真実はどこ。
一足先に昨日忘年会がありまして。午後の早い時間帯から飲み始め。あまり普段は頂かない日本酒を飲みながらまったりしておりました。正直にいうと日本酒はあまり好んで頂かないのですが、ありがたくおちょこがなくなると、自動的に注がれるのでその流れに沿いながらいただいていたんです。過去に日本酒をいただいた後での失敗談が何度かあって、次の日は厳しいかなぁと思って身構えていたのですが。そこまで残ることもなく。いい感じ。
七賢の直営店でどっぷり。
野菜、お肉、お魚。生物、焼き物と口に運んでは、ちょこっと日本酒をいただくことを繰り返していると。なんとなく素人なりにも良さが分かってくるものですね。この組み合わせはとても合うなぁと思ったり、これはちょっと違うかなぁと。自分なりの飲み方ができてきます。それだけいいものをいただいたのかもしれませんが、食わず嫌いっていうものはやっぱりあって。たまには選択肢として日本酒もいいのかもしれないなぁと感じました。
さて、今年は特に?メディアが騒がしい昨今でありまして。友人と話をしたりするときに耳に入ってくるのですが。まあなんでしょうか、何かと気になってしまって、人それぞれに湧いてくる感情もあるとは思いますけど。なんといいますか、知りたい知りたいという「知的好奇心」の方向性がなんかそちらに向いていってしまって、何も考えないでいるとどんどん関心の輪が大きくなってしまっているなぁと感じています。
今や気軽にグーグル先生で検索さえすれば、どんなことでも情報が手に入るなんてことも聞いたことがありますが、それがかえって「検索してもわからないもの」が出てきてしまうと、なんとかしてそれを知ろうと欲求と、わからないものへの恐怖に似た感情がでてきて。「真実が知りたい」ってことにつながっていのだろうなぁって。そこで自分の想像していた「真実」と同じであれば安心するし。異なる「真実」だった場合に至っては、信じていたのに。ってなる。そうして「真実」には良いも悪いもないはずなのに、怒りや、傷つくということを自分で選択して一喜一憂すると。
私自身の経験からも、大人になってから知る「真実」ってあって。家族の知らなかった事を不意に知る事になったり。友人とあの時、あの頃の話をしたりした時に初めて知る事もちょくちょくあるけれど。それは自ら知りたいという欲求からではない分、そこに意味付けをせず「そうだったんだな」と素直に受け入れる事ができているようにも(これも内容や人によると思いますが)
他にも似たような?ことがあって、前職で食品関係のお仕事でしたので関心があってそこそこ勉強をしていたのですが。数年前からあるよくわからないけれども安心安全という神話。どこかの誰かが作った「安心・安全」を探してきて◯◯だから「安心・安全」だよって、自分で試したこともないのに妄信してきて、その「安心・安全」が崩れたときに「どうしてくれるんだ」ってなることとか。ここにもその選択をとった自分の責任を曖昧にしている部分がありそう。
知りたい知りたい!という欲には、内と外があって。外に関心が向けば向くほどに、内へと向かう意識から遠ざかっていく。言い方を変えれば内にある部分が見えなくなってきてしまう。それは普段から感じている将来への不安、日常でのストレスのようなものから遠ざけてくれるので、いい隠れ蓑になっているようにも思えて
でも、実は自分の内面へと意識を向けていくと、不安というものはかわらないけれども、よくわからない「見えない不安」から、認識できる「見える不安」にはなるので、その不安とうまく付き合えることができると。共存することもできるし、何かしらの手は打つことも選べる。その違いはとっても大きいなぁって。(私は内面へ進み過ぎちゃってる感がありますが)やっぱり私も何かしら調べたりチェックはしているわけでして。FBとInstagramは常日頃触っているので、なんとも私の関心の輪も大きめ大きめで引っ張られていること(ごめんなさい)
こんなことを書いているのも。最近は仕事をしながら阿闍梨さんの話を聞きながら仕事をしていて。その中でその阿闍梨さんの師匠が言っていた言葉がありまして。
「賢(かしこ)バカ」になってはいけないよ
みんな、知識を持っていて、頭で計算をして、わかっているつもりでいるけれど、いざ行動!となるとできないんだな。そういうのを、うちのお師匠さんから教わったけど、『賢バカ』って言うんだと思うよ
なんとも私は「賢バカ」だよなぁと思って、粛々とぶどうの枝を切っているのですが。何かしらの外からきた情報に対して、ああでもない、こうでもない。こうするべきだ。私ならそうするのになんでそうしないんだ。何て反応ばかりしたらまさに言葉通りの「賢バカ」になってしまうようなぁとも。
悪い事象に、良き事象と思うことに出会った時には、それを先生として。自らを省み、行動できる人へと向かいたいものです。
まいにちごはん。
1日ずっと枝を切っています。去年は標高の低い畑から徐々に上へと上がって行ったのですが、後半になるにつれて雪の影響で侵入できない畑が出てきてしまい、なんともスケジュール通りにならないといったことがありまして、それなら先に雪の影響を受けやすい畑から作業をしていこうとなりまして、最奥地のすももの剪定からスタートしています。
このすももの畑は日照時間が短くて。10時にやっと全面的に日が差したと思ったら、12時を境に太陽は山陰に隠れ始め、14時にはほぼ陰ってしまうと。そんな立地なものですから。雪が積もってしまうと全然雪が解けないのです。とりあえず畑には上がれず、上がれたとしても足がズッポリ、日陰で気温が上がらない、風がビュービューで、静岡出身のガリガリ君にはきびしいきびしい。今年はそれがないだけで天国のようです。(寒さは耐えるのが辛くて辛くて)
さてさて、最近はあまりお出かけをする機会が少ないことがあって、私のInstagramは自分の狭い行動範囲を誇示するかのような編成になっておりまして。
料理 > 畑 > 本
そんな有様なのです。そしてとりあえず仕事は日が出てから日が沈むまでなので。まあ時間があるんです。ようは暇な時間が多くなってきたわけで。そうなると私は何に一番時間をつかっているのだろうか?と考えていると、とりあえず「ご飯を作って、ゆっくり食べること」に時間を使っているようです。
今日はきのこ祭りのお味噌汁だったよ。
大体は前日に何を作ろうかなぁって漠然と考えているのですが、とりあえず。家に帰ってから「今日は何を作ろうかなぁ」と冷蔵庫を見渡して。ご飯を炊くか炊かないかを決めます。そうして。お。今日はこの野菜が食べたいなぁ。って感じで決まったら料理を考えます。過去に作ったものならそのまま作り始め。味付けを変えたり、他の料理を見てみようかなぁって決めたら私は「みんなのきょうの料理」をみて参考にします。
ゲストがきた時には、ワインを飲みに来る人がほとんどなので。なんとなく今日のワインにはこの食材やら味付けやらが合うんじゃないかなぁとかも。そこそこ外さずに作れるようになってますし。なによりもゲストが来た方がたくさんご飯作れるし。普段食卓に並ばない料理を作れるので、ゲストより私が一番楽しんでいるっていうね。最近はイワシの煮付けがヒットでした。
鯖より、秋刀魚より、美味しい気がしたよ。
しかしなんでそうなったのだろうかって。考えてみると。デザインの仕事をしている時に食材、料理の写真を自分で撮影することがあって。いろいろな料理本を買っていた時期があったんです。そうして家には月間の料理雑誌が溜まっていきまして。これだけ料理本があるのだから作ろうかなってなって。当時付き合っていた子や、友人がきたときに調子に乗って料理を作って振る舞い始めたんですよね。なんでも格好つけからですから。
特にその中でも「きょうの料理ビギナーズ」には大変お世話になりまして。まあ初心者にやさしい、わかりやすいレシピでなんとも美味しく作れたんですよね。まあそれで本当に美味しいかどうかは別として、作った料理を食べてもらって「おいしい、おいしい」って食べてくれるのが嬉しくて。私はどんどん味をしめてしまったわけです。そこからはレシピはきょうの料理ビギナーズからよく選ぶようになりました。3年間くらい毎月買ってましたから。料理研究家の方や、プロの講師の方のレシピもさることながら。TVで勢いのある研究家の人とか大好きなんですよね。レミ先生とか最高だと思うよ。
そんな私は少数派?らしくて、今はクックパッド先生が全盛なのでしょうか。恥ずかしながら私は使ったことがなくてですね。前に皆でおうちご飯を作ろうってなった時、調べるソースが私だけクックパッドじゃなかったっていうことがあって。なんとも隠れてレシピを見ていたものです。
こうして時間がある時に、ちょっと前までは英語を勉強しよう。資格を取る勉強をしよう。為になる本を読もう。なんてどれだけ時間を投資に回せるか〜って、意気込んでいたものですが。すっかりその毒気は抜けて行ってしまって。仕事を除いたら、ご飯を作るのが一番楽しいのです。いいか悪いかはよくわかりませんけど。それはそれで毎日を充実して丁寧に過ごしているような気もするし。人生のいいスパイスになってるから、まいっかってことで。
それでも健康管理には一役買っているようで、加工品を食べる機会はとっても少ないですし。バランスはいいか悪いかはわかりませんが、塩分摂取が少し多いかなぁくらいで、カラダに悪いものは比較的避けることができているように思います。なんかFBとかで「絶対に食べない方がいい添加物」みたいなリンクがフィードにながれてきて。しきりに不安を煽ってくるようですが、もともと食品会社に勤めていて多少知識はあるし、そもそも毎日自炊しているから気にする必要はありませんから。そもそも「食」に関心を持っている人が気にすればいい話で。食以外の関心を占めている人に無理に情報をシェアする必要ない気がしてならないとも思うのですが。
なんとも私のせま〜いせま〜い料理の話を書き連ねてしまって。どれくらいの人が興味わくのかしらというところと、俺は料理作れるぜアピールはいいからって感じだと思いますが。今こうやって楽しく毎日料理を作って、おいしくご飯を食べられるのも。昔買っていた料理本のおかげですし。そこから繋がっていることを考えると、無駄なことって本当にないなぁとしみじみ思います。あんましストレスがないのも、野菜ばっかり食べているからかもしれませんし。
毎日のご飯をちょっと工夫するだけで、元気と幸せがやってきます。季節感も感じます。そして毎日のご飯がおいしいだけで生きている実感と感謝に繋がっていきますよ。
明日は何作ろう。
思い出してみる
昨日の話。朝起きてカーテンを開けると、表一面が真っ白。予想どうりの雪模様で。朝からおうちにお籠り状態でした。まだ今年はスタッドレスに変えていないので。雪降る前にとガソリンスタンドやらスーパーやらと。買い出しに行っておいて正解だったようです。灯油を買いに行ったスタンドにはタイヤ交換をされている方が1台、2台、3台と次から次へと訪れているようでした。
ここしばらくは自分を探る旅に出ていて、少しずつですが自分を思い出してきています。いつもだと一人で本を読んでは物思いにふけっていることが多いのですが、ありがたいことにゲストがきたり、私が出向いたりする機会が続きまして、いろいろな人に話を聞いてもらったり、問いかけをしたりしてさらに深まってきました。思い出せば思い出すほどに、全然自分って変わっていないんですよね。だいぶ小さい頃から。それが良い、悪いではないのだけれど。
ちょっと前までは何かしらの診断を受けたりテストを受けたりして「ああ、そうなのね」と、ますます自分を知ったような気になっていたり。周囲の人にもワークを通じてやってもらったり。そんなことをしていたのですが。それでもまだまだ表面的な部分しかしらなかったようで。もう少しだけ深い部分がわかりかけています。
そうするとどうでしょうか。少し前まではマイナスに思えていた部分も、よく思えてくるというか。しっくりはまってくるというのでしょうか。
「これが自分なんだな」
ということに確信持てるようになってきました。だからといって必ず「これが自分です」という、こうであるべきとか、こうでなければならない。ということでもなく「これが自分なんだな」と思い描いた時に、否定の感情はなくなり、すこ〜しだけ肯定の感情が湧くといいますか、湧かないといいますか。結局なんなんだよってことなんですが、そんな感じなんです。はい。
さて、今日は久々に朝から畑に降り立つと、畑一面真っ白なのはもちろんなのですが。葡萄棚の上にも雪がたっぷりと。私の住んでいる地域より、ぶどう畑のある地域はより標高の高いこともあり、足が埋まるくらいに積もっていたそうで。休み前に仕事をしていたすもも畑は15cm〜20cmにも。さすがにやめようという話となりまして。仕方なく標高の低い別の畑の簡易剪定をすることなりました。朝は雪に埋もれ、とっても足が冷たいし、風も冷たいし厳しい感じでしたが(お肉がないので)太陽が高くなるにつれて、とてもポカポカ陽気で楽しく仕事をすることができました。
ポカポカ陽気も、お正月くらいの陽気だって。
今日は久々に仕事だったということで、スローペースで仕事をしながら話をしていたのですが。雪が積もったこともあって「あっという間に秋が過ぎてしまったね」なんて話をしては「寒いねぇ、寒いよねぇ」と返していたのですが。なんだかちょっとひっかかるのですよね。確かに言った通り秋は短いようにも思えるけれど。本当に秋って短いのでしょうか。短くなってしまったのでしょうか。
気象学だと ・・・・ 9月〜11月
二十四節気だと ・・・ 8月6日〜11月6日 (立秋〜立冬)
なんてことがちゃちゃっと調べるとあるわけです。私が思っている感覚とはちょっと違っていて、毎回調べるたびに、ん〜なんか違うなぁと思います。しかしなんでしょうか、それ以上によくわからないイベントの前倒しによってどんどん季節を味わうことができなくなっているのではないでしょうか。
今に始まったことではないのですが、直近の話で行きますと。
9月から始まるハロウィンから、終わった次の日からのクリスマスからの、お正月のコンボでしょうか。もしかするとイベントに興味がないことや、あまり好きではないって個人的なバイアスがあるのかもしれませんけど。なんか店頭でそういった飾りでも雰囲気を出されてしまうと、気持ちはそちらに向かっている。いや向かわされてしまって。イベントを通じてでしか季節を感じていない方もいるのかなぁと。季節って急にそこから変わるわけではないのに、イベントが終わるとスパって気持ちが切り替わってしまうようにも。
ありがたいことに、私は自然の中、畑で働いているおかげで仕事であるぶどうからはもちろん、野菜畑から、身近な植物から、周囲の山々から目、鼻、耳などから季節を感じることができますし。また、毎日料理をするので、自分で栽培したものから、スーパーの野菜や魚などを買って、おうちで調理をして食べるという流れからも季節感を味わうことができます。野菜を作っていると初収穫したものは「走り」だし、たくさん取れるようになると「旬」ですし、収量が落ちてくると「名残」を感じます(正式にはちがうのでしょうけど)
私は「自然の中に自分が存在していること」をここ数年で思い出したようなので、気取って言ってみれば「季節の中に自分が存在している」とも言えるかもしれません。なんと幸せなことでしょう。って思ってしまいます。
と、いろいろと書き連ねていますけど。結局のところ、一番の指標って暑い、寒いという「肌感覚」のようにも感じてしまって。寒いなぁって思ったらもう私は冬気分です。あしからず。
季節という枠の話をしているけれど、結局は目の前ではいろいろなことが起きているわけで。それって見て感じとろうとすれば、拾い上げられないほど受け取ることができるのに、多くの人が「一年はあっという間だよ」ということをそろそろ言い始めるわけですが(私はすでに言ってしまったかも)あっという間だからこそ、もう少し毎日を大切にしてほしい。大切にという言葉がいやらしく聞こえるなら、朝起きて窓を開けたときに、家を出るときでも、通勤中にでも。すこし深めに空気を吸い込んで、周囲の見渡してみてください。それだけでも忘れていた感覚を思い出させてくれるはずです。
まずは目の前の人から
今月前半には目まぐるしく動いてたイベントも無事終わり。山に戻ってきてからは、のんびりと畑の冬支度をしています。今年は何やら三年前?四年前?の大雪を想起させるような気候の流れがあるらしく。「ちゃんと準備はしておけよ〜」っていわれ。早めにスタッドレスに履き替えようかなぁととか思ったり。とりあえず寒くなってくると省エネ系のカラダには厳しく。万度のことながら戦々恐々としております。
さて今日は珍しく我が家にお客さんがいらっしゃいまして。というかお仕事というか、頼まれごとといいますか。やっぱり実際にお話をして、イメージを固めたり、方向性を共有してから筆を走らせたほうがいいなぁという話をしていたら「じゃあ行くよ」ってことになって。朝からおうちに寄って頂きまして、ああやら、こうやらと。イメージのすり合わせをしておりました。
そして、数時間打ち合わせをしたあとには。せっかくなのでワイナリーを回りましょうよ。なんて話になって。甲州市のぶどうの丘にいったり。そこからワイナリーを回りましょうかって話が進みまして。そうしたら1件目のワイナリーさんで、お飲み友達がちょうどカウンターに立っていたので、お願いしてたくさん試飲させていただいて(私はハンドルキーパー)、ありゃりゃ〜と満足感が出てきてしまいまして。もう2軒くらい回るつもりだったのですが。
それなら、帰りに食材を買いに行ってもう家飲みにしちゃいますか!ってなって。バゲットと甘めの米粉パンをチョイスして、お昼から日が暮れるまで、何かを作っては飲んで、作って、飲んでのスタイルで。ベランダの窓を開け開いて午後のポカポカの日差しを背中に受けながらゆったりと過ごしておりました。やっぱり私はしつこいので、いろいろな診断めいたことをしたり、最近の地域の話とか好き放題だべりながら。
ダイヤモンド酒造さんのベイリーA
そういえば、なにやら「地域活性化」ってワードがなにやら力を失ってきているような話題が出まして、空き家だとか、ゲストハウスとか本を絡めたイベントとか。そんな話題がのぼったり。一部ではブームが終わったとかいってる人もいるみたいけど。多分そう言っている人の大変はブームだからという理由でなにかしら関わったり、みている人であって。どこかで「ブームは終わった」みたいなものをネットというかSNSとかで見つけてきて、「俺もそう思ったんだよ」なんて話をして。それをみただけでいっている人がほとんどだと思うんだよなぁとか私は思ったり。(というか私も趣味の領域でよくあるので)逆に、ある程度皆に許容され始めている証拠で、ゲストハウスは十分と言えるかわかりませんが、市民権を得ているのかもしれないね〜なんて。
まあ、こんな話をしているのもお酒が回るまでのお話で。あとはたわいのないことをだべっていたのですが。なんとも心地よい時間でして。お客さんを持てなすってやはり楽しいなぁと。エネルギーがわくなぁと感じたわけです。
「このワインはねぇ」から始まり。
「サラダは◯◯ワインに合うとおもうよ」
「苦味と苦味とか、柑橘系の香りが〜」
なんて知ったかしている話を聞いてもらって、作ったものを美味しい美味しいと食べてもらってって。とっても嬉しい嬉しい。9割以上は自己満足の領域なのですけど。それがまたいいんですよね。これもやはり聞き手のおかげなんですよね(うるさくてごめんなさい。)
偉そうに畑の仕立て方まで(ルミエールさんの垣根)
こうして、個人個人の人が自分のできることでも、得意なことでも、得意だと自分で思っていることでも。なんでもいいので、目の前の人に対して喜んでもらうことをするだけでも、良い循環が生まれると思うのですよね。そこに生じる良い循環ってとっても小さいのかもしれないし。別になにか大きなことをしなくてはいけないとか、皆を巻き込まなければいけないとか考えてしまいがちだけれど。身近な人を楽しませる、幸せにする人でありたいなぁと。
それが今度は大きな循環にもなるし。よく「◯◯の問題を解決するにはどうしたらいいか」とか「◯◯のいいとこ探しをしよう」とか見かけますけど。結局それって「今が悪い」ところから、マイナスからスタートしているように見えてしまってなりません。そうではなくて「今も満ち足りている」「もっと楽しくするには」って。それだけで向かう場所は変わるはずですし、始まりの場所がマイナス以外のところからスタートできそうな。
みんなが身近な人に対してちょっと何かをしてあげるだけで(させていただく)とっても良い芽が生まれるとおもうのですが。
ますます自分の内面へと、意識が向かってしまっている私はそう思いました。
(お酒がまた残っているからからかも)
しばらく、畑の往復、実家の往復をしていた私にはとっても充実したお休みでした。やはり人にあってお話をしているのが一番楽しいし、エネルギーをいただけますね。内面に向き合っているだけでは、広がりもなさそうですから(これは得意なんです私)そろそろ体を動かして、人に会いなさいよ〜ということのなのかもしれませんね。
さて、本日の明け方。日差しが出た頃に畑にいくと。良い感じで芽が出揃っていました。昨年は蒔く時期が遅く。今年も前に蒔いたものが長雨でやられてしまい3度目の正直。いい感じで年明けには収穫できそうです。
食べ物の恨み
山から降りてきています。今週の中頃に身内のお祝い事があるということで、ありがたいことに今週はお休みをいただくことができました。早めに地元へと向かうことができたので、最終の打ち合わせやら、動画の仕上げやらでてんやわんやと動いていた私も。今日でようやく目処がついて。あとは当日を待つばかりとなりました。
君は当日はお留守番なのよ。ごめんなさいね。
そうそう。地元へ向かう時にいつも通っている山梨と静岡を結ぶ、国道52号線をのんびり、のんびり下っていた時に久々に出くわしたんです。お猿さん。身延を通過するかしないかの山あいの道のガードレールに数匹。年に1、2度目撃することがありますが、こんな場所にもお猿さんが降りてきているのだなぁと思いつつ。今年の山には食べ物が少ないのだろうか・・・と、思いを巡らしなながらその後は運転しておりました。
それというのも。農作物を生産している人には身近な問題の「獣害」というワード。最近ではTVの特集が組まれることも増えてきているそうですが。私も実際にぶどう栽培に関わっている中で、山に面している畑では、シカ?ハクビシン?による食害が毎年のようにあります。ぶどうは収穫前に袋がけをするのですが。その袋を破って綺麗にぶどうの粒だけが食べられていて。軸だけが残っているようなこともしばしば。ぶどうは熟してくると、甘い芳香を放つので、動物さんたちにはわかるのでしょうね。私も腹ペコさんだったら多分同じことをしているかもですし。
サルカニ合戦。覚えていますか。一度は聞いたり見たりしたことがある童話昔話。かにさんのおにぎりをずる賢いお猿さんにお口に騙されておにぎりを柿の種と交換することからはじまり。そこから種を植えて水をやっては
「早く芽を出せ柿の種。出さぬとハサミでちょんぎるぞ。」
って。半分脅しのような言葉を浴びせ続けると芽が出てきて。さらに歌うとどんどん成長して、木になり実をつけると。
そうしたらかにさんは木に登れなくて、困っていたところに、ちょうど見計らったようにお猿さんがでてきて「とってあげるよ」って。そうしたら自分は熟した実を食べて、かにさんたちには青い実を投げつける暴挙に出て、その後、かにの子供達と栗、蜂、牛の糞、臼に懲らしめられるという。「因果応報」のお話。
なんとも食べ物の恨みは恐ろしいとはまさにこのことですよね。
当事者だとよくわかります。芽が出る前から肥料をやって、剪定からはじまり。一房一房手をかけて。いざ収穫となったところで美味しいところだけ動物に食べられてしまうわけですから。俗に言う「手間暇かけたものを・・・」と落胆とともに怒りすら湧いてきます。生活もかかっているわけですから。
近くに人の気がない場所だと。当たり前のように動物が現れます。そして畑には、電柵、ネット、ワイヤーなどで農作物を守っている光景が当たり前になってきています。その光景をみれば、ああ◯◯から農作物を守っているのだなぁと、だいたいわかります。私の地域では実際に食害などにあってしまった例を聞いてみますと。クマ、シカ、サル、イノシシ、ハクビシン・・・。私の知らないだけで他にも多く被害があるのかもしれませんが。
実際に農林水産省が出している統計もあったりして。
農林水産省/全国の野生鳥獣による農作物被害状況について(平成25年度)
おっ。
アライグマ?マングース?も統計に入っているんだと初めて知りましたが。
野菜類に並んで、果樹。相当な被害がでています。
ぶどうは果樹なので、果樹の部分をみてみると(被害額)
上から・・・
イノシシ 114,079
カラス 94,655
サル 44,846
シカ 39,897
ムクドリ 23,066
ハクビシン 22,378
(万円)
イノシシさんすごいですね。時々畑から家に帰る時に親子ずれが県道を普通にダッシュして横断している姿を何度か見かけたことがあります。葡萄では日本では棚栽培がほとんどなので、イノシシの害は少ないとは思いますが・・・。
被害の推移をみると、年々減少傾向ではあるようです。もしかすると、何かしらの対策を人間がとったかもしれないし、動物達の生息域での変動がよい傾向なのかもと想像いたしますが。
こうした現状を目の当たりにした時に。あなたはどう思いますか?
動物を駆除しなければならないと思う人もいるかもしれないし。
いやいやそんなのは人間のエゴだよ。人間の都合で動物を駆除するなんてけしからんという人もいるか。
いい悪いということはないのですが。
私は駆除しないと・・・ってならなければいけない?側なのかもしれませんが。普段お家では自然のドキュメンタリーを好んで流していて。なかなかそうは思えないのです。
最近見た中では、地球温暖化によって北極の氷が溶けてしまい。シロクマが災難になっているとの話をみました。シロクマは雪の上にのって、アザラシなどを狩るそうです。しかし近年では夏に近づくとシロクマを支えるほどの氷はないので、自由に動けないと。なので、この時期に狩るはずのアザラシを追うことができないって。そうして最近のシロクマは氷の上を歩けないので、泳ぐしかなく。泳ぐことが上手くなったと。しかし食べ物はなかなかみつからない。仕方なく陸に集団でいる危険なセイウチの群れに目をつけて、セイウチの子供を狙うのですが、返り討ちにあってしまい。歩くこともままならず・・・。そのシロクマは年を越すことができないだろうと。
果たしてこれは誰のせいなのでしょうか。
このシロクマさんには氷が溶けてしまって大変だ、困ったと感じているかもしれませんが。温暖化のこと理解できません。もし原因が人間のせいだったと(仮定)しても。それをしるすべはありません。訴えることができません。知らないということは人のせいにはできないし、そんなことを言っている時間はありません。その時その時の環境に順応するしかないのです。
結局、権利を主張しているのは人間だけ。主張をできるのは人間だけ。だから◯◯のせいにできるのは人間だけで。それはそれで、なんとも恵まれてるとも思ってしまったのです。なんだかんだ、厳しい、大変とか多く場所で耳にしますけど。少なくとも日本に住んでいるのであれば、大半の人は選択したことは実行できるし、選択をしないという選択を今できている現状をみているだけでも恵まれているなぁと。
いつもどおり、いったりきたりのよくわからないことを書いておりますが。動物たちと共生していくという言葉がとっても人間視点だなぁと感じてしまういます。当の私も動物たちからみたら「お前も人間だろ」っていわるのでしょうけど。
秋に植えた蕪は、若芽を虫に食べられてしまい難しそう。でももうそこには食べていった虫の姿はありません。まだ間に合うと聞いて、もう一度植え直しました。悲しんでいても、怒っても蕪は生えてきませんから。
良きなかの悪の芽
今シーズンのぶどうの収穫が終わり、しばらくゆったり過ごしていましたが。先週から来シーズンに向けて、ゆっくりと動き出しました。年内には棚のメンテナンス、 藁巻き、肥料撒きやらと。雪が降る前にやっておきたい。というか、寒い時期にはちと辛い作業を順番にこなしていきます。昼夜の気温差もだいぶでてきているのであっという間に秋が終わり、冬を迎えてしまうのだろうなぁと・・・。なんともガリガリ君な私には厳しい季節がまたやってきます。冬は嫌いじゃないよ。
そんな中、先週末は北杜市までお出かけ。秋の紅葉を楽しむために・・・と言いたいところですが。今回は前述の作業につかう「藁」を引き取りにいきました。毎年この時期になると、師匠の知人に頼んで手配をしていただくそうですが。今年は例年の倍の量をたのんであるということで、トラック2台を空にして、一緒に出向くことになりました。
出向いた先は小淵沢駅周辺の集落で、南アルプスが目の前に。後ろを振り向けば八ヶ岳。というようななんとも素晴らしい景観の場所で。見渡す限り延々と田んぼが広がっていました。田んぼはすでに稲の刈り取りを終え、水は抜かれ、脱穀が済んだ後。その脱穀を終えたあとの藁が、等間隔に田んぼに並んでいます。その藁をトラックに積む込むのがメインの作業です。
トラックを田んぼへ乗り入れていざスタート。藁を5、6束を拾い集めては、両手いっぱいに抱えながらトラックへ行ったり来たり。その作業がえんえんと2時間近く続きました。いつもぶどう畑で作業しているので全然大丈夫だよって、元気良く運んでいたのですが。まあ疲れる疲れる。やはりつかう体の部分が違うので、作業中も体が重く。お家に帰るとなんとも全身が筋肉痛でした。特に腰。負担が大きいようです。
田んぼに足を踏み入れたのは小学校以来・・・か。
そんななって疲労感はあるとはいっても、少しばかし暑く感じる日差しに吹く抜けていく気持ちのよい風。汗をかいているのですが、それもすぐに引いていく感じでなんともよい日和でした。ああ、こういところで、お米と野菜を過ごしながらのんびり生活していくのもいいなぁと、なんともステレオタイプな私はそう思い。ふとこう話しかけました。
「とてもいいところに住んでいますね〜」
って。そうすると。
「今の時期はいいのだけれどね。これから寒くなってくるでしょう。そうすると、山から北風が吹き下ろしてきて、冷たい風の吹き溜まりになって厳しいものだよ」
「ああ・・・、そうなんですね」
と。いい部分しか見えていなかった私ですが、そういわれるどれだけ寒いのだろうか、やっぱり雪も結構積もるのかなぁと・・・想像が膨らんでしまって、興味が尽きることがありませんでした。私の地元では雪なんかめったに降らないというか、数十年に一度くらいしか降らないというか、そもそも風花が舞うだけでピーピーギャーギャー騒いじゃう感じなので。つい数年前に私が山梨にきた時でも、冬のことを想像しては戦々恐々といていたのがつい最近のことですから。そう考えると、やはり静岡は温暖で過ごしやすい地域だなぁと今更ながらに。
さて、今日は1日お家にこもって作業をしておりました。妹夫妻から依頼されていた印刷物はすべて手配が終わり、ずっと編集しては、再生してと繰り返し直していたムービーも形になってパッケージング。ようやく一息つくことができました。前にムービーを製作している時も全然やったことなくて、手探り状態で本屋さんにいったり、ネットで調べたりと。本当に私にできるのかしら?ってところからスタートしているのですが、もう数えていくと5回くらい編集とかしていて慣れたものになっています。いつになったら自分のやつを作るのだろうかとか思うけれど。きっとそれまでにもう何回か他のをやるのだろうと想像してしまっているので。そうなりそうです。
こうして作業ばかりしているので、先日友人に「頼まれごとをするのはいいけどさ〜」とチクリといわれてしまいました。(ごめんなさい)しかし、こうして何かしら人の役に立てていることはやっぱり嬉しいことですし。何かを頼まれるということは、その能力が自分のなかにあるんだと思うんです。もしその時にその能力がなくても、その依頼を通じてできるようになるかもしれませんし。それが他のことへの誘い水になるやもしれません。いまここ。
ということで、片手にペンとマウスを持ち替えながらデスクに向かっていたのですが。たっぷりと時間があるので、先日入手した新しいオーディオブックをお耳のお供にしながら作業をしようと思い立ち、朝からずっと聞き流していました。
菜根譚。
なんどか聞いたことのあったりなかったり。もしやすると誰かが勧めてくれていたかもしれないなぁと。初めは日本の経営者の方々がやれ「論語と算盤」だって。やれ「渋沢栄一さん」だって。そうお話ししているのを聞いて興味を持ち始め。孔子の論語を繰り返しずっと聞くようになって、そこから中国古典に親しむようになってくると、その中国古典の成り立ちがわかってくる。中国三千年の歴史って、よくわからないキラーフレーズに慣れてしまった私には。中国の中で独自に発展して行ったのだとばかり思っていたけれど、その時々の王朝、時代によって仏教が流行ってきたり、禅が幅を占めるときもあったりといろいろな学問や宗教の影響が入ってきて、いろいろな考えを取り入れていったと、新たな発見があります。
聞き流しているなか「おっ」これはという箇所があったので少しだけ。
悪をなして人に知られんことを畏るるは、
悪中にもなお善路有り。
善をなして人に知られんことを急ぐは、
善処もすなわちこれ悪根なり。
「善行のなかに悪の芽」
かりに悪事をはたらいても、人に知られることを恐れているなら、まだ見所がある。
せっかく善行を積んでも、早く人に知られたいと願うようでは、すでに悪の芽を宿している。
ちょうど今の自分の境遇と重なっているような感じがして。ブログでも知られるように?書いているようにみえますし。何度か聞き直してしまいました。
せっかく善行を積んでも、早く人に知られたいと願うようでは、すでに悪の芽を宿している。
この一文にはなにか気づかされるものがありました。初めからそう期待しているのでは、初めから偽善になってしまうとも。
「自分は良いことした」
と率直に感じる事柄であればあるほどに、密かにそれが人に伝わって自分の印象に帰ってこないかなぁと。やっぱり思っているなぁって。ようは
「いいことをするのはよく思われたいから」
その感情を弱めようとしても、心のどこかにいつも残っています。だからといっていい悪いの話ではないですが。
しかし私は昔から自分がやったこと、結果や実績についてはあまり話をしません。それは恥ずかしいから、前職のパッケージデザインをしている時も「◯◯君が作ったやつ見せてよ〜」と友人にいわれてもひけらかして見せることができませんでしたし。多分別の理由で、自己肯定感のなさなどからきているものだなぁと今は振り返ることができます。
少し話が逸れました。
なんだか最近の事件やらスキャンダルやらに「正しそうな」意見を書き始めてしまうと。悪の芽はもう育っているんでしょうか。何かしら周囲が認めてくれたことを、さらに表に出すようにするのもそうなのだろうか。いろいろ浮かんでは消えていきますが、そんな肝の小さな私には悪の芽が育つような栄養が乏しそうなので、大丈夫にも思えてきました。
悪の芽が育っていないか。これを自分に問いかけることはものすごく重く鋭い質問ではありますが、自らを戒めるにはとても効果がありそうです。
悪の芽。
あなたの心には宿っていませんか?
うにうに、うねうね。
ん〜やっぱ朝は冷えるようになったなぁと。寝床でうにうにしていると。
カチャッ。ガチャッ。
と、なにやら外から小気味よく音が聞こえてきます。おっと。今日は清掃の日だった。急いで寝巻きをそこらへ脱ぎ捨てて。まずはくつした・・くつしたと。そうして作業ズボンとウインドブレーカーをはおって玄関の戸を開けます。やいやい。メガネ、メガネ。かけ忘れたメガネをかけて、ノブを掴むと。おっと。ぐんて、軍手。ぼうし、帽子と。全然準備しきれない。そうしてひとりあたふたしきったあとに、ようやく外の空気をゆっくりと吸い込む。ひんやりと冷たい。そこへ温もりのある日差しを感じてなんとも心地よい。
わたしが住んでいる市営の集合住宅では、冬以外は月に一度の清掃があります。そう。清掃という名の草取り。棒の先端に半円の刃がついている道具で草の生えた地面を掻いていくんです。カチャッ、カチャッっと、あちらこちらで。始まると皆黙々と作業をしていきます。刈り払い機を使って一気にやればいいのにって、なんとも不効率なことをやるものだと初めは思っていたわたしも。こうやって皆で外で作業することで。顔合わせから安否の確認。それにちょっとばかしでも体を動かすことになるので、ちょうどいいのかもしれないなと思うようになりました。というかここには別に効率とかいらないよねって。
そうして、いつものように清掃を終えたあとは、そのまま自分の野菜畑へと向かいました。昨日、事前に準備をしておいたマルチ(黒いビニールシートにぽこぽこ穴が開いているやつ)を張りに。もうすぐ玉ねぎとにんにくを植える時期です。マルチを綺麗にピタッと張るには、まずは幅にあった畝を立て、周囲に土をかぶせなければなりません。初めはクワで大まかに土を寄せていって、そのあとにまっすぐ平行になるように棒をおいていって。手持ちのシャベルで掘ったり、叩いて均したりと。しゃがみながらチマチマと畝を整えていきます。そうして満足出来る形になったら、たてたばかりの畝の上にマルチを覆いかぶせて。まずは角から。そうして左右。上下と。これまたシャベルで整えていきます。なかなか野菜の師匠には「畝を立てるのは難しいよ」って言われているとおり。何度やってもうまくいかないなぁ、時間がかかるなぁと、思いながらも。まあ、前よりはうまくできるっぽい。
去年よりはいいはず。
土地をもっと集約してとか、IT、IoTをもっと導入してとか、企業が参入して、効率をもっと上げなければと。話題に上がることが多いですけど。半分以上の人は他人事のようにいってるようにも見えるし。理由は何かしらあるにせよ。つまるところ、結局そうならないのって、コストとか環境とかいろいろ言われていますけど。面白く、楽しくないからなんだろうなぁと思ったりします。おじいちゃん、おばあちゃんたちの畑にいる時のイキイキ感といったら。
その一方で、自分は楽しみでやっているのでいいのですが、最近では悪天候続きで野菜の価格が高止まりしているとの話をちらちらと聞くことがあります。台風の被害と合わせて報道やニュースが載った時には、野菜が高くなるのは困るとか、旬を味わうことができないやら。表面だけで受け取ってしまうと、なんとも自分都合なことしか言ってないなぁと感じることがあります。
たまたまわたしは農に関わりを持つことができたので、少ないながら農業って大変だなって、作る人側から思えるようになっているのですが。人の手がかかっているとはいえ、そういったリスクがあるのが自然物だし。人の手を介してもどうしようもない時はどうしようもないんですよね。そういったものを含めて「まあしょうがないよね」って。またそう思える心持ちになれるかどうかが普段の心の余裕になるのかなぁって。
そんなことを言いながら、秋に巻いたほうれん草と、ビーツは日照不足で育ちがが悪かったり、そもそも芽が出なくて数回蒔き直したりしているので。いやぁ〜どうしたもんかなぁと。その気持ちをどこかに向かわせたいながらも、まあ太陽に文句言ってもしょうがないもんね。といったりきたりの繰り返しなのですが。
こうした時に、周囲や、他の人へと向かうのではなくて。自分の普段の何気ない生活をふりかえって。あたりまえって続かないよなぁと。もっと感謝をしなければ。そういえばあの出来事は・・・。そう他の事柄を違う面から見る、考える。思えるチャンスを授けてもらっているのかもしれないな、とわたしの頭はうまくできてます。
そうやって。頭の中で考えながら。ひとりにやにや満足をしながら、おうちへの帰路につきました。
しかも。家について時計を見ると。まだ9時半になってない。ひとりなんだか得した気分だと。なんとも幸せな気分でどうしよう。
どうしましょうか。わたし。
収穫が終わってからは、幾分にもこんな風なので。まあゆったりと、のんびりなんです。正直言ってすーぱー効率の悪いことをやっているのですけど。別にいいんですよね。だって効率をもとめているわけではないから。こうして効率の悪いことは一見無駄なことのように見えて、必要なことだったりするかも?なんて。
そうそう。まったく関係なけれど。spotifyめっちゃいいですね。ビジネスモデルとか、システムとか、無料とか有料とかの話はどっか他を探してもらえば色々と載っていると思うのでそっちを見てもらうとして。とりあえずコードが届いたのでお試しで使ってみたら。これがなんとも。フリーだと、曲はシャッフルのみ、時々広告が流れるって感じなんですが。わたしは広告はあんまし気になりませんでした。
わたしは音楽を普段からよく聞いています。わたしの好みって70s~90sくらいのR&Bを筆頭に、SOUL、FUNKとブラックミュージックな感じがぴたんこなんですが。シャッフルってとってもいい感じ。ちょうど自分の好きな曲が流れたり、知らない曲だけどなんかとってもいい感じって出会いもあるし。しばらくお家で作業をしているのですが全然飽きませんね。プレイリストもとっても洗練されていて。聞いていて違和感がありません。ユーザー数がマンモス級なので。ここは、さすがなぁと。わたしはずっと同じ曲ばかり聴いていると飽きてしまうので、とってもいいなぁと。
日本の市場に悪影響を与えるとか、与えないとかでなかなかサービスをスタートできなかったそうですが。ユーザーには新しい音楽とともにアーティストさんを知ることができるので、広がりはありそうな気がするけれど。
これはこれで。他人事になってしまうやも。ですね。