べたらちゃんと?しているほうだとおもいます。また前職は食品会社でしたし、今は農業を生業にしているわけですから自然とそうなるのかもしれませんが。そんなわけですから。私に「衣」「住」の部分について熱く語られてもそこまで関心が持てないかもしれません。

 

 

関心を持っている分野については人に「これがいいよ」「あれがいいよ」っていうのだけれど。なかなか理解してもらえなくて。また、逆に言われる立場になって「これがいいよ」「あれがいいよ」って言われた時に素直に受け取れないことがあったりして。なんだかなぁと思う時が時々あります。またSNS上に続けざまに関心のない情報やリンクを貼られているのを続いているとを疲れてしまうことあります。

 

 

ただの関心ごとの違いだよって言いつつも・・・例えば「衣」について。環境に優しいブランドの話を伺って「お〜なるほど、私もちょっと気にかけてみようかな」なんて思っているところに。別の機会でとりあえずご飯はファストフード。「だってさ野菜って高いから買わない。そもそも野菜ってなんでこんなに高いんだろうね〜」なんて何気ない話を聞いたり「なんで割り箸ないんだよ、嫌なんだよねこういうの」

 

ん・・・。「人の手を使って作られたものがいいよ」なんて言ってたのになぁ。環境問題に関心持っててすごいなぁって思っていたけど、ここは全然気にならないんだwってことがあるかもしれません。というか過去に何度かありました。だからと言って、全ての分野で理想とされるものを満たすのはハードルが高いし。そもそも関心のない分野の継続は難しいから。そこから唯一離れることができるのは、これは良いよ。ではなく。これは私が良いと思っているからこうしています。ってことだったり。その人自身の魅力ってやつかなぁと思ったり。

 

 

ってなんの話をしているんだってところなんですけど。どんな時でも自分が何かしら精力的に取り組んでいて、良いことをしているという実感があったとしても似た感覚を持っている人、関心を持っている人からはそう見えているが、それ以外の人たちにはそうは見えていないことは往々にしてあって。私がよく思ってしまう、内輪だけで楽しくやっているように見えてしまうことにもつながるのかなぁと。

 

 

じゃあどうしたらってところで、私には日頃よく聞いている「理解してから理解される」(7つの習慣)ってところしかでてこなくって。あなた方のやっていることに関心を持ちます。持っています。ってところがスタートかなぁと。私の話を聞いてよ、聞いてよでは、いくら人当たりの良い人も閉口してしまうでしょうから。そうして話し上手は聞き上手とかっていいますし。私も受け取り側として意図せずして期待値を勝手にあげてしまうことがよくあって、変に肩透かしにあった気分になったり、がっかりしてしまったり。枚挙に暇がありません。

 

 

 

人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ。

 

鬼平犯科帳 谷中・いろは茶屋

 

 

いつも以上ににまとまっていませんが「外でからみると、そんな感じには見えないのにね〜」なんて話題がちょうどあって、よく働けばギャップとして好意的に捉えられる一方で、反動として「そんな感じの人だったんだ〜」ってなることもあって面白いなぁと感じています。ますます長谷川平蔵さんの懐の深さを感じてしまいます。

 

私の周りでは風邪が流行っております。温かくして体調を崩されませんように。

思いの静かなエネルギー

今週から本年のお仕事がスタートしました。正式には火曜日から。なんとも仕事始めの前日から、私の住む地域では大雪警報がでるくらいに雪がしんしんと降る始末で。仕事をやるぞ〜という気持ちとともに出鼻をくじかれてしまいました。なんともそれがよかったのか、肩の力も程良く抜けて。年末に作業をしていたときのようないつもと変わらない気持ちで良いスタートを切れた気もするのでそれはそれでまたいいかな。

 

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雪からの照り返しにひんやりした風がここちよい。

 

 

さて、年末年始にいつも書いている今年のやりたいことリスト。遅ばせながらチクチクと手帳に書き込んでいます。毎年同じことを言っているのですが。やりたいこと100リストということで。それくらい書いています。私はある著者さんの影響で始めたのですが5年以上は継続できていると思います(遅れてるからできてないのか)やってみたいことはさることながら、ご無沙汰・会いたい人を書き込んだり。小さいことでは捨てるだとか、買うだとか。一人お家の中でニヤニヤしながらペンを走らせています。私の場合は別に100個埋めることができなくても、思いついたら年のどのタイミングでも書き足すようにしています。それくらいの気楽さがあるとストレスなく書けるような気がします。

 

このリスト。近頃は公の場といいますかSNS上で目標やら、やりたいことを宣言をするという人もいて。おお〜やるなぁ〜と遠目でみている自分がいます。やはりいろいろな人の前で宣言するというのは、自分に良い負荷といいますかプレッシャーがかかる部分があって。それで実現しやすくなるとのこと。また、周囲の人の目に入るので目標に対して手助けしてくれる人、一緒にやるよ〜って言ってくれる人など縁に恵まれることがあるかもしれません。

 

 

私も若かりし頃に酔っ払っているときに「俺は◯◯するぞ〜」なんて、偉そうに大口を叩いていたり、お前なぁ人に飲めって言ってる割に飲んでないじゃんかよ。こいつにボトル入れてよ俺が払うから。飲めよこれ。とか。まあ、調子にのっておりまして。いつの間にか今の現在の状況に至っているので不思議なこともあるもんだ〜って。あながち嘘ではないなぁと思うのわけです。

 

 

しかし、やりたいことリストについては別で人には明かすことはありません。絶対に明かさないというわけではありませんが。少なくともその年中には明かしません。単に臆病だからというのもあるかもしれませんが。外に漏らしてしまわないほうが私の場合はいいような気がします。実際に書いてあったことが実現していることも多いですし。何よりも知らぬ間に実現していたってことが多いのです。

 

 

ある人は、人に公にする一方で反対に人に言わないということの静かなエネルギーの強さをあげています。一度言葉にするだけで達成するためのエネルギーが逃げてしまう。人に言いたいけれど言えない。言いたいけれど言えない。これが大きなエネルギーを生むとも言っています。ある意味周囲からのプレッシャーの代わりに、自分の中の自分に言い聞かせるということなので難しそうですけど。

 

 

それができる人は周囲の目は関係ないですし、評価は関係ありません。周囲に言われるから、目が気になるからやろうとは違って、ただただ自分との約束があるだけです。前述した静かなエネルギーというのは、無駄なエネルギーを使わないということも言えるかもしれません。私にはこれをやるぞ〜ってよりか、あら・・・いつのまにか実現してる・・・。方が気持ち的にも楽ですから。(ほんと意気地なしなんです)

 

 

こうしてなんとなく継続はできているのですが、年々書いていると面白いことに無駄な項目が減っていくんですよね。洗練されていくといいますか。前はなんとなく、これも書いちゃえ、あれもかいちゃえって。まあとりあえず書いていたのですけど。今は過去を振り返りながら、あ。これ毎年書いてるけど実現しないなぁ。これは多分書いてもやらないなってものがわかるんですよね。意識が伝わって紙に書かれる前にとまります。

 

 

そういった項目ってなんで実現しないのだろうか〜って思って眺めて理由を考えていると、2つくらい思うところがあって。もしかすると書いている時から「実現しないだろうなぁ」って思いながら書いていたか。もしくは、実は実現しないほうが良かったことかもしれない。って思うことにしています。また実現していたら、現在はどう変わっていただろうかと思うと。今の現在はなかったなぁと思うことはしばしばで。ん〜こんがらがってきますね。

 

 

まあ、グダグダと書いてしまいましたが。結局はほどほどに。頭ではなくて。とにかく手を動かす。そうやって色々と考えないですらすらすら〜っと書かれたものが、自然体で一番実現しやすいのかもしれません。皆さんは今年のやりたいこと。いくつありましたか?

ご褒美のためじゃなく

いつのまにか松のうちが明けてしまいそう。皆さんはどのように年を迎えられたのでしょうか。私は年末は静岡でゆるりと過ごさせていただきまして、母上にお願いして録画してもらっていた鬼平犯科帳ファイナル」をひとりでのんびりみておりました。池波正太郎先生の著書は一通りみていたので、一人感慨深い気持ちなりながら画面をみておりまして。キャストの皆さまもずいぶんお歳を召されたなぁと。最後にはこれでおわってしまうのかと寂しい気持ちになってしまいました。

 

年明け早々にしばし旅に出ておりました。というか連れ出してもらいました。行きたかったワイナリーにもいけましたし。日本海側のおいしい海の幸やら料理やらもいただく事ができて、つられるように夕方からはお酒を飲んでは、朝起きてその土地土地の名所を歩いてみては、思いを巡らしておりました。やはり訪れた事の場所にいるとなんといいますか、多くの刺激とともに一種の興奮状態になるようで、車で移動をしている時もとても楽しめました。

 

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能登半島から日本海

 

 

いつかも書いたけれど。どうも私にとっては日本海側は異国で。車で走っていると方向感覚がおかしくなります。ナビの地図上で上に海があるのはどうも慣れないのです。静岡出身の私には右側に海があるときには東京方面を向いているし。左に海があれば名古屋方面とこんな感じで。だから?なのか余計に異国感。太平洋側にお住いの方はわかってくれる人がいると思いたい・・・。やたらと異国感を強調しているけど。沿岸の国道を走って海を眺めているとなんかこの景色は見たことあるかも、地元のあの街に似ている。って景色が重なる場所もあって。城下町で海が身近にあるだけでなんだかんだ親しみを覚えずにはいれませんでした。

 

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武家屋敷跡。静岡にはあんまし残ってない感じ。 

 

今回は別にイベントに参加するわけでもなく、人に会いに行くわけでもないし、目的もない。本当の骨休めと言える旅で。とてもとても楽しかったです。しかしなんといいますか。今の自分にはもったいないなと思ってしまいました。それは自分が周囲と比べてあまり頑張っていないからなのか、休耕期でそこまで働いていないからなのか。よくわかりませんが。

 

これまでは

 

「しっかり頑張っているから、ここまで自分に◯◯をしていいだろう」

 

って許可がでていたように思えていたけれど。それはちょっと違って。ただただ自分は普段苦労している、ここまで頑張っているのだからと甘やかして与えていただけかもしれないなぁと。全然たいしたことしてないのに。しかし、毎日を大切に、充実させて過ごす。また小さな楽しみでも喜びでもいいので。幸せだなぁと思える瞬間が身近にあるだけで、甘やかす必要ってなくなってきて。必要以上に自分に与えなくてもよくなってくるようです(少なくとも私は)

 

 

そう鑑みて、今の世の中っていつから休日って概念にビタッとハマってしまったのかと。みんな似たように週末にどこかにお出かけして気分をリフレッシュとか、自分にご褒美とか。充電できたので明日からまた頑張れそうですとか。ん〜。なんだかそれがリフレッシュするのが働く目的になっているようにも見えて。私はそれは求めていないのだろうなぁって。果たしてもっと私自身が頑張ればそうなるのか・・・。「それは価値観の違いだよ」って言われてしまえばそこまで話ですけれど。

 

 

 

たまたま新潟から富山へと向かう道中である土地を通りました。なんだか建物とかが見るも無惨な姿で、こんな街初めて見たよなぁと思いながらここはなんていう街なんだろうと、交差点の標識を眺めてみると。糸魚川との文字が。糸魚川・・・。なんか聞いたことがあるようなないようなと。記憶を辿ってどこでみたんだろうかと思ったら。年末の大規模火災に見舞われてしまったのだ。と思い出しなんとも悲しい気持ちになりました。画面を通してみるのと、実際に現場をみるのでは受ける印象も違います。

 

 

今回の火災の原因などは私は詳しく知らないのですが、近年で大火と言われるものは久しくなかったようです。一昔前の江戸時代では数年に一度は大火と呼ばれるものがあったようで、それは木造の家屋でそれが密集していたわけで、火事が起こりやすく、いったん火がつくとどんどん燃え広がるので、鎮火するのはとても困難をだったと。鬼平の話ではないけれど。わざわざ役に”火付”盗賊改方とついているように。火付けは重罪で。火付けは市中引き回しの上、火あぶりの刑か死罪を言い渡される場面が何度か出てきますから。遠い昔の話と思っていたけれど。火事の恐ろしさを改めて感じました。

 

 

さて、こんな風にな〜んも考えないで年末年始を迎えてしまった私。毎年年末に書くやりたいことリストをまだ書いてもいません。ようやくそれに気づいた私は本屋さんに行って、ようやく手帳を買い求めてきました。周囲の皆は新年の挨拶に多くの目標を抱えているのをみて。私も書くぞ〜というようにはなかなかなりませんで。なかなか筆が進んでおりません。

 

今週末は都心に出向こうかと考えておりましたが、なにやら天候が雨だか雪だかで。お出かけはしないほうがいいとの暗示かなと思ってしまったので。お家にこもって作業をちくちく。ようやく郵便受けに入っていた年賀状をみたのでそのご返信と。手帳にやりたいことやら、会いたい人リストやら。のんびりあせらず、書いていこうと思います。

 

そんなこんなで今年もよろしくどうぞ。

無理をしない

山から下ってきたら、毎日のようにお酒をのんで、いつもよりカロリーのある美味しいものばかり食べてる。それも夜遅くまで。なんとか1日だけはうどんとかお茶漬けとか食べておうちでリセット、ゆっくりできたのだけれど。なんだかカラダがゆうことできませんね。ただただカラダを休めたい。そんな感覚に陥っています。それは年齢のせいかもしれないし、生活リズムのくずれ、いや普段食べないお肉や魚を食べてびっくりしているのかも。

 

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たくさん飲みました。

 

 

いつも同じように食べ過ぎた飲みすぎた〜と言ってはいるものの、久々に友人たちと話をしていると若い頃の話をしては、ああだったね。こうだったねとずっと話が尽きないほど盛り上がります。みんなそうだと思いますが。そうして楽しく年末はお酒を酌み交わしていたのですが、ふとした時に「あの時◯◯してくれた事で自分は変わったんだよ」なんて事を言われました。それもたまたまなのか最近何度か重なりまして。

 

 

自分は何もしていないなぁとか、社会の役に立っているのだろうかぁなんて、思いにふける事がよくあるのですが。ああ、知らぬ間に自分は周囲の人に影響を与えているんだなぁとつくづく実感しました。なんだかそれだけで救われる気がしますね。また、それに恥じないような事を自分はしないといけないなぁとも。

 

とまあ、そんな気づきがありつつ。美味しいご飯を食べるのも、いいお酒を飲むのもとっても楽しいことなのだけれど。それもほどほどがいいわけで。美味しいものを食べてるのに疲れたとか、気持ち悪いとか言っている自分を目の当たりにすると。もう気持ち悪くなるまで飲まないって、何度も決心しているのに、なんとも人間って同じ事を繰り返すなあと、毎回トイレに顔を近づけてにらめっこしながら思います。

 

 

 

さて、今年をなんとなく振り返ってみると。

 

 

まぁ〜無理をしなかった。

 

本当にこれにつきました。

 

「無理をする」というのは人によって定義が違うと思うので。あくまで私の基準で書いてみると。

 

第一にぶどう栽培に対して影響を与えてしまうことはしないということ。そして無理をしているな・・・。と思った瞬間に、その行動をしないという選択をまずはとるようにしていました。いつも「やっぱり◯◯に行きたい。参加したい」って感情がでてくるのですが、行くか行かないか悩んでしまうと私は「いっちゃえいっちゃえモード」になるので、無理をしないという基準があるだけでだいぶカラダに余裕がうまれてきて、それが結果的には精神衛生上に良いように感じ、ようやく私の場合の「ココロとカラダのバランス」が良いようです。

 

自分の周りでご活躍されている方たちは、ものすごい行動力と、強靭な体力をもってどんどん前へと物事を進めていて。それを見るたびに自分は全然動けていないなぁとか、まだまだだなぁと思うことが多いけれど。その反面それは私にとってみて大事なことなのかどうか。との視点でみてみると。そこまで大事なことではなかったりして。それだけでも必要以上のよくわからない焦りや不安は消えていきます。

 

 

思えば去年は自分でもよくわからないままに、いろいろなところに出向いたり。暇さえあればちょっと厳しいスケジュールでも「行きます!」の一言のもとにとにかく動いている年だったなぁと。しかし、うちのおばばちゃんが亡くなったことがきっかけとなり。そこから自分の大切なものはなんだろうかということを考えるようになって。まあ内向き内向きへ。最近は中国故事ばっか読んでましたから。

 

ちょっとしんみりな感じですが、動かなかった事で出会えた縁もあったりして。山梨の中ではあんましつながりがなかったのですが。面白い方々とつながることができたりして。不思議なものです。

 

なんとも周囲の人に心配されたりすることもあったのですが(とってもありがたいです)、面白いもので動かないでいると、今度は動きたくなってくるんですよね。私なんかちょっちゅう貧乏ゆすりをしているので、本来はじっとしてられない性分のはずですから。よくもまあここまでじっとしていたなぁとも思います。年が明ければもしかしたら動きたくなるのかもしれないし、もしかしたらもう一年じっとしているかもしれません。そのくらいの気負いのない余裕をもった気持ちで動ける準備だけはして。その時を待ちたいと思います。

 

 

 

皆様良いお年をお過ごしくださいませ。

真実はどこ。

一足先に昨日忘年会がありまして。午後の早い時間帯から飲み始め。あまり普段は頂かない日本酒を飲みながらまったりしておりました。正直にいうと日本酒はあまり好んで頂かないのですが、ありがたくおちょこがなくなると、自動的に注がれるのでその流れに沿いながらいただいていたんです。過去に日本酒をいただいた後での失敗談が何度かあって、次の日は厳しいかなぁと思って身構えていたのですが。そこまで残ることもなく。いい感じ。

 

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七賢の直営店でどっぷり。

 

野菜、お肉、お魚。生物、焼き物と口に運んでは、ちょこっと日本酒をいただくことを繰り返していると。なんとなく素人なりにも良さが分かってくるものですね。この組み合わせはとても合うなぁと思ったり、これはちょっと違うかなぁと。自分なりの飲み方ができてきます。それだけいいものをいただいたのかもしれませんが、食わず嫌いっていうものはやっぱりあって。たまには選択肢として日本酒もいいのかもしれないなぁと感じました。

 

 

さて、今年は特に?メディアが騒がしい昨今でありまして。友人と話をしたりするときに耳に入ってくるのですが。まあなんでしょうか、何かと気になってしまって、人それぞれに湧いてくる感情もあるとは思いますけど。なんといいますか、知りたい知りたいという「知的好奇心」の方向性がなんかそちらに向いていってしまって、何も考えないでいるとどんどん関心の輪が大きくなってしまっているなぁと感じています。

 

 

今や気軽にグーグル先生で検索さえすれば、どんなことでも情報が手に入るなんてことも聞いたことがありますが、それがかえって「検索してもわからないもの」が出てきてしまうと、なんとかしてそれを知ろうと欲求と、わからないものへの恐怖に似た感情がでてきて。「真実が知りたい」ってことにつながっていのだろうなぁって。そこで自分の想像していた「真実」と同じであれば安心するし。異なる「真実」だった場合に至っては、信じていたのに。ってなる。そうして「真実」には良いも悪いもないはずなのに、怒りや、傷つくということを自分で選択して一喜一憂すると。

 

 

私自身の経験からも、大人になってから知る「真実」ってあって。家族の知らなかった事を不意に知る事になったり。友人とあの時、あの頃の話をしたりした時に初めて知る事もちょくちょくあるけれど。それは自ら知りたいという欲求からではない分、そこに意味付けをせず「そうだったんだな」と素直に受け入れる事ができているようにも(これも内容や人によると思いますが)

 

 

他にも似たような?ことがあって、前職で食品関係のお仕事でしたので関心があってそこそこ勉強をしていたのですが。数年前からあるよくわからないけれども安心安全という神話。どこかの誰かが作った「安心・安全」を探してきて◯◯だから「安心・安全」だよって、自分で試したこともないのに妄信してきて、その「安心・安全」が崩れたときに「どうしてくれるんだ」ってなることとか。ここにもその選択をとった自分の責任を曖昧にしている部分がありそう。

 

 

知りたい知りたい!という欲には、内と外があって。外に関心が向けば向くほどに、内へと向かう意識から遠ざかっていく。言い方を変えれば内にある部分が見えなくなってきてしまう。それは普段から感じている将来への不安、日常でのストレスのようなものから遠ざけてくれるので、いい隠れ蓑になっているようにも思えて

 

 

でも、実は自分の内面へと意識を向けていくと、不安というものはかわらないけれども、よくわからない「見えない不安」から、認識できる「見える不安」にはなるので、その不安とうまく付き合えることができると。共存することもできるし、何かしらの手は打つことも選べる。その違いはとっても大きいなぁって。(私は内面へ進み過ぎちゃってる感がありますが)やっぱり私も何かしら調べたりチェックはしているわけでして。FBとInstagramは常日頃触っているので、なんとも私の関心の輪も大きめ大きめで引っ張られていること(ごめんなさい)

 

 

こんなことを書いているのも。最近は仕事をしながら阿闍梨さんの話を聞きながら仕事をしていて。その中でその阿闍梨さんの師匠が言っていた言葉がありまして。

 

 

ムダなことなどひとつもない

ムダなことなどひとつもない

 

 

 

 

「賢(かしこ)バカ」になってはいけないよ

 

みんな、知識を持っていて、頭で計算をして、わかっているつもりでいるけれど、いざ行動!となるとできないんだな。そういうのを、うちのお師匠さんから教わったけど、『賢バカ』って言うんだと思うよ

 

 

 

なんとも私は「賢バカ」だよなぁと思って、粛々とぶどうの枝を切っているのですが。何かしらの外からきた情報に対して、ああでもない、こうでもない。こうするべきだ。私ならそうするのになんでそうしないんだ。何て反応ばかりしたらまさに言葉通りの「賢バカ」になってしまうようなぁとも。

 

 

悪い事象に、良き事象と思うことに出会った時には、それを先生として。自らを省み、行動できる人へと向かいたいものです。

まいにちごはん。

1日ずっと枝を切っています。去年は標高の低い畑から徐々に上へと上がって行ったのですが、後半になるにつれて雪の影響で侵入できない畑が出てきてしまい、なんともスケジュール通りにならないといったことがありまして、それなら先に雪の影響を受けやすい畑から作業をしていこうとなりまして、最奥地のすももの剪定からスタートしています。

 

このすももの畑は日照時間が短くて。10時にやっと全面的に日が差したと思ったら、12時を境に太陽は山陰に隠れ始め、14時にはほぼ陰ってしまうと。そんな立地なものですから。雪が積もってしまうと全然雪が解けないのです。とりあえず畑には上がれず、上がれたとしても足がズッポリ、日陰で気温が上がらない、風がビュービューで、静岡出身のガリガリ君にはきびしいきびしい。今年はそれがないだけで天国のようです。(寒さは耐えるのが辛くて辛くて)

 

さてさて、最近はあまりお出かけをする機会が少ないことがあって、私のInstagramは自分の狭い行動範囲を誇示するかのような編成になっておりまして。

 

 

料理 > 畑 >  

 

 

そんな有様なのです。そしてとりあえず仕事は日が出てから日が沈むまでなので。まあ時間があるんです。ようは暇な時間が多くなってきたわけで。そうなると私は何に一番時間をつかっているのだろうか?と考えていると、とりあえず「ご飯を作って、ゆっくり食べること」に時間を使っているようです。

 

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今日はきのこ祭りのお味噌汁だったよ。

 

大体は前日に何を作ろうかなぁって漠然と考えているのですが、とりあえず。家に帰ってから「今日は何を作ろうかなぁ」と冷蔵庫を見渡して。ご飯を炊くか炊かないかを決めます。そうして。お。今日はこの野菜が食べたいなぁ。って感じで決まったら料理を考えます。過去に作ったものならそのまま作り始め。味付けを変えたり、他の料理を見てみようかなぁって決めたら私は「みんなのきょうの料理をみて参考にします。

 

www.kyounoryouri.jp

 

ゲストがきた時には、ワインを飲みに来る人がほとんどなので。なんとなく今日のワインにはこの食材やら味付けやらが合うんじゃないかなぁとかも。そこそこ外さずに作れるようになってますし。なによりもゲストが来た方がたくさんご飯作れるし。普段食卓に並ばない料理を作れるので、ゲストより私が一番楽しんでいるっていうね。最近はイワシの煮付けがヒットでした。

 

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鯖より、秋刀魚より、美味しい気がしたよ。

 

しかしなんでそうなったのだろうかって。考えてみると。デザインの仕事をしている時に食材、料理の写真を自分で撮影することがあって。いろいろな料理本を買っていた時期があったんです。そうして家には月間の料理雑誌が溜まっていきまして。これだけ料理本があるのだから作ろうかなってなって。当時付き合っていた子や、友人がきたときに調子に乗って料理を作って振る舞い始めたんですよね。なんでも格好つけからですから。

 

特にその中でもきょうの料理ビギナーズには大変お世話になりまして。まあ初心者にやさしい、わかりやすいレシピでなんとも美味しく作れたんですよね。まあそれで本当に美味しいかどうかは別として、作った料理を食べてもらって「おいしい、おいしい」って食べてくれるのが嬉しくて。私はどんどん味をしめてしまったわけです。そこからはレシピはきょうの料理ビギナーズからよく選ぶようになりました。3年間くらい毎月買ってましたから。理研究家の方や、プロの講師の方のレシピもさることながら。TVで勢いのある研究家の人とか大好きなんですよね。レミ先生とか最高だと思うよ。

 

 

そんな私は少数派?らしくて、今はクックパッド先生が全盛なのでしょうか。恥ずかしながら私は使ったことがなくてですね。前に皆でおうちご飯を作ろうってなった時、調べるソースが私だけクックパッドじゃなかったっていうことがあって。なんとも隠れてレシピを見ていたものです。

 

 

こうして時間がある時に、ちょっと前までは英語を勉強しよう。資格を取る勉強をしよう。為になる本を読もう。なんてどれだけ時間を投資に回せるか〜って、意気込んでいたものですが。すっかりその毒気は抜けて行ってしまって。仕事を除いたら、ご飯を作るのが一番楽しいのです。いいか悪いかはよくわかりませんけど。それはそれで毎日を充実して丁寧に過ごしているような気もするし。人生のいいスパイスになってるから、まいっかってことで。

 

 

それでも健康管理には一役買っているようで、加工品を食べる機会はとっても少ないですし。バランスはいいか悪いかはわかりませんが、塩分摂取が少し多いかなぁくらいで、カラダに悪いものは比較的避けることができているように思います。なんかFBとかで「絶対に食べない方がいい添加物」みたいなリンクがフィードにながれてきて。しきりに不安を煽ってくるようですが、もともと食品会社に勤めていて多少知識はあるし、そもそも毎日自炊しているから気にする必要はありませんから。そもそも「食」に関心を持っている人が気にすればいい話で。食以外の関心を占めている人に無理に情報をシェアする必要ない気がしてならないとも思うのですが。

 

 

なんとも私のせま〜いせま〜い料理の話を書き連ねてしまって。どれくらいの人が興味わくのかしらというところと、俺は料理作れるぜアピールはいいからって感じだと思いますが。今こうやって楽しく毎日料理を作って、おいしくご飯を食べられるのも。昔買っていた料理本のおかげですし。そこから繋がっていることを考えると、無駄なことって本当にないなぁとしみじみ思います。あんましストレスがないのも、野菜ばっかり食べているからかもしれませんし。

 

 

毎日のご飯をちょっと工夫するだけで、元気と幸せがやってきます。季節感も感じます。そして毎日のご飯がおいしいだけで生きている実感と感謝に繋がっていきますよ。

 

明日は何作ろう。