ささブロ

鍬を置いて、山を降りた人

2択は1択

早い畑では早くも葉が落ち始めています。作業場に流れているラジオを聴いていると、どうやら秋の気配がそこまで来ていると。早朝から畑でぶどうを収穫して作業場で詰めているわけですが、昼間の暑さとは反対に、朝採りしたぶどうはひんやりと冷たく感じ、昼間との寒暖差がでているのをしみじみ。今はぶどうの収穫がピーク。出荷場には大小関係なく多くのトラックが途切れることなくやってきては、離れていく。その光景をみていると。なんだかあっという間に過ぎ去っていきそうで、一種の寂しさを感じます。

 

 

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忙しないのは嬉しいことよね。

 

収穫は今回で3回目になりました。というか、もう3年目なんです。ほんとあっという間。20代は、30代は、あっという間に過ぎ去っていくと諸先輩方には何度か言われたことがあるけれど。まあそれだけ頭の中に記憶が蓄積されているわけなので、ふとしたときに思い出しやすくなるのかもしれませんね。

 

 

さて、まだ3年。もう3年。人によって捉え方が変わってくるし、他の人のことはわかりませんけど。最近は妙にある言葉を考えることがあります。

 

 

置かれた場所で咲きなさい

 

 

 

確か本は読んだことはないのだけれど。ふと思い出しては、なんども浮かんでは消えていくんです。普通に会社を辞めてから、なんやかんやで畑へと飛び出していった私ですけど。辞める前にしきりに自分に問いかけていたことがあって。

 

 

「このままでいいのか」

 

 

という問いを自分に課していたんです。悩んで?はいたけれど。結局は都合の良い「人生は一度きりなんだから好きなことをやったほうがいいよ」って言葉に頼ったりしながら、「このままではよくないです」と答えを出してみたわけですけど。こうして数年自分で選んだ「好きなこと」をやってみるとまたやってきたんですよね。

 

 

「このままでいいのか」 って。

 

 

おっかしいなぁ。自分はこのままではよくないので、今の道を選んだのですけど、またよくなくなってきたんですよね。そうなってくると。どうでしょうか。

 

  • 新しいことを始める機会がやってきているのか・・・
  • この問いが出ているときは逃げの気持ちのサインかもしれない。
  • どこへ行ってもその答えってないんじゃないかなって思ったり。

 

 

そうして行ったり来たりしているだけだと。自分にいい都合をつけて。「選択をしない」という選択をとって、とりあえず現状維持になってしまうのが常なのですが。

 

 

 

こうして考えてみると。何か物事に対してちゃんと答えを出しているようですけど。本当の答えってどこにもないので。何事も行動した後では、都合のいい答えをそのとき出しているだけのようにも見えます。誰しも自分の行動は間違いだったなぁとは思いたくないわけです。

 

 

ちょうどそんなことを考えているときに。私がいつもチェックしているブログに面白いことが書いてありました。

 

 

 

人生において大事なことは選択肢を2択にしないこと

 

・・・・


だいたい選択肢が2つしかないときって、実は1択になっていて、選択肢は自ずと決められてしまっている状況にあって、まー、あれですが、”Noしかいえない”とか、”迷わずにSay Yes”みたいなことなわけで、反対の選択肢は事実上ないに等しいみたいなことが往々にしてあって、そういうときに第三、第四の道を見つけることで、追い込まれないようにしつつ最良の選択をしていくことが常々大事だなって思っているのです。

 

*1

 

 

 

これを読んでみたら。まあそうよね。確かに2択のときって決まってるわぁと。ひとり感嘆の息だったのはいうまでもありませんが。

 

 

なんでも考えているときには、無理やりにでも答えを導き出すことをしてしまいがちで、そうすれば今ある不安やら、悩みやらから解放されるような気がしますけど。それは短絡的なことで。解放されるのは一時的なもの。実は答えを見つけるのではなく、答えはわからんけど。これでもいいかもしれないなぁと。それがおっしゃっているような余裕を生むのでしょうか。

 

 

まあ今日もよくわからないことを書き連ねてしまいました。

 

 

 

昨日は昼間の畑仕事がちょっとだけ早く切り上げることができたので、自分の野菜畑に新たな種を蒔いてきました。とりあえず今手持ちの種を一通り蒔いてきましたよ。

 

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  • ビーリー
  • サニーレタス
  • 春菊
  • 三つ葉(初めて蒔いた)
  • ビーツ

 

 

ビーツは春ものよりも、ちょっと気温が低くなる時期のほうがいい感じで成長するらしいのでちょっと楽しみかも。意外と私の周囲ではビーツに興味がある方々がおるので。うまくできれば・・・ね。三つ葉はちょと蒔きすぎた感はあるけれど。お味噌汁とかにちょっと添えるだけでなんだか高貴な気分になるので期待しちゃってる。夏野菜もひと段落で、残るはナス、ししとう、ピーマン、ゴーヤ、空芯菜くらい。空芯菜は暴れまくって困ってたり。秋茄子は美味しいと聞きます。が、毎日採ったものを食卓に並べているわりによくわかりません。毎日美味しいんですよね・・・悪しからず。

不便な人差し指を眺めては

久しぶりに包丁で手を切りました。この前切ったのは2年以上前だったような。やっぱり切ると痛いですね。それも今回は人差し指。絆創膏が巻いてあるだけでとっても不便です。こうしてキーボードを打っている時でさえ違和感があります。まあ包丁の扱いが悪かったのもそうなのですが今回は色々状況が重なってしまって。

 

 

ちょうど空芯菜の下ごしらえ中にドアベルがなったのです。ガスコンロは二口空いているし、玄関周りは今日収穫した野菜が散らばっていて。おうおうこのタイミングでくるかねって。そうして手元から目を離したところでスパッと。しかもその時はパンツ一丁の姿だったので。そうして指を口にくわえたまま、タンクトップとズボンを履いて出迎えました。

 

誰かといえば、市の職員さんが建物の点検らしく。ぱしゃぱしゃと写真をとっておかえりになりました。

 

 

この時の私の心がどう反応したか。なんか我ながらまだまだだなぁと思ったり。

やっぱりただの人間だなぁと。

 

 

チャイムがなります。

そしてすぐに指を切る。

「イテッ」

 

 

そのあとすぐ

「タイミング悪いなぁ、なんでこのタイミングでくるんだよ」

 

2回目のチャイムがなる

「あんたたちのせいで指を切ってしまったじゃないか、あせらせるなよ」

 

扉をあける。

部屋の点検をさせてくださいって。

そして点検が終わる「なにか不備な点はありますか」って

 

少しきになる点があるので、確認をお願いする。

 

「ご協力ありがとうございました」

 

「いえいえ、お手数をおかけしました」

 

職員さんも仕事だもんなぁ。怪訝な顔をしながら対応してしてしまった。

丁寧に対応をしてくれたのに申し訳無かったなぁ。やいやい。

 

とまあこんな感じの流れ。

 

 

指を切ったのは誰のせいかって。私のせい。

タイミングが悪い時を狙ってきているわけではない。

自分も反応がなければ2回目のチャイムをならすはず。

・・・

 

 

正直にいうと、2回目のチャイムが今回の怒りのピーク。市の職員さんが帰られてすぐに「手を切ったのを人のせいにしている」と怒りの原因がわかったので、すぐに怒りから解放されて、これも一種の学びだなぁと思えるわけです。なにか悪いと思われることが起きた時には完全に「他責の人」になっています。普段私は色々な人におせっかいながらも、それっぽいことを話しをしているけれど、おせっかいできる人間ではないなぁと反省モードに移行します。

 

 

そこからはここ最近の出来事の回想が始まって。上から目線で話をしていたかもしれないとか。価値観を押し付けていないか。ひとつの出来事から自らを振り返ることができるのです。

 

口が達者なのをいいことに、友人が話しをしているのに話を折って私の話をしてしまったり。普段ぶどうの仕事をしている際、師匠から「こうしなさい」「こうしたほうがいいよ」などとアドバイスなどを頂くことに対しても「そんなことはわかっているよ」と、何かと言い訳がましいことを言っている自分に気がつきます。なんとも情けないやら。

 

 

 

宰予の昼寝 公冶長篇

 

宰予、昼寝ぬ。子曰わく、朽木は雕るべからず、糞土の牆は朽るべからず。予に於てか何ぞ誅めん。子曰わく、始め吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を信ず。今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を観る。予に於てか是改む

 

論語物語より

 

詳細は勝手に調べてみていただければ。

 

 

誤って改むるに躊躇してはならぬ。過ちは一時のことじゃ。しかし、誤って改めなければそれこそ救い難い過ちで、生涯を誤り通すことになってしまう。

 

何を言っても口先で人を言いくるめようとする心だけはよろしくない。

 

良い人を見たら見習えばいいし、悪い人をみたら自らを省みればいい。

憎んではならぬ、蔑んではならぬ、ただ銘々に自分を省みればそれでいいのじゃ。

 

 

このエピソードは特に耳に残っています。まったくもって言い得て妙な。

 

普段私たちは

 

良い人をみては、「あいつは◯◯だからできるんだよ」

 

悪い人をみては、「こうしないと。ああしないからだ」

 

特に最近ではネット上で誰でも自らの意思を表現することが簡単になりました。そこでは個々人の主観に立って多くの意見が散見されます。果たしてその中に自らを省みている人はどれくらいいるのでしょうか(もちろん私も含めて)

 

相手の立場になって考えられる人は、まずはどんなことでも、起こったことに対し「自分ごと」として考えることができる人なのかなぁと。なんとなくそんな答えが。

 

 

と、それっぽく。

 

 

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見逃していたゴーヤが半分黄色になってた。

 

ぶどうの収穫は来週の頭から本格稼働です。その前に朝から野菜畑を綺麗にしてきました。春に植えた苗も収穫を終えつつあり、半分以上を切ったり抜いたりして、秋に向けて耕す。もうこんなにいらないよと言っていた野菜たちも収穫量が減ってくるとなんだか寂しくもあり、「食べきれないよ」って言っている時にはわからなかった「ありがたみ」がひしひしと湧いてきます。これも満たされている時には気づけないことですね。感謝をしながら、今日も明日も明後日も採りすぎた空芯菜と向き合いたいと思います。

 

 

そうそう。炒めるだけでとってもおいしいんんですよ。空芯菜

「ぎゃ〜トラブルだ」の、その後に

久々にぶどうばたけに戻ってきたら、今シーズン最後の防除でした。要は畑にお薬を撒く作業。日中は暑いので早朝から薬を撒く車、スピードスプレーヤー(通称SS)に乗って、ゆっくり畑をのっそり撒き回ります。今年最後ということで、気を引き締めて撒きました。というか撒いていたのですが。なんででしょうか。すんなりと行かないのですよね。ある畑を撒き終って、ちょっとハンドルを切り返して、次の畑へと思った瞬間に「ばっこんっ」と何かを乗り越えまして。乗り越えた瞬間に前にも後ろにも進まないと。降りてみてみると、前輪と後輪の間に大きな岩が・・・。岩を乗り越えてハマってしまったのですよね。これはまずいと思って、タイヤの下敷きになる岩を探してきて、私になりに脱出を試みたのですけど。焼け石に水のごとくで。前輪は土を掘りあげて、半分ほど埋まってしまいました。結局師匠に助けを求めまして、脱出と相成ったのですが。

 

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もがけばもがくほどタイヤは地面へと埋まっていく 

 

今年は本当にトラブルが多くて。SSに乗るのは年に6回くらいなのですけど。何事もなく終ったのは1、2回であとは何かあるんですよね。なんでしょうか人間って面白いもので、こう悪いことが続くと何かあるんじゃないか・・・。って自然と傾くようで、最後に師匠に

 

「今年はトラブルばかりで申し訳ありません。なんかあるんでしょうか私って」

 

と言わずにはおれませんでした。

 

と。こうして今年の防除は終わりまして。あとは畑の草刈り、出荷の準備をして。収穫の時期を待つのみとなりそうです。収穫は始まればあっという間。だからこそ、健康だけは保ちつつシーズンを終えることができればと思っています。

 

 

 

さて。今日は朝から雨模様で降ったり止んだり、予定していたことができずじまい。自分の野菜畑に行って。苗床の準備をしたり、ナスの更新剪定をして秋茄子に備えようとか色々考えていたのですがそれもできず。どうしようかなと思っていたところ「そうだそうだ。近いうちにお客さんが来る予定がある」と思い出し。朝から部屋の大掃除をしておりました。カーテンを全て外して洗濯。網戸を外してブラシで汚れを落とす。部屋の配置換え、いらないと思った服、本、雑貨などをまとめてゴミ袋へ、など。少しは部屋の床にかかる重量を減らすことができたと実感できるくらい整理ができました。

 

そのおかげ?ではないですが、部屋もすっきりで時間もできたので、その後はずっと本を読み返しておりました。最近はちょうど「幸せについて」の基準?考えかた?に変化が起きているタイミングなので過去に買っていたポジティブ心理学関係の本を本棚からまとめてとって、付箋のある箇所を一通りみたり、ぱらぱらとなんとなくやってみたり。そんなことをしてました。

 

実は読み返すきっかけになったのも、もう一つ理由がありまして。それは地元に帰省した折に、ひさびさにリアル本屋さんに出向いたときにある本に出会ったからなんです。

 

 

ポジティブ心理学は人を幸せにするのか―より良い人生を生きるためのルール

ポジティブ心理学は人を幸せにするのか―より良い人生を生きるためのルール

 

 

 

なんとも面白いことに先月出たばかりだったし(後で知ったけど)タイトルがまさに私の今の関心ごとというか、心の奥にひっそり隠れていた疑念そのものだったのです。私もネット社会の波に飲み込まれているので、大半がネットで購入するようになっておりました。本屋さんに行くにしても、書評や、好きな著者さんのお勧めなど、情報を集めてからまとめてリアル本屋さんで買うということをしておりまして。言うならば「目的買い」の人と化しておるんです。これはこれで悪くはないのですが。やっぱりリアル書店行かないとですね。だって行ったから出会ったのですもん。いかんせん偶然の出会いがないので行かないとダメだなって実感(無駄遣い防止にもなる利点もありますが)

 

 

また、この本の中に過去に私が持っている本のほとんどに触れられていて。ありゃ?こんなこと書いてたっけか。と思う引用が多数あって。引用をみてはいちいち本棚を眺めて手にとって確認。また引用を見つけては・・・と振り返るように仕向けているんじゃないのかって思うくらいに、きっかけをくれる本でした。

 

 

さて、ちょうど読んだ中にすぐに実践できたものがあったので。少しだけ触れてみます。

 

 

それは・・・

 

3つの基準で説明スタイルを判定する

 

という項目。

 

起きた出来事に対して

 

  • 永続性 (永続的 or 一時的)
  • 普遍性 (普遍的 or 特殊的)
  • 個人度 (内 的 or 外 的)

 

上記3つを使って判定をする。

 

 

楽観的な人の場合・・・

 

良いことが起きた時

いつもそう、なんでもそう、自分の能力による結果

(永続的、普遍的、内的)

 

悪いことが起きた時

今回限り、この件に限り、自分以外が引き起こした結果

(一時的、特殊的、外的)

 

 

悲観的な人の場合は、良いこと、悪いことの反応が逆になるそうです。

まさに起きたことは一つ。捉え方は無限大ということ。

どうとらえるかによって、印象も変わりそうです。

 

 

 

ちょうど、冒頭で少しお話した私の出来事にも当てはめることができそうです。

 

 

畑で私がSSを石にはまってスタックしてしまった。

 

この起きたことに対して、説明スタイルを組みあげてみると。

 

 

・・・ちなみに今回は悪いことが起きた時ですね。

 

 

 

トラブルだよ。またSSでやってしまったよ、やっぱり俺が運転するとこうだよ、俺は運転するの下手くそだなぁ。(永続的、普遍的、内的)

 

 

 

と初動は悲観的な部分から入りました。

しかし、それは長くは続かず。

 

 

トラブルだよ。まっこんなときもあるよね、そういえばいつもと違うルートを通っていたし、たまたま通ったところに石がそこにあったんだから。(一時的、特殊的、外的)

 

と、心が落ち着いていきます。 

 

 

私自身を分析してみると。もうちょっと若かりし頃は悲観的な部分をずっと引きずるような、肝の小さい奴だったのですけど。少しは大人に?なっているようで初動は悲観的だけれども、すぐに楽観的な感情が覆い尽くしていくようで。ちょっとした悪いことであれば1分も経たないうちに。とても悪いことが起きてもだいたいすぐに切り替わるようにできているようです。ここ最近のスピリチュアルにどんどん寄ってきていて、何事もそのままに受け入れる心のスペース広くあるのかも。

 

 

私の説明下手・不足でわかりづらいところもあるやもしれませんが、なにか良いこと、悪いことと自分で感じたことに対して、当てはめてみると面白いかもしれませんよ。また、なんとなくピンときた方、興味が出てきちゃった。なんて場合は本屋さんで手にとってみても。「幸せについて」って先に触れましたが、これ言うと心配されたりするのですが、別に病んでいるわけではなく正常です。ずっと考えていることに変わりはないのですけど。

 

 

 

うん。しばらく考えに耽る毎日でしたけど、そこから脱出するための糸口。ありそうです。

かぞくを顧みる

しばらく山を降りていました。それも数日間。野菜畑を充実させていくとともに、どうしても様子が気になってしまい、降りる回数と時間が減っています。なので、いつも一泊だけして山へとんぼ返りばかり。戻ってもなかなか休まらないし、友人にお誘いを受けてもなかなかお伺い出来ないというのがなんとも申し訳ないのですが、そのかわり?私がほどほどに手間を愛情をかけて作った野菜を朝摘みとかしちゃったりして、それを家族やら友人やらに食べてもらったりして。今の所それが好評をいただいている(ように私からは見える)ので、まあ差し引きすればちょうど中間で推移していて。うまく回っているのかなと。

 

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 子供の成長は早いよ。

 

 

今回は、前から夏にやろうやろうと。お誘いをいただいていた、親友?悪友?腐れ縁?とか、いろいろ表現ができる、中学から十数年来の知己のお宅へとお邪魔してきました。前回お邪魔したのはちょうど2年前だったようで。今や娘さんは小学校の高学年で、普通にお話もできちゃうし。なんだか友人の若い姿がお子さんの姿に重なって見えたりと。時の流れを感じずには入れませんでした。それでも、話し方、しぐさは昔のままだったりと。時の流れでは変わることのない部分もたくさん垣間見れました。こうして「楽しかったです」ってここで書いているわけですが、その分友人の奥方様にはいつもいつも、準備をしたり、片付けをしたりとお手間をかけっぱなしなわけで。ますます頭が下がる一方です。「もっとあなたは感謝をしなさいよ」と。密かにここでいっておきます。

 

 

 

さて、私とタイミングを同じくして県外におる妹が娘を連れて帰省しておりまして、ありがたいことに姪っ子の相手をさせていただけるという使命を賜りました。と、自宅にあるプール(膨らませるやつ)の監視員をしたり、地元の盆祭りにいって踊らせたり。もう一方で、一番の下の妹のお宅にお邪魔して、愛犬にかまってみたり、私は食べないけれどスーパーへ買い出しにいって、お夕飯だけ作ってみたりと(私がいくとなにもしないのですよ)なんでもないような普通の休みの過ごした方をしておりました。

 

 

こうしたことができるのでもあたりまえのようでいて、そんなこともないのが今の世の中のようで。兄弟姉妹間の仲がいいからなのですよね。色々な場所で出会う人で、興味を持ってしまうと時に私は色々なことを徐々に、大胆に、しつこくお話を聞いていくのは周知の通り。聞いていくうちに身の上になることもあり、そこから家族の話になって、「兄弟はいるんですか?」と自然と話が進むこともしばしば。こうして少ないながらも話を聞いていく中で気づくことがあって「もしかしたら自分たち兄弟、姉妹は仲がいいかもしれない」って。

 

 

兄弟姉妹間の仲がいいか悪いか。本当かどうかは話を聞いただけはわからないのですが「兄弟の仲はいいんですか?」って聞いた時に「仲が良いよ」という言葉はなかなか聞けません

 

「ん〜どうなんだろうねぇ」

「仲はあまり良くなくてさ」

「あんまし関心がないんだよね」

「ぜんぜん話、しないんだ」

 

っておっしゃる方が多いこと多いこと。そこには一種の恥ずかしさがあって、言葉とは裏腹に慕っていたり、見守っているようなこともあるのでしょうけど。あまり周りと比較することはないながら、話を聞く人が増えれば増えるほど。そう感じ、自分たちの仲が際立って良いように見えてきます。なんでもないようなことかもしれませんが、私がなにかのイベントやらの時に、気軽に若い人たちに話しかけることができるのも、下に妹が二人いるからでしょうし。話をすることに抵抗がありません。逆に年上の諸先輩の方々にはなかなか・・・ということもあったりしますが。そこからくる恩恵は計り知れないものがあります。というか今思えばたくさんあったなぁと。

 

 

こうして慕ってくれたり、見守っていてくれる存在が身近にあることほど、力強いものはないわけで。何かの苦労に出会った時には見えない力となって、助けてくれているようにも。はたから見れば兄弟愛の話をえんえんと書いているようですが、そこには私の長男気質?が反映されてるようにもみえ、もしかすると自然と関心をもつようにできているのかもしれませんね。

 

 

 

 

お盆だからということではないですが、いつもと同じくおばばちゃんのお墓にも。それにプラスして、生前おばばちゃんと一緒にいった、地元の行きつけの定食屋さんやら、街中のお蕎麦やさんを母上を連れて回りまして。なんとも懐かしいやら、寂しいやら。そうやってそれとなく回想しながらお腹いっぱい地元でのご飯を堪能してきました。おかげで毎日お腹の中が悲鳴をあげています。

 

 

こうして苦しい苦しいとお腹をさすっているとふと思い出すことがあります。

 

今では麦とか雑穀とか見直されていますけど

 

「私はね。白いご飯じゃなくて麦とかばっかり、子供のころに食べさせられていたからあんまり好きじゃない」

 

おばばちゃんが時折話しをしてくれたこと。思えば小学校低学年で辞めさせられて働いていたとも言っていたので、戦争末期に子供だった時の経験が染み付いていたのでしょう。そうして家でも外食でもそこから大盛りにしろ、大盛りを頼めと言っては、料理がテーブルに並ぶと・・・

 

「私はちょっとで良いから半分取りなさい」

 

いつも2/3くらいを強引に私の器へと無理やり運んでいました。

 

「半分じゃね〜だろ」

 

と私は悪態をつきながら食べては

 

「食わねえなら頼むなよな!」

 

なんて食べ終えた後、偉そうに思いながら、なんともはち切れんばかりのお腹をさすっていたわけですが、「お腹いっぱい食べさせたい」とも言っていたおばばちゃんの愛がそこにはあって。今となってはなんとも感謝しかなく。より深い愛を感じます。

 

 

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しらす定食。生もゆでも一緒に。抜群の安定感。 

 

 

と終わりたいところですが。贅沢なものではないにせよ、普段食べないお肉やらお魚やらをお腹いっぱい食べさせてもらってありがたい気持ち、幸福感でいっぱいなのはもちろんなのですが・・・・

 

 

毎日、取れた野菜と相談しながら献立を考えて、一汁一菜の暮らしに慣れた私には一気においしいものをばくばく食べて「苦しい苦しい」と言っている自分の姿がなんか浅ましく。そこから今度は飽食の意味を考えたりします。Instagramとかで美味しい料理のpicをみると。「いいなぁ」「うらやましい」「また良いものを食べているなぁ」と食テロの被害にあっていた私も、最近は外へ出て美味しいものを食べるという行為自体があまり魅力を感じなくなってきているようで。おうちでほどほどに「今日のご飯はおいしくできたぞ〜」って料理して食べているのが案外しっくりきているようです。

 

 

好きなものを存分に食べれる幸せは私の中では続かず短くて。お腹がパンパンになってしまうと逆に下がってしまうようにも。今の自分にはお腹いっぱい度100%近くご飯を食べてしまうと心もお腹も苦しさを感じてしまうようです。毎日質素ながらも適度に旬なものを食べているのがちょうど良いのかもしれません。お腹いっぱいになると私のココロは弱いもので何もしたくなくなっちゃうのも、ただただ胃袋が縮んだだけのもあるのでしょうけど。

 

 

 

さて。しばらく自分の野菜畑には顔を出せていません。畑にいくとどうなっているか気になるし。多分お化けだらけになっていると容易に想像できますが、明日は汗を流しながら畑仕事をして、お家のキッチンでお化け退治に勤しみたいと思います。

山の日の山

今年のお盆休みとはいつからいつまでのことをいうのでしょうか。毎年カレンダーとは縁のない生活をしておるので、祝日や連休という概念が飛んでしまっています。今年は山の日?なんの日?ということで新たな祝日ができたそうで。長くお休みとなる方も多いのではないでしょうか。私くは今シーズンのすももの収穫がおわり、ぶどうの収穫まで束の間のお休みの運びとなっています。昨年のこの時期にはちょっとばかし遠くへ駆け回っていたものですが、自分の野菜畑がちょうど収穫がピークのものがあったりして。せっかく手間をかけて育ててきたのに数日離れるのはちょっと気がひけるなあとか思っていて。特に予定は立てず。おばばちゃんのお墓詣りのために地元に帰るくらいになりそうです。

 

 

 

さて。そんなすももの収穫が峠に差し掛かる頃合いに、ある方からお誘いをいただいておりました。その時にはすももの収穫がどうなるかわからなかったのですが。ちょうどすももの収穫が終わるタイミングがぴったり合いまして。参加できる運びとなりました。またまたこれも引き寄せというべきか。お誘いが来た時にはほどんど参加できるようになってしまうという。

 

 

【8月10日-11日開催:山の日企画】1,928m山頂「鉢伏山荘」貸切でピアノライブ、翌朝は日の出を!

 

 

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 お世話になった鉢伏山

 

今回はイベントといっても。ゆったりするための企画でした。

 

夜はのんびり語らい歌声に酔いしれ、朝はゆったりヨガでカラダをほぐし、お昼前にはここちよい空気とともに山へ繰り出す。

 

とても楽しいひと時でした。本当に参加して良かったです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

って。本当に前述の通りだったのですが。いくつか通じて自分が感じたことやら云々を残しておきます。

 

 

鉢伏山(はちぶせやま)位置の詳細はわかりませんが、塩尻岡谷市の間に位置しています。少しばかし調べてみると「鉢が伏せているような姿」に見えることからその名で呼ばれているようで、日本の他の地域でも同名の山があるそうですよ。

 

鉢伏山 (筑摩山地) - Wikipedia

 

山登り?トレッキング?正直に言うと私には縁のない話で。かつて山登りをした記憶があるのは片手の指で折り足りてしまうほどに少なく。小学校の時の富士山の五合目?から登ったこと。薩埵峠を六年生の時に歩いて超えたことがあって。

 

 

「食べ物を食べる時は歩きながら食べるのはいけません。座って食べるように」

 

と旅のしおりにも、出発前にも言われていて。それを覚えていたので、帰りの電車のホームのベンチで棒飴を口に含んでいて、それが食べ切らぬうちに電車に乗り。座る席がなく。しかたなしに立っていたらところ。

 

 

 

帰りの電車の中での隣の組の先生にばったりと、つねられながら途中の駅で降ろされ

 

「あなたたちわかっているの!?もう卒業するんですよ」

「どうするの。こんなんじゃ卒業できないよ」

 

と畳み掛けるように矢継ぎ早に怒られて、当時の班の班長だった私は。

特に厳しく怒られまして。これはなんとかしなくては・・・と。

ん〜。どうしたものか・・・。と。

 

「すいませんでした。なんとか卒業するまでに取り戻すんで」

「班長の自分が注意できませんでした。」

 

と頭をフル回転させながら、またよくわからないことを言いながら、なんとか電車に乗せてもらい。学校に着いた瞬間に班の男子が皆が愛のビンタをいただきまして。

 

ようやく許していただいたのですが、当時は納得いかないこともあるもんだと思っていたものの、どうやらそれは子供の時も大人になっても変わらないんですね。

 

 

 

・・・って話がとってもとってもそれました。

 

 

正直山を歩くということって何が面白いんだろうかと思う節が私にはありました。友人がいつも山のpicをInstagramとかであげているのをみて「おお〜また登っているなぁ」って感じ。小学校の時は周囲を見渡しながら、景色を楽しみながら歩くということまでに気持ちが向かわず、登りきったという達成感があるくらいでした。先生に言われるのも「よく頑張ったな」「よくここまで登りきった!」という褒め言葉をもらっていたんです。そこには登りきったという結果があり、それを達成できたということで。それが良いことのように見えていたのでしょうね。

 

しかしどうでしょう。ちょっとだけ山の頂上付近を歩いた「にわか登り」だけでしたが「なんて山を歩くことは楽しいのだろうか」という気持ちにくるっと反転してしまいました。皆で話をしながら、景色を楽しみながらゆったりのんびりあるいていく。空気がうまいというのはもちろんあるのですが、太陽が近く感じるし、雲が自分の下にあって、周囲を見渡すといつも自分より上にあるものがすべて下にある。普段見えないものがすべて見渡せる。頂上についても達成感というよりも。ただただ壮観で綺麗だなぁと。何事も体験してみないとわからないものです。

 

 

 

道中を楽しむと言葉がありますが。まさに昨日はその心境だったのでしょう。頂上しか見えていない人には道中のことは見えていません。鳥の声が聞こえる。雲が流れている。虫が花の周りに飛んでいる。みたことのない植物がある、道がゴツゴツしている。過程がどうとか、結果がどうとかそんなのどうでもよくって。道中を楽しむことには周囲にすべてに意識が向かっている。いや、起こっていることをすべて受けているというのでしょうか。不思議な感覚に浸っていました。

 

 

また山の上に立たないと見えないものがあって。普段遠くに見えているきれいな形の山は近くに寄れが岩肌が見えていたりして荒々しさを感じるし。長野に向かう途中でとおる諏訪湖は小さくて周囲の山に抱かれているようにも見えます。今回はちゃんと見えなかったのですが、富士山もきっと静岡からでも、山梨からでもない表情を見せてくれたに違いありません。視野を広げなさいとはよく言われることですが。どうしてなかなかこれが難しい。しかし、ゆったり楽しく山を練りあるくだけで普段見えないものが自然と見えてきて、いつのまにか視野が広がっていた・・・なんてこともあるかもしれませんよ。

 

 

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同じ位置から。見えるのは山荘の窓から漏れる明かりだけ。

 

少しだけ夜、表にでて寒さに縮こまりながら星をみていたのですが。言葉にならないくらい綺麗ですし。なんか宇宙からエネルギーが降り注いでいるような。一体化したような。この話はあんまり深く話をしすぎると長くなりそうなのでここではやめておきますが、えもいわれぬ感覚でした。これも最近読んでいる本の影響もあるのでしょうけど。

 

 

夜はテーブルを囲みつつ、それぞれの自由にピアノライブを楽しみました。

 

ayanishikimi.wixsite.com

 

錦見綾さん。普段はほのぼのしたように見えていたのですが。歌い始めると芯があってとても力強く。それでいて哀愁を感じるかのような。私の表現では表しきれないので、よければHPに行って歌声に浸ってみていただければ。

 

http://あかり.net

 

シンガーソングライターでもありつつも、古民家の再生の活動を前に立って行っているとのことで。そのお話も伺うことができました。これを聞くと地域活性化とかまちづくりとかに勝手とらえて、解釈をする人が出てきてしまうように思えますが。それとは似て非なるものだと感じました。違うんですよね。話を聞いていると典型的な「展開型」のストーリーのように。

 

「自分はなにもできないんです」とご自身でおしゃっていましたが、まあそんなことはないのでしょうけど。次々と人が集まってきて色々なことを助けてくれるそうで。人柄もそうですが魅力があるのでしょう。また、田舎でよくあるような話とかもあり、なんだか私も似たようなことがあるなぁと思いながら聞いていました。

 

山を歩いている道中にもすかさず。

 

歌詞と曲は一緒に浮かぶのですか。それは直感的にくるものですか?

 

歌詞と曲が同時に出てくるとはよく聞きますが、出てきたものは実際に形にしてみると想像どうりの仕上がりになるのですか?

 

なんて興味津々で歩きながら聴かせていただいて、無理に私のペースについてきてもらい。疲れさせてしまう一幕もありました(ごめんなさい)

 

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とっても爽やか。

 

 

朝は懇意にしていただいている先生に、ヨガの厳しくて愛のある指導をいただきまして。私のカラダの硬さと、歪みを改めて感じることができました。もうね。硬いのなんのって。しかし不思議なものですね。ただのストレッチだなんだっていう人がいるけれど。徐々に呼吸を整えながらカラダを動かしていくうちに、とってもココロとカラダが一体化していくし、内面へ内面へと意識が向いていきました。おかげさま?なのか、カラダが軽いのと、ほぐした各所が筋肉痛があります。教えていただいたポーズはしばらく毎日やってみようと思います。先生に注意されたのを思い出しながら。

 

 

山荘オーナーさんをはじめ、みなさんもとっても面白くて、独特な感性で。そしてとても優しい笑顔で。なんとも言えない人柄がにじみ出ているようでした。

 

「この山はみなさんの山です。またいつでもいらしてくださいね」

 

と帰り際に。

 

また、季節が違う時に顔を出しに伺いたいものです。

 

 

 

 

さあ、洗濯物やら家の片付けやらいろいろ所用を済ませ、畑にたっぷりとバケツで水やりをしたら、のんびり住処の山からおりて海の方へと。地元も暑いのかなぁ。

 

隠士たるや

これがゲリラ豪雨ってやつですか。なんだか梅雨は明けたら今度はカミナリゴロゴロ、雨ザーザー。なんだか休みない感じで。すももを収穫していると面白いくらいにアニメやドラマのようにちょっと空が暗くなったと思い、空を見上げると黒い雲。「ぽつ、ぽつ、ぽつ。ざぁ〜」って。ここ一週間でも2回ほど襲われました。当然服が濡れてしまって気持ちも萎えるのですが。それよりも先にベランダに干した洗濯物が気になってしまう自分がなんとも主夫のよそおいを呈しているようで、なんだか・・・ね。

 

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収穫どきは個々に離れて作業をいるので、体はテキパキと動かしつつ、オーディオブックを聞きながら気持ちはのんびりしながら仕事をしています。最近はまた新しい本を流しながらの作業で、聞いているうちにあっという間にその日の収穫が終わっているから便利なものですね。ちなみに今日はこちらを。

 

 

論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)

 

 

物語とついていることもあって、親しみやすく。内容を知ることができます。

 

 

論語は聞けば聞くほど面白い。聞けば聞くほどわかった気になって、全然わからなくて、間違った解釈をしたりもする。しかしまったく離れた場所やその時々、そのふとした瞬間に本当の意味に近づいたりする。わたしはずっと未熟なようで、いつもいつも早合点してしまうことが多くて、なんだかこれって子供の時からそうかもしれないなぁと。もしやすると私の酸っぱいモノ好きってその未熟さが反映されているのかなぁとも。これも「私の場合」という一つの受け取り方ではあるのですが。

 

 

 

沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、並びて耕す。孔子これをよぎり。子路(しろ)をして津(しん)を問わしむ。長沮が曰わく、夫(か)の輿(よ)を執 (と)る者は誰と為す。子路曰わく、孔丘(こうきゅう)と為す。曰わく、是(これ)魯の孔丘か。曰わく、是なり。曰わく、是ならば津を知らん。桀溺に問う。桀溺曰わく、子は誰と為す。曰わく、仲由と為す。曰わく、是魯の孔丘の徒(と)か。対えて曰わく、然(しか)り。曰わく、滔滔(とうとう)たる者、天下皆な是なり。而(しか)るを誰と以(とも)にかこれを易(か)えん。且(か)つ而(なんじ)其の人を辟(さ)くるの士に従わんよりは、豈(あ)に世を辟くるの士に従うに若(し)かんや。憂(ゆう)して輟(や)まず。子路以て告(もう)す。夫子(ふうし)憮然(ぶぜん)として曰わく、鳥獣(ちょうじゅう)は与(とも)に群を同じくすべからず。吾(われ)斯の人の徒と与にするに非(あら)ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易(か)えざるなり。

 

論語 微子篇  

 

どんな内容なのか、興味がある方は現代訳を調べていただければ。

 

 

ちょうど農作業のときに流していて、この中で登場する沮、桀溺という二人の「隠士」というのがなんだか、今のわたしの生き方に似ているような感じがしてしまって。なんだかすももを収穫しながら、苦笑いせざるをえませんでした。

 

kotobank.jp

 

 

聞いていた論語は物語のように訳されており。

 

子路という弟子に隠者について最後にこう話をしています。

 

卑怯者か、徹底した利己主義者の進む道のように思えてならない。わしはただ当たり前の人間の道を当たり前にあるいてみたい。つまり人間同士で苦しむだけ苦しんでみたい。というのがわたしの心からの願いじゃ、そこに喜びもあれば、安心もある。

 

隠士たちはこう濁った世の中には未練がないといっているそうじゃが、濁った世の中だからこそ、その中で苦しんでみたい。正しい道が行われている世の中なら今頃わしもあくせくと旅を続けてはいまい。

 

 

苦笑いしたのも、隠士の心境に近いものを私が持っていたからなのでしょう。しかしその反面、今の自分はこのままでいいのかという問いは、毎日どこかで顔を出してきます。小さなイライラや、うまくいかないことはあるけれど、そんな大きな問題にはならない。今の状況には苦しさがないのです。そうやっては人にこの心境を話しているけれど未だ見えてきません。もしやすると、この悶々としている状況が苦しんでいるということにも見えないでもありませんが。

 

論語の中では他の編でも、悩み苦しんでいる弟子に対して「安易に自分を卑下して、苦しみから逃げるのではなくて、もっと苦しんでみなさい」と諭す場面があります。自分には才能がないから、生まれがわるいから、お金がないから。〜だからと自分に言い聞かせることは苦しみから離れるおまじないのように見えて、苦しみという貴重な機会を奪っているかのようです。私はその編を聞いて、もうちょっと「このままでいいのか」という問いかけをして、このまま苦しんでみようと思います。あしからず。

 

 

 

そういえば昨日?でしたか。アプリのゆれくるがブルブルっと震えて伝えてきた地震速報。通知で来たのが震度7東京湾おき。私のいる地域では震度6が20秒後。通知をみた瞬間に数秒固まって、逃げなくてはとは玄関に向かうも、3階から駆け下りるにも間に合わない・・・。これはもうダメかなと。結局テーブルと壁に手をつけたまま覚悟を決めたのでした。

 

その後予測の時間が過ぎてもピクリとも揺れないのをみて、急いでネットをみて情報を集めると、何やら誤報らしいことがわかりました。それでも早くなった心臓の鼓動は眠りにつくまで止むことはありませんでした。日頃の防災意識の見直しやら、食料の備蓄などを見直さなけばと思ったのはみんなと同じでしょうか。

 

しかし、それよりももっと大きな発見がありました。

 

自分のことを臆病だと思っている私は、もっともっと「生きたい」気持ちや「神様助けて」という心持ちが先行するのだとばかり思っていたのですが、結局最後は起こることを受け入れる。現状を受け入れることを選んでいた自分にびっくりしました。諦めたともいうのかもしれないけど。強くなっていた自分を少しだけ垣間見ることができました。

もくもくぶつぶつと

久々に山を降りました。とはいっても2ヶ月ちょっとぶりくらいなので大したことではないのですが。お仕事が自然のものが相手なので。急な連続のお休みということでゆっくりとはいかずに一泊しかしてきませんでしたが。それでも一通りの所用は済ませることができました。

 

 

まずは朝早起きをして、自分の野菜畑に行く。やっぱり朝どりは違うようなので。それを実家に持って帰ろうと。そうしたら、野菜の師匠が「お〜もってけよ」と大玉のスイカを一つもたせてくれました。もちろんこれも朝どり。スイカに限っては冷蔵庫で数日寝かせた方が美味しいそうなのですぐには食べられませんが。

 

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夏がよく似合う。

 

そこから、ちょうど母親から数ヶ月ぶりに「桃が食べたい」という趣旨のメールがきていたのを思い出して、近くの共選所にむかいます。そうして一箱買って帰ろうとしたときに。ん。そうだ。実家だけもっていくのもなんかあれだなぁと。身近な友人にももっていこう。そうだ。前に勤めていた会社にも挨拶に行くって確か言っていたなぁと。いろいろ思い出し。桃を数箱購入して帰ることにしました。

 

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美味しくなってきました。桃。

 

 

実家に着いてしまうと、とたんに動きたくなくなってしまうので。まずは以前の勤め先に挨拶にいって。先輩やら、取締役やら、近況を報告することができました。近況と言いつつも雑談なんですが(お仕事中申し訳ない)

 

 

その中でもひとり。とても気遣っていただいている方がいらっしゃいまして。いつもいきなりお邪魔しているにもかかわらず、時間を割いてくれます。なんともありがたいことですね。いつもその方からはいろいろと質問を受けるんです。

 

 

「いつまで葡萄は続けるの?」

「大変じゃないの?」

「やめて戻って来ればいいのに。」

 

 

なんていつもそんな話から始まるのですけど(ありがたい)これがまた自分への問いかけとなって原点に戻れるような気もするのです。正直に言えばどの質問に対しても答えられているけれど。考えれば考えるほど迷うことは多いです。しかし今の所は毎日とても楽しいです。しかし現実的に考えれば普通に会社の勤め人だったら、どんなに楽だろうかと思うこともあります。それは仕事についてではなく。経済的に。保証もあるし。貯蓄もできるし。実家の家族も安心かもしれない、週末は休みだから親しい人たちとの時間を楽しめるかもしれない。いろいろなところに旅行にいったりも。あとおまけで、シャワーのある物件に住めるかもしれないし、水道からお湯がでるかもだし。

 

 

でも。理由はいろいろと思いつくけれど。全部楽なことしか考えていないんですよね。というか楽なことしか思いつかない。いわるゆる逃げっていうのでしょうか。こうしたらもっと自分はこうなれるっていうものが浮かんでこない。やっぱり自分は怠惰な人間だよなぁって思うので。なんか余計に。ってことはやっぱり成長はないよなぁと思って。

 

どんな選択をして、結果が出て。それについて周囲からいろいろ言われても、自分で思ったとしても。私にはすご〜く強くて、それらを黙らせる言い訳を一つだけ持っているんですよね。

 

 

「自分で選んだので」

 

 

 

って。

 

 

なんとなく強がっていますけど。いつだって不安はつきませんけどね。

懐かしい方々の顔を少し見るだけでも。なんか嬉しい気持ちになりました。

 

 

 

 

さて、今回はなによりもおばあちゃんのお墓詣りに行けたことがよかった。しばらく間が空いてしまうとなんかそわそわしてしまって。なかなかおじいちゃんも年を重ねてきたせいか、なかなかお墓の手入れまでは行き届きません。だからこそ帰った時にお墓の周りを綺麗に清めたいんです。今日は雨が降っていたのでそこまで気の利いたことはできませんでしたが。

 

 

毎回私が帰った時にはルーチンが決まっています。お墓に行く前には少しだけ回り道をして、JAの販売所に行きます。そこで供えるお花を幾つか買い求めるんです。今日はなんとなく、白、黄、紫が目に留まったのでそのお花の組み合わせで。会計を済ませたら販売所に備えてあるハサミで長さを揃えて、まとめて新聞紙に包みます。いつもやっていることなんですが、なかなか長さを揃えるのって難しくて。結局はお墓に供える時にもう一度切り揃えるんです。今日はこの前より短くしたから大丈夫だろう〜って思ったら、こんどは短すぎて・・・。そんなに短くしなくて大丈夫だったりするという。

 

 

お墓に着いたら、古い花殻をとりのぞいて、古い水を捨てながら綺麗に掃除をします。晴れていれば、水を含ませた布巾でお墓を拭きながらひとりお墓に向かって語りかけています。

 

これも思えば不思議なものです。生前よくおばあちゃんと一緒にひいおばあちゃんに当たる親戚のお墓に連れて行っていたのですが、おばあちゃんがお墓に向かって

 

「今日もきたよ〜」

「暑いだろう。今水をいれてやるからね」

 

と始まり、ずっと語りかけながらお墓の周りを綺麗にしていくんですよね。その時は今よりもうちょっと若かったせいか、その心境というか、ひとりで喋りながらもくもくと手を動かしているおばあちゃんを「年を重ねるとそうなるのかなぁ」「俺には全然わからないや」って思いながら、お線香だけは一緒にあげて手を合わせていたのですが。

 

それがどうでしょう。数回もお墓詣りにいかないうちに私も自然と語りかけているのですから。

 

「お〜っ。ばあさんきたぞ〜」

「今きれいに拭いてやるぞ〜」

「今日も全然花がきれいに切り揃わんかったやね」

 

・・・

 

 

それはおばあちゃんのお墓詣りの様子をずっと見てきたからかもしれないし、なんとなく語りかけるとなんとなく私にも語り返しているようにみえるのかもしれない。まあ結局はよくわからないのですけど。とりあえず、はたから見たらちょっと怪しく見えているかも。私。

 

そうして一通りお墓の手入れが終わったところで、お線香を焚いて供えて。そこから軽く目をつむり、手をあわせる。最初の時にはこうして手をあわせる時にはいろいろとお願いをしていました。おじいちゃんの健康のことや、家族を見守っていてくれって。でも途中で気付くんですよね。これじゃあいつまでたって安心できないよなぁと。おばあちゃんは世話好きだったから大丈夫だとは思うけれども。

 

気がついてからは、なんとなく生前のおばあちゃんの顔を思い浮かべながら、私の近況を声にはださないけれども心の中で語りながら、なんとなく会話をしている感じで。最近はその時間が長くなってきていて、30秒くらいから、いつのまにか数分間以上そのままの状態でいることが多くなりました。

 

こうして目をつむり、手を合わせている状態の時。とてもココロが穏やかで、とても落ち着いた状態になります。風の通る感じや、木々が揺れる音などが大きく一体となって感じます。五感が研ぎ澄まされていくのか、一種の集中している状態なんだと思いますが。そうして目を開けた時には安らぎというか、チカラがみなぎる感覚があります。もしかしたらおばあちゃんが・・・と思いながらも、これも私がそう思っているから。実際にそうなるのかもしれないけれど。

 

 

それにしても、地元に帰っても無理をしなくなりました。日常的にお酒も飲まなくなってしまったので、一人で街に繰り出して飲みに行くって発想もでてこなくなりまりました(といって、そんな余裕がないだけですが)これもおじさん化なんでしょうか。こういうとまた怒られそう。

 

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いつものたい焼きはかかさずでした。

 

ひさびさに見た海はちょっと荒れていたけれど。磯の香りを強く感じ。内陸の人たちが海へと向かう気持ちがなんだか少しだけ、わかった気がしました。